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冬の終わる夜


Episode−1

コンコン。
いつものように、エリーの工房にノックの音が響く。
「は〜い、開いてま〜す!」
エリーの返事も、いつも通り元気がいい。
そして、来客が誰か気付くと、エリーの顔はもっと明るくなった。
「あ、ノルディス。どうしたの?」
「うん、いつもエリーに頼ってばかりで悪いな、とは思ってるんだけど・・・」

ザールブルグ・アカデミーの同級生で、学年主席のノルディスは、すまなそうに切り出す。
「『黄金色の岩』なんだけど、6個ほど分けてもらえないかな?」
ノルディスは、成績優秀なだけに勉強家でもあり、いつもアカデミーの図書室や研究室で錬金術に取り組んでいる。それだけに、材料を採取に出かけることが少なく、足りない材料があると、しばしばエリーに入手を頼みに来るのだ。
もちろん、工房を開いて自活しているエリーを手助けしたいという気持ちもあることは確かだが・・・。

用件を聞いたエリーは、天井を見上げて考え込む。
「『黄金色の岩』かあ・・・、在庫、あったかなあ。・・・ねえピコ、あなた覚えてない?」
作業台の上にちょこんと座り、乳鉢でカノーネ岩をすりつぶしている黄色い服と帽子の妖精に尋ねる。
「ええと、この前ぼくが採取してきて、倉庫のいちばん奥に入れたと思いますけど・・・わあっ!

軽い爆発音がして、作業台の上に煙が吹き上がる。
「ちょっと、ピコ、大丈夫? 火属性の材料を扱う時は、注意しなくちゃ」
帽子と服に焼け焦げを作ったピコをたしなめ、工房の隅に作られた半地下の倉庫の上げ蓋を引き上げるエリー。
「だって、お姉さんが話しかけるから、手元が狂っちゃって・・・。はああ、森へ帰りたい・・・」
ピコのつぶやきは、エリーの耳には届いていない。いつも見慣れた情景に、思わず顔がほころぶノルディス。

エリーは、穴蔵のような倉庫に上半身を突っ込むようにして、依頼の品を探している。
「わあ、すっごい埃・・・。ここもたまには掃除しなきゃだめだね。あ、あったよ、『黄金色の岩』」
硫黄の臭いがする岩の塊を布袋に入れ、ノルディスに渡す。
「ありがとう、助かったよ。また頼むね」
代金を支払い、ノルディスは帰っていく。

埃が積もった倉庫の床を見て、エリーは一瞬、腰に手を当てて考え込んだ。だが、一大決心をしたようにうなずくと、戸棚から雑巾を取り出す。水で濡らすと、倉庫の床を拭きはじめる。

「あれ? 何だろう、これ」
先ほどまで『黄金色の岩』が置いてあった倉庫の奥に、薄いノートのようなものが落ちている。汚れと湿り気のため、床板と同じような色で貼り付いたようになっていたため、今まで気付かなかったのだろう。
そっと拾い上げ、表面にこびりついた汚れを指で掻き落として、表紙をあらためる。
「これって、マルローネさんの・・・!」
なんとか、表紙に書かれた名前は読み取れた。
しかし、ページをめくったエリーはため息をついた。薬品の染みや虫食いだらけで、ほとんど判読できない。それでも、ところどころは文字が読める。

気が付くと、エリーは床にぺたんと座ったまま、マルローネの覚え書きを判読するのに熱中していた。
ピコがおずおずと声をかける。
「あの・・・お姉さん? 倉庫の掃除、途中なんですけど、放っといていいんですか?」
エリーは顔も上げずに答える。
「いいわ、ピコ、後はあなたがやっといて」
(ああ、やっぱり言うんじゃなかった・・・)
後悔しつつも、ピコは自分の身体の半分ほどもある濡れ雑巾をかかえて、けなげに半地下の穴蔵に下りていく。

