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かつてザールブルグで・・・ Vol.1


<現在>−1

「こんにちは〜」
今日もいつものように元気よく、エリーは『飛翔亭』の扉を押し開けた。
エリーは、錬金術を教える魔法学院ザールブルグ・アカデミーの生徒である。しかし、入学試験の成績が悪かったため、学生寮に入ることができず、アカデミーが管理している工房に住み、自活している。
生活のためには、魔法のアイテムの調合や採取の依頼を受けて、報酬を稼がねばならない。その依頼が多く集まってくるのが、ここ、酒場『飛翔亭』だ。
『飛翔亭』は、ザールブルグでもっともにぎやかな一画、『職人通り』のほぼ中央にある。エリーの工房からも遠くはない。

中に入ると、右側にカウンターがあり、色とりどりのラベルが貼られた酒壜やグラスが並べられた棚を背に、ふたりの中年男性が並んでいる。背格好や顔つきが似ていることから、ふたりが兄弟であることがわかる。
午後の早い時間であることもあって、店内はすいていた。
手前のテーブルの指定席に朝から晩まで座っている酒好きの老人と、奥の酒樽にもたれかかるようにして暇そうにしている赤マントの大柄な冒険者ハレッシュの他に、客の姿はない。
右手を上げて合図するハレッシュに会釈し、エリーはカウンターに向き直る。
カウンターの奥には店主のディオが、手前には弟のクーゲルがいる。

オレンジ色を基調にした錬金術服を身に着け、輪の形をした手製の帽子をかぶったエリーは、まずクーゲルの方に歩み寄った。
元冒険者で、王室騎士隊に所属していたこともあるクーゲルは、ザールブルグの名家や貴族とのコネクションを持っている。そのため、クーゲルの元に寄せられる依頼は、高額な報酬のものが多い。もちろん、高額な分だけ高度な技術を要するアイテムや、採取が難しい品物を要求されるのだが。
最初のうちは品質の低い品物を持ちこんでクーゲルにしかめ面をさせることも多かったエリーだが、経験を積み、錬金術の技術が向上するにつれて、依頼人を満足させる品物を届けることができるようになっていた。

「こんにちは、クーゲルさん」
エリーはにこやかに話しかける。
口髭をたくわえたクーゲルは、いつもほとんど表情を変えない。
しかし、今日のクーゲルはエリーの次の言葉を待たずに話しはじめた。
「実は、依頼人のひとりから、お嬢さんを指名しての依頼が入っているのだよ。店の評判にも関わることなので、ぜひ引き受けてもらいたいのだが・・・」
落ち着いた、穏やかな口調でクーゲルは続ける。
「依頼人は、さる高名な画家だ。アイオロスという名前を、耳にしたことがあるだろう。お嬢さんには、いつも『絵のモチーフ』をお願いしていたのだがな」
「またなにか、モチーフになる珍しい品物を用意すればいいんですか」
エリーが尋ねる。クーゲルは、口元に微少らしきものをかすかに漂わせ、
「いや、そうではない。依頼の内容は、お嬢さんをモデルに絵を描きたいというのだそうだ」

「へ? モデル?」
エリーが目を丸くする。画家のアイオロスといえば、ザールブルグで知らぬ者はないという巨匠である。しかも、気むずかしく、自分が気に入ったものしか描かないという噂を、以前にディオから聞いたことがある。
「モデルの期間は、ほぼ1週間だそうだ。その間は、毎日アイオロスのアトリエに通ってもらわねばならないが・・・」
クーゲルの言葉に、エリーは少しの間、考え込んだ。依頼を引き受ければ、まるまる1週間、調合や研究ができなくなってしまう。
しかし、今のところ急ぎの仕事は入っていない。
「わかりました。お引き受けします」
エリーの返事に、クーゲルはうなずいた。
「依頼人には、私の方から連絡しておく。さっそく、明日から行ってくれたまえ。よろしく頼む」

翌日、エリーはクーゲルが書いてくれた地図にしたがって、ザールブルグの高級邸宅街に足を踏み入れた。
王城の近く、中央広場を挟んだ西側に広がるゆったりした屋敷町には、ドナースターク家やローネンハイム家といった名家旧家が建ち並び、公園のような広々とした庭が広がっている。
庭木でさえずる小鳥の声に誘われるように、エリーはふと立ち止まり、青々とした芝生を見やった。
(普段の仕事着でいい・・・って、クーゲルさんは言ってたけど、本当にこんな錬金術服でよかったのかなあ)
エリーは心の中でつぶやく。かと言って、よそ行きのドレスなどを持っているわけではない。
(やっぱりアイゼルに頼んで、きれいな服でも借りてきた方がよかったんじゃないかなあ)
しかし、同期生で貴族の令嬢でもあるアイゼルがこのことを知ったら、何を言われるかわかったものではない。
(あなたみたいな田舎者がアイオロスのモデルですって!? なにかの間違いじゃなくって?)
眉をひそめたアイゼルの高飛車な言葉が、耳元で聞こえてくるようだ。
エリーは首を2、3回振って決心し直すと、なめらかな石畳の舗道に歩を進めた。

「ここだ・・・」
エリーが足を止めたのは、周囲の屋敷と比べるとこじんまりとした、しかし趣味が良さそうな、感じのよい邸宅の前だった。
いくぶんか緊張しながら、エリーは玄関に歩み寄ると、神話に出てくるような想像上の動物をかたどったノッカーを叩く。
しばらくの後、重厚な樫作りの扉がゆっくりと押し開けられる。
「やあ、よく来てくれたね」
意外にも若々しい声が、エリーを迎えた。
扉の奥から現われたのは、画家アイオロス本人だった。



<過去>−1

「ふう・・・」
右肩に背負っていたザックとイーゼルを左肩に持ち直し、右手で額の汗をぬぐう。
夏の日差しに照らされ、草原の中の一本道を歩いて来たその青年は、まだ少年と言ってもいいくらい、希望に満ちた純粋そうな顔つきをしていた。
深緑色のチュニックに、膝までの茶色い半ズボンをはき、色褪せた赤いバンダナで長めの髪をまとめている。頭上に広がる空の色をそのまま映し取ったかのような青い瞳が、目の前に大きく開かれたザールブルグの外門を見つめている。
「やっと、着いた・・・。ここがザールブルグか」
感極まったようにつぶやく彼の名は、アイオロスといった。

背負ったイーゼルと、ザックからはみ出している数本の絵筆の柄が示すように、彼は絵を描くことを生業としていた。
故郷を旅立ち、シグザール王国の王都ザールブルグで名を上げることを目指して、アイオロスはいくつもの山や森を越えて来たのだった。通り過ぎる町や村で似顔絵を描いたり、旅の途中で描きためたスケッチを売ったりして、わずかな路銀を稼いできた。宿賃の代りに、宿屋の家族の肖像画を描いて、置いてくることもあった。
ほとんど文無しに近かったが、アイオロスの胸は希望にふくらんでいた。
ここザールブルグでは、年に1回、大きな展覧会が開かれるという。そこで認められれば、王室や有力貴族の後ろ盾を得ることができる。もしかしたら、王室おかかえの絵師になることも夢ではないかも知れない。
「よし!」
意を決したようにつぶやくと、アイオロスはザールブルグへの第一歩を踏み出した。

『職人通り』と呼ばれる下町の安下宿に落ち着くと、アイオロスは翌日から画材を持って街に出た。
『職人通り』は人の行き来が多く、たくさんの露天商が競うように店を広げていた。野菜や果物、干し肉や干した魚を扱う食料品の店から、装飾用の小物や布地を商う露店、さらに占い師や大道芸人までが、石畳の舗道にひしめきあい、道行く人の注意をひこうと声をはりあげていた。
アイオロスも、なんとか通りのはずれに隙間を見つけ、幾枚かのスケッチを広げ、イーゼルを立てて画板を置き、風で飛び散らないように紙をピンでとめた。
こうして店開きしてみたものの、他の商人たちのように大声をあげて客を呼びこむのは、どうも気が進まない。
ここまで旅の途中で立ち寄った町や村では、絵描きが珍しかったためか、人々の生活がのんびりしていたためか、道行く人が自然に足をとめ、彼の絵に見入ってくれた。ところが、ここザールブルグではまったく勝手が違っていた。
行き来する人はせかせかと早足で通り過ぎ、足をとめることはおろか、歩を緩めることすらしてくれない。子供を連れ、買い物の袋をかかえたおかみさんや、大工道具をかついだ職人、荷を積んだ馬を引いた旅の商人など、行き過ぎる人々それぞれが目的に向かって邁進し、それ以外のものには目もくれないかのようだ。
何日か、同じ場所で店を開いてみたものの、ひとりのお客もついてはくれなかった。