その時、エリーはノートの一節に目をとめて、驚きの声を上げた。
「えっ!? 千年亀が・・・ヘーベル湖に?」


Episode−2

その晩。
エリーは職人通りの酒場『飛翔亭』にいた。マルローネのノートを手に、ノルディスと、南国出身の踊り子ロマージュと3人でテーブルを囲んでいる。
今日は2月25日。5の倍数に当たっているので、ロマージュが『飛翔亭』で踊りを披露する日だ。
今もひと踊りして、休憩に入ったところである。

「で、このマルローネさんのメモを見ると、ヘーベル湖で千年亀を見たって書いてあるんです」
エリーが古ぼけたノートの一節を指さす。
「ふうん、それで、あたしに何がききたいのかしら」
ロマージュは、ほのかな色気が漂う、気だるげなゆっくりした口調で尋ねる。

「アカデミーの参考書には、千年亀は西の海辺にしか住んでいないし、数もとても少なくなっていると書いてあります」
ノルディスは、アカデミーの図書室から借り出してきた『シグザール博物誌』を開いて、千年亀に関する記事を示す。
エリーが引き取って、続ける。
「ヘーベル湖に千年亀がいるなんて、信じられないってノルディスは言うんです。でも、あたし、マルローネさんがでたらめを書いているとは思えないんです。ロマージュさんなら、いろいろなところを旅しているから、どこかで千年亀のことを聞いたことがあるかも知れないって思って・・・」

ロマージュは、カウンターにいるクーゲルから受け取ったゲルプワインのグラスをわずかに傾け、その赤い色を見つめながら、はるか遠くの地へ思いをはせるかのように考え込む。
「そうね・・・。そういえば、こんな話を聞いたことがあるわ。ただのお伽話だろうと思っていたけれど・・・」
頬杖を突き、ワイングラスをもてあそびながら、ロマージュは話しはじめる。

「大昔、まだこの大陸に人が住んでいなかった頃、ヘーベル湖はまっすぐ海とつながっていたんですって。その頃は、千年亀は自由に西海岸とヘーベル湖を行き来することができたわけね。でも、その後、大地が火を噴いて、ヴィラント山と、それに連なる山々が海岸地方とザールブルグを分断してしまったの。海辺にいた亀たちは生き延びたけれども、ヘーベル湖にいた千年亀は、他の生き物と一緒に、火山の熱で死に絶えてしまったというの。だけど、今でもヘーベル湖は、地下の水路で海とつながっているという話があるのよ」

ロマージュは言葉を切り、ワインを口に含む。エリーとノルディスは、一心に聞き入っている。
「それでね・・・。毎年、冬の最後の夜になると、西の海辺に住んでいる千年亀のうち、もっとも大きな亀が地下水路を通ってヘーベル湖にやってきて、岸辺に卵を産むんですって。信じるか信じないかは勝手だって、この話をしてくれた漁師のおじさんは言っていたけれど・・・。そういえば、あの漁師さん、昔の英雄が遺した財宝を探し出すんだなんて、夢みたいなことを言っていたわね。・・・うふふ、あたしの知っているお話は、これでおしまい」

カウンターの反対側に陣取った楽団が、『さすらい雲』の演奏を始めた。
「それじゃあね、うふふ」
ロマージュは残ったワインを飲み干すと、席を立ち、ふたたび踊りの準備にかかる。

「冬の、最後の夜か・・・」
ノルディスがつぶやく。
「なんか、ロマンチックな話だったね」
ワインを飲んだわけではないが、エリーは少しぼうっとしている。今の話に酔ってしまったかのようだ。

「そういえば、この前も冬の最後の夜って話、出なかったっけ? たしか、アカデミーで、アイゼルと一緒だった時に」
エリーが思い出したように言う。
「そうだ、『湖光の結晶』の話だ! あれも、冬の終わる夜に、ヘーベル湖でごく稀に見つかるって、参考書に書いてあったんだよ」
ノルディスが、はたと手を打つ。
『湖光の結晶』とは、ヘーベル湖の水が自然に結晶化したものだという。非常に珍しいアイテムであり、身に付けた者には幸運をもたらすとも言われている。しかし、エリーたちも参考書で知っているだけで、実物を手に入れたことはない。