隣で店を構えていた果物売りの商人が、見かねたように声をかける。
「なあ、あんた、黙って突っ立っていたって、客は来ちゃくれないぜ。商売仇はたくさんいるんだ。他人を押しのけてやるくらいの気持ちがなけりゃ、ここではやっていけないよ」
「絵の腕には、自信があるんですけど・・・」
つぶやくように言うアイオロスに、果物売りはみずみずしい大粒のブドウを差し出しながら、言いにくそうに言う。
「う〜ん、俺はこの町で商売を始めて10年近くになるが、あんたくらいの腕の持ち主ならごまんといるぜ。嘘だと思うなら、『中央通り』の画廊をのぞいてみなよ」

翌日、アイオロスは商売を休み、『中央通り』をぶらついてみた。
『中央通り』は『職人通り』と異なり、露天での商売は許されていない。貴族が乗る豪華な馬車が行き交い、王室騎士隊の騎士が要所に配置されて、にらみを効かせている。
高級な煉瓦造りや石造りの商店のショウウィンドウには、宝石をあしらったきらびやかな装飾品や絹のドレスなどが飾られ、人目をひいていた。
それらの店の中に、何軒かの画廊があった。そこには、ザールブルグでも一流と言われる画家たちの描いた絵が展示してあるという。
画廊の中は狭かったが、こぎれいにまとまっており、ひとめで上流階級とわかる服装をした男女が、飾ってある絵をゆったりとながめていた。

決してきれいとは言えない自分の服を見て、足がすくんだアイオロスだったが、勇気を奮い起こして中へ入ってみる。
誰にもとがめられることなく、絵をながめることができた。
そこに並べられた風景画や人物画を見て、アイオロスは愕然とした。
タッチといい色合いといい、差は歴然だった。
それらの絵に比べたら、自分が描いた絵は、どんよりとくすみ、まるで生気がないように思える。
どうしたら、このように自然に近い色彩、細やかなタッチが出せるのだろう。
まだ陽は高かったが、そのままふらふらと下宿に戻ったアイオロスは、固い藁のベッドに仰向けになり、深夜までまんじりとしなかった。

そして、朝が来ても、彼は筆をとる気になれなかった。
ついこの間まで自信と希望に満ち溢れていた青年は、すっかり自信を失っていたのだ。
しかし、働かなければ収入は得られず、下宿代も払えない。
一時、他の職に就くことも、そうしようと思えばできた。でも、それは志した道を諦めることにつながってしまう。そう感じていたアイオロスは、何も手につかず、ぼんやりと過ごしていた。
そしてついに、下宿も追い出されてしまった。
彼はのろのろと中央広場まで歩いていき、『妖精の木』と呼ばれる大きな木の下に座り込んで、うつろな目で忙しげに行き交う人々をながめていた。
まだ季節は暖かく、野宿をしても凍えてしまうようなことはなかった。しかし、満足に食べる物もなく、日々を過ごすうちにアイオロスは次第に衰弱していった。

そんなある日・・・。
ザックを枕にうつらうつらしていたアイオロスは、なにかに突つかれるのを感じて、うっすらと目を開けた。
ふたりの子供が、大きな瞳でアイオロスをのぞきこんでいた。そのうちのひとりが、小枝で彼の身体を突ついたのだ。
最初に感じたのは、双子かな、という思いだった。
それほど、ふたりの少女は背丈も同じで、似通っているように見えた。
しかし、よく見ると、髪の色や顔つきが違っている。それより驚いたのは、ふたりとも瞳の色が左右で違っていることだった。

「ちょっとイングリド、よしなさいよ、いたずらするのは!」
頭に奇妙な帽子をかぶった少女が、連れをつついて言う。
イングリドと呼ばれた少女は、ゆるやかにウェーブがかかった薄水色の髪をかきあげながら、アイオロスを見下ろして言う。
「だってヘルミーナ、このお兄ちゃん、具合が悪そうだよ」
「まさか、あなた、この人をうちに連れて帰ろうと思っているんじゃないでしょうね」
「そうよ。いけない?」
「ばかなこと言うんじゃないわよ。うちだって、食べていくのが精一杯じゃない。他人を気遣う余裕はないのよ」
「それは、そうだけど・・・。とにかく、あたし、リリーお姉さんに聞いてくるわ。あなたはここで待ってて」
「ちょっと待ちなさいよ、イングリド! わざわざ厄介事を背負い込むことはないでしょ!・・・あ〜あ、行っちゃった。仕方ないわね」
大人っぽい口調でつぶやくと、ヘルミーナと呼ばれた少女は、腰に付けた小物入れをごそごそと探し、ガラスの小壜を取り出すと、アイオロスの手に押し付けた。
「とりあえず、この『栄養剤』を飲みなさいよ。元気が出るから」

これが、運命の出会いであることを、アイオロスはこの時、知る由もなかった。



<現在>−2

「それにしても、ちょっとびっくりしました」
休憩時間になり、アイオロス自身がいれてくれた薫り高いハーブティーをすすりながら、エリーが言う。慣れないポーズをとっていたせいで、身体のあちこちがこってしまっていた。
「何を、そんなに驚いたのかね」
サンルームにしつらえられた丸いティーテーブルの向こうから、アイオロスが穏やかに尋ねる。
「いえ、その・・・」
エリーはくちごもった。しかし、優しくうながすような画家の瞳に勇気づけられて、言葉を続ける。
「“巨匠”って言われるくらいですから、てっきりもっとお年を召した方だと思っていたんです。それと、噂で聞いていた限りでは、もっと怖い方だと・・・」

上品なティーカップに指を掛け、ゆったりと椅子に掛けているアイオロスは、40代半ばだろうか。ダークブラウンの髪の毛は生き生きとし、白いものは少しも混じっていない。その表情豊かな空色の瞳は、若々しく、探求心と好奇心に満ち溢れているように思えた。
エリーの言葉を聞いて、アイオロスは声をあげて笑った。
「はははは、年齢と才能とは、必ずしも比例するものではない。きみ自身が、そのいい例ではないか」
「はあ・・・」
「その若さで、ザールブルグでも評判の、腕のいい錬金術師ではないか。もちろん、努力と経験も必要であることは間違いないが」
「いえ、わたしなんか、まだまだです」
「いや、そんなことはない。私の依頼に応えて揃えてくれた『南の国の楽器』や『神々の石像』など、みな素晴らしい出来で、私に霊感を与えてくれたよ」
アイオロスは東の国で作られたらしい陶製のポットを取り上げ、エリーと自分のカップにお茶を注ぎ足す。

「それと、もうひとつの噂の方だが、きみは私がどういう人間だと聞いてきたのだね?」
アイオロスの目にいたずらっぽい表情が浮かぶ。エリーは、正直に話した。
「ええと、すごく気むずかしくて、自分の気に入った絵しか描かない、偏屈な人だ・・・って」
「ははは、それはだいたい当たっているよ。ザールブルグはおろか、隣国のドムハイトや北方の諸国にも、私の絵を屋敷に飾りたいという貴族や金持ちはたくさんいる。だが、それらの依頼に全部応えていたら、私が本当に描きたいものは描けなくなってしまうだろう。若い頃、金がなかった時は、どんな依頼でも喜んで受けたものだが、今は金もあるし、それなりの地位を築くこともできた。あとは、自由に好きなものだけを描いて過ごしたいのだよ」
エリーは、画家の笑顔を見ているうちに、どうしても気になっていた疑問を口に出してみる気になった。相手の機嫌を損ねてはいけないと、黙っていようと思っていたのだが。

「あの・・・。ひとつ聞いてよろしいでしょうか」
「ん? なんだね?」
「なぜ、わたしをモデルにしようと思ったのですか?」
「ふむ・・・」
アイオロスは少し考え込んだ様子だった。が、すぐに目をあげ、エリーをじっと見つめる。
「ひとつは、いつも素晴らしいアイテムを届けてくれるきみにお礼をしたかったということ。もうひとつは・・・」
アイオロスの視線はエリーをそれ、はるかな遠くを見るような表情になった。
「錬金術というものに対する感謝の気持ちかな。なにしろ、あの錬金術師たちとめぐり合わなかったら、今の私はなかっただろうからな・・・」
そして、アイオロスは四半世紀以上も昔のことを、語りはじめた。