「さっきの話と、なにか関係があるのかなあ?」
「さあ・・・。偶然じゃないのかな。あ、でも・・・」
ノルディスの知的な茶色の瞳が光った。
「冬の終わる日といえば、もうすぐじゃないか! 実際にヘーベル湖へ行って、確かめてみればいいんだよ!」
「そうか・・・そうだね! それじゃ、アイゼルを誘って、3人で行こうよ!」

はしゃいだ声を上げたエリーだが、なにかを思い出したように表情が沈む。
「あ・・・だめだ。あたしは行けないよ。ハレッシュさんに解毒剤を頼まれてて、期限がもうすぐだし・・・」
「そうか・・・」
ノルディスの表情もかげる。だが、エリーはすぐに明るい声に戻る。
「いいよ、ノルディスはアイゼルと行っておいでよ。ダグラスか、ルーウェンさんにでも一緒に行ってもらえばいいし」
その時、ひと踊りを終えたロマージュが戻ってきた。
「面白そうね。その話、あたしも付き合うわ。うふふ、あの話が本当かどうか確かめたいし。乗りかかった船ですものね、うふふふ」


Episode−3

そんなわけで。
今、ノルディスとアイゼルは、ヘーベル湖の岸辺の丈高い草むらに身を潜ませ、息を殺して真夜中の訪れを待っている。
空には満月が中天にかかり、冴え冴えとした青白い月光をふたりに注いでいる。
あたりの空気は冷たく澄みわたり、ゆっくりと吐く息が白い靄となってたちのぼる。
幸いなことに、風はほとんどなく、錬金術服にマントを巻き付けていれば、凍えてしまうほどではない。

この付近だけは、ヘーベル湖の岸としては珍しく、砂地になっているのだ。
もしロマージュの話の通り、千年亀が産卵に現われるとすれば、このあたりだろう。
当のロマージュは、一緒にやって来たのだが、
「寒いのは苦手なのよ・・・」
と、少し離れた場所でたき火にあたっている。もちろん、ここからはその火は見えない。

アイゼルも、こんな寒い晩にこのような場所にいるのは不満だらけのはずだが、ノルディスにぴったり寄り添っているためか、文句ひとつ言わない。
「そろそろ真夜中だよ」
ノルディスがアイゼルの耳に口を寄せてささやく。
「ええ、本当に、なにか起きるのかしら」

アイゼルの言葉が終わるか終わらないかのうちに・・・。
ふたりが見つめる湖面が、ゆらりと動いた。
水面が泡立ち、盛り上がり、なにかが浮かび上がってくる。
「!」
ノルディスが息をのみ、アイゼルがノルディスのマントをすがるようにつかむ。

水を切り、節くれだった岩の塊のようなものが、ゆっくりと岸辺の砂地に近づいてくる。
そして、ふたりが身動きひとつせず見守る中・・・。
両手で抱えきれないほどの大きさの甲羅を持つ黒褐色の動物が、不器用に、しかし着実に這い上がってきた。
「大きい・・・」
ノルディスが茫然とつぶやく。
「これでは、千年亀というより、万年亀ではなくって?」

アイゼルの言葉は、まさに当を得ているようだった。
巨大な亀は、ひれのような前足を使い、軟らかな湿った砂地に穴を掘っていく。
穴が十分な深さになると、千年亀は体の向きを変え、しっぽを穴の方に向ける。
亀は、しばらくの間、考え込む哲学者のように、動きを止めた。
だが、やがて、ひとつ、ふたつ、と白く真ん丸な卵を、穴に向けて産みはじめる。

「まあ・・・!」
息を殺して見ていたアイゼルが、小さく叫んだ。
じっと閉じられた千年亀の小さな目から、透明な液体がにじみ出るように現われた。
「泣いているのね・・・」
見つめるアイゼルの目もうるんできた。
ノルディスも、返す言葉もなくその情景に見入っている。