<過去>−2

ふたりの不思議な少女、イングリドとヘルミーナは、ひもじさと絶望とで半病人のようになっていたアイオロスを、自分たちの家に連れて帰った。
もちろん、10代はじめの少女だけでは、ふたりがかりでも、ぐったりと力の抜けた青年の身体と荷物を運ぶことはできなかったろう。イングリドが戻ってくる時に連れてきた、がっしりした中年男性が自分を抱いて運んでくれたことを、アイオロスはぼんやりと覚えている。
その家というのは、『職人通り』のはずれにある、古ぼけた工房だった。2階建ての造りになっており、1階は大きな釜が置かれた作業場と寝室、2階はふたつの寝室があったが、少女たちふたりが使う寝室には小さな作業台があり、そこでも作業ができるようになっていた。
アイオロスはゆったりした寝間着に着替えさせられ、1階の寝室のベッドに寝かされた。長い栗色の髪をふたつに分けて束ねた、活発そうな10代後半の少女が、朝と晩に、薬と食事を運んで来てくれた。

体力が回復するまでの数日、アイオロスはベッドに入ったまま、ぼんやりと過ごしていた。
時々、『妖精の木』の下で彼に声をかけてくれた少女のどちらかが、ひょいと顔をのぞかせる。その度に、アイオロスは弱々しくではあったが、微笑んでみせた。
ベッドで耳をすませていると、いろいろな音が飛び込んでくる。
2階からは、ガラスや金属が触れ合うカチャカチャという音や、時おり小さな爆発音が聞こえる。それ以上に頻繁に聞こえてきたのは、小鳥がさえずるような、ふたりの少女が言い争う声だった。
(何をそんなに喧嘩のネタがあるんだろう・・・。でも、喧嘩するほど仲がいい、とも言うからな・・・)
アイオロスは夢うつつで考えた。
1階の作業場からも、なにかをすりつぶす音や、ぐつぐつと釜が煮える音などが聞こえて来る。しかし、この工房がどのようなものを売り物にして商売をしているのか、アイオロスには見当がつかなかった。お客も、ほとんど訪れた気配がない。
(いったい何をしているんだろう・・・。それに、ここで暮らしている人たちは、どういう人たちなんだろう。家族というふうにも見えないし・・・)
いぶかしく思いながら、それを聞くのも気がとがめて、アイオロスは眠りに落ちるのだった。

ある朝。
アイオロスは、さわやかな気分で目覚めた。
昨晩までの、頭の中がもやもやしているような気分は消え去っている。
ベッドで半身を起こしてみたが、めまいもしない。
部屋の隅に、イーゼルやザックと一緒に、彼が着ていたチュニックと半ズボンが、きれいに洗濯され、たたまれて置いてあった。
ゆっくりとベッドから足を下ろす。少しふらついたが、しばらくすると、下半身もしゃんとしてきた。
手早く着替えて、そっと隣の作業場をのぞく。
「あ、あの・・・」
おずおずと声をかける。

本を片手に、棒で釜の中身をかき混ぜていた栗色の髪の少女が、振り向いた。
「あら、良かった。元気になったのね」
その声を聞きつけたのか、2階からふたつの靴音がパタパタと階段を駆け降りてくる。
「あ、お兄ちゃんが起きてる!」
「良かったね!」
イングリドとヘルミーナは、アイオロスのそばに駆け寄って、はしゃいだ声で口々に叫ぶ。アイオロスの顔も、思わずほころぶ。
ふたりの少女が落ち着いて初めて、アイオロスは改めて、栗色の髪の少女に向き直った。

「あの・・・ありがとうございます。助けていただいて・・・。すっかり世話になっちまって・・・」
うまく言葉で自分の気持ちを表現できないのがもどかしい。
だが、アイオロスの感謝の気持ちは少女に十分に伝わったようだった。
にっこり笑って、少女が答える。
「あら、いいのよ。困っている人を助けるのも、わたしたちの仕事ですから・・・。あ、紹介がまだだったわね。わたしはリリー。一応、この工房の主人よ。そっちのやかましいふたりは、イングリドとヘルミーナ。それはもうご存知だったかしら?」
リリーの言葉を聞いたイングリドとヘルミーナは、ふくれっ面をして見せた。
「俺の名前はアイオロス。仕事は・・・」
言いかけて、アイオロスはくちごもる。リリーが引き取って言う。
「・・・絵描きさんね。荷物を見ればわかるわ」
だが、アイオロスの表情がくもったのを見て口をつぐんだ。

話題を変えようと、アイオロスが言う。
「ところで、この工房は、何をするところなんですか?」
イングリドが言う。
「表の看板を見ればわかるわよ」
言葉につられて、外に出てみる。
木彫りの看板には『リリーのアトリエ』と刻まれており、その脇の貼り紙には、
「薬品、魔法の道具、その他、よろずアイテムのご用命、うけたまわります」
という言葉が書いてあった。
「魔法・・・?」
釈然としない思いで、中に戻る。
「どう、わかったでしょ?」
イングリドの言葉に、あいまいな笑みを浮かべ、自分でも間が抜けているな、と思いながら、言った。
「で、要するに・・・何なんですか?」

ヘルミーナが、大げさにため息をつく。
「ほら、やっぱりね。あたしが言った通りでしょ。まだまだ世間には知られていないのよ、あたしたちの仕事は」
情けない表情を浮かべたアイオロスに、リリーは答えた。
「わたしたちがやっていることは、物事の本質を研究して、それを慎重に制御することによって、まったく別の物質を作り出すこと・・・『錬金術』なのです」
「あ〜、ドルニエ先生が言ってたこと、そのままだ」
「進歩な〜い」
イングリドとヘルミーナがはやしたてる。
「う、うるさいわね!」
リリーがどなる声も、アイオロスの耳には遠く聞こえた。
『錬金術』・・・それは、世界のあちらこちらを旅してきたアイオロスにとっても、初めて耳にする言葉であった。



<現在−3>

「さて・・・と。だいたいできたようだ。ご苦労だったね」
絵筆を動かす手を休め、アイオロスは優しく言った。
「いえ、こちらこそ、ありがとうございました」
エリーは答え、大きく伸びをする。
イーゼルに掛けられた大き目のキャンバスの表面は、エリーの方からは見えない。シグザール王国きっての巨匠と名高い画家アイオロスの筆は、エリーの姿をどのようにキャンバスに写し取っているのだろうか。
「後は、私ひとりで作業できる。全体の構成を見直し、いくつか背景に手を加えるだけだからね」
アイオロスは機嫌がいい。自分でもいい仕事をした手応えを感じているのだろう。

「あの・・・、やっぱり、まだ見せていただけないんですか?」
エリーが残念そうにきく。
下絵のクロッキーの段階から、色付けの最終段階に至るまで、アイオロスは途中の絵を決してエリーに見せようとはしなかったのだ。
「ああ、申し訳ないが、未完成の作品をひとの目にさらすのは、私の主義に反するものでね。たとえ、その相手がモデル本人であってもだ」
(やっぱり、そのあたりが、気むずかし屋で偏屈な所以なのね・・・)
エリーは心の中でつぶやき、そっとため息をつく。

この1週間というもの、エリーはあらゆる面で画家の要求に応えてきた。
椅子に掛けたり、柱に寄りかかったり、様々なポーズを取ることはもちろん、ガラス器具や天秤、ランプにろ過器など、いろいろな錬金術の道具も持ちこんだ。果ては、アイオロスの言葉にしたがって実際に調合までして見せたのだ。
それだけ苦労したのに、まだ完成するまでは絵を見せてくれないという。
「そうですか・・・。それじゃ、仕方ないですね。完成するまで待つことにします」
「ああ、絶対に素晴らしい作品に仕上げてみせるさ。今度、開く予定の私の個展の目玉になることまちがいなしだ。楽しみにしていてくれ」
と、アイオロスは描きかけの絵にカバーをかけ、立ち上がった。

エリーは、持ち込んでいた道具やアイテムを片付け、かごに入れる。
「それじゃ、失礼します」
画家は、玄関まで見送りに来てくれた。
そして、空を見上げ、アイオロスはつぶやいた。
「そう言えば、あの絵は今、どこにあるのだろう・・・?」

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