青白い月明かりに照らされ、荘厳とも言っていい千年亀の産卵は続く。
月光を反射し、宝石のようにきらめく千年亀の涙が、ひとしずく、またひとしずくと浅い湖面に落ちる。
しかし、落ちた涙はヘーベル湖の水に溶けることなく、青い月の光を宿したまま、水底にたゆたっている。
「まさか・・・!」
ノルディスはぎゅっと自分のこぶしを握りしめた。

無限に近い時間が過ぎたような気がしたが、おそらく1時間と経っていなかったろう。
産卵を終えた千年亀は、卵を守るかのように後足でゆっくりと砂をかけ、穴を埋める。
そして、来た時と同じように、悠然とした動作で、湖の中へ帰って行く。
甲羅のもっとも高い部分が軽い水音とともに水面下へ消え、湖面はふたたび鏡のように静まり返った。

茫然としていたノルディスは、はっと気付くと脱兎のごとく飛び出す。マントがぬれるのも構わず、先ほど千年亀がいたあたりの水底を探る。
固い、宝石のような手応えを感じ、それをそのまますくい上げる。
「どうしたの、ノルディス?」
事情を理解していないアイゼルが、いぶかしげに尋ねる。
ノルディスが振り向いて、説明しようとした時・・・。

黒い、邪悪な影がふたりの頭上をおおった。
「きゃあっ!!」
アイゼルが大きな悲鳴を上げる。
「な・・・!」
ノルディスも、恐怖で身がすくんだ。

闇のように黒い頭巾とローブに身を包んだ人影が、地面からわき出たかのように、ふたりの前に立ちふさがっている。頭巾の奥に隠されているのは、人の顔ではなく、青白く光る不気味な髑髏だ。やせ細った手には、一撃で人の体を真っ二つにしてしまえるほどの大きな鎌が握られ、その銀色の鋭い刃がぎらりと光っている。
「クノッヘンマンが! なんで、こんな場所に!?」
まさに死神そのものといった姿のこの魔物は、主にヘウレンの森を根城にしている。ヘーベル湖周辺に現われたなどという話は聞いたことがない。

魔物は、威嚇するように、頭上高く差し上げた大鎌を振り回した。
ノルディスはアイゼルをかばうように、木の杖を構えた。
アイゼルはノルディスの背後でうずくまり、ふるえている。
自分の魔法は、この怪物に通用するだろうか?
だが、なんとしても、アイゼルを守らなければ!

恐怖にくじけそうになる心を奮い立たせ、ノルディスは精神を集中させる。
握りしめた杖が熱を持ち、ぼうっと光りはじめる。
「いけるかっ!」
ノルディスの叫びと共に、白熱の光球が杖から魔物に向かって飛ぶ。
しかし、クノッヘンマンは素早く身をかわし、ノルディスの魔力のこもった光は目標を失い、ヘーベル湖の沖合いの闇の中へ消えていった。

「しまった!」
すぐに魔物の大鎌が襲う。なんとか防いだが、衝撃で杖は根本から折れ飛んでしまった。
魔物の髑髏の下から、勝ち誇ったような不気味な笑い声が漏れる。
ふたたび、鎌が振り上げられた。
(だめか・・・)

だが、次の瞬間、白い疾風が彼と魔物の間に飛び込んできた。

鋭い金属音に、ノルディスは我に返り、目を開く。
ロマージュが、両手に握った2本の短剣をたくみに操り、『飛翔亭』での舞と変わらぬ流れるような動きでクノッヘンマンの攻撃を受け流している。
今度の相手は手強いとみたのか、魔物は一瞬、後ろへ飛び退がった。

「さあ、ここはあたしにまかせて。あなたは、アイゼルを安全なところへ連れていって」
このような火急の時でも、ロマージュの声に切迫した響きはなく、どことなく色っぽい。
わずかに躊躇したノルディスだが、すぐに気絶寸前のアイゼルを抱きかかえるようにしながら、少しでも戦場から遠ざかるように走り出す。


Episode−4

クノッヘンマンとにらみ合いながら、ロマージュは五感を研ぎ澄ましていた。
走り去るノルディスの足音が消え、十分に離れたと納得すると、全身の緊張を解き、短剣を鞘に収める。
そして、いつものもの憂げな口調で、魔物に話しかける。
「ありがとう、もういいわよ。ごくろうさま、うふふ」

それを聞くと、クノッヘンマンは大鎌を後ろに放り出した。
頭巾とローブをはねあげると、盗賊の服に身を包んだ、細身だが均整のとれた身体が現われる。
最後に髑髏のマスクをはぎとると、そこにはまだ少女と言ってもいいあどけなさの残る若い女性の顔があった。

「えへへ、ちょっとマジになりすぎちゃったかな? でも、さすがのあたしも魔物に変装するのは初めてだったからね」
「うふふ。今回の役は、あなたにぴったりだと思ったのよ。あの子たち、つい先日もエルフィン洞窟でふたりきりにしてあげたんだけれど、思ったより進展がないんですもの。うふふ、ちょっと荒療治だったけど、効果はあるんじゃないかしら」
「そうだね。あたしも、あのアイゼルって娘には借りがあるからさ。少しは罪滅ぼしになったかな、なんてね。ま、昔の話だけど」
三つ編みにして背中に垂らした髪をかきあげ、抜け目なさそうな大きな目でロマージュを見つめると、怪盗デア・ヒメルことナタリエは、にっこりと笑った。

「それで・・・お礼なんだけど」
言いかけたロマージュを、ナタリエはさえぎる。
「お礼なんかいらないよ。あたしには、これで十分さ」
と、手にした白くて丸い卵をお手玉にして見せる。
「あなた、それって・・・」
目を丸くするロマージュに、
「千年亀の卵は、珍品好きのケプラーの親父に高く売れるからね。2、3個なら取ってったって構わないだろ? それじゃ、またなんかあったら、声かけてくれよ」

そして、ナタリエは大きくとんぼ返りをし、茂みの中に消える。
あとは、月光を反射する鏡のような湖面に、純白の踊り子の衣装を着たロマージュの姿が映っているばかりだった。
「相変わらずね、あの娘・・・」
ロマージュはくすっと笑うと、岸辺の倒木に腰を下ろした。そして、いつも携えている南の国の楽器を取り出し、ゆっくりとつま弾きはじめた。


Episode−5

「はあ、はあ・・・」
「はあ、はあ・・・」
息が切れるまで走って、ノルディスはアイゼルをかばうように後方を振り返る。
はじめて出会った死神のような魔物の恐怖が消えないのか、アイゼルはまだ、がたがた震えている。

ノルディスは、マント越しにアイゼルの細い身体をそっと抱きしめ、赤ん坊をあやすように語りかけ続けた。
「アイゼル・・・大丈夫だよ。もう怖くない・・・。しっかりするんだ・・・。大丈夫、何もいないよ・・・」
それは、自分自身を勇気づけるための言葉でもあった。
ようやく、アイゼルの震えがおさまってきた。

「ノル・・・ディ・・・ス・・・」
最初のショックが消えたアイゼルは、今度はノルディスのマントにすがり、泣きじゃくる。
ノルディスはどうしてよいかわからず、ただアイゼルの栗色の髪を優しくなでるだけだった。

ひとしきり泣いたアイゼルは、やがて我に返ったように息をのむ。
「ねえ! ロマージュさんは!?」
ノルディスもはっとする。ここまで、アイゼルのことを気遣うのに精一杯で、魔物と一緒に残ったロマージュのことを忘れていたのだ。
だが、ノルディスは別れ際にロマージュが見せた、落ち着いた口調と自信にあふれた瞳を思い出した。

「大丈夫だよ、きっと。ロマージュさんは、百戦錬磨だもの・・・」
「でも・・・でも・・・」
その時、南の国の楽器の静かな調べが、かすかに聞こえてきた。
ロマージュが、いつも野営する時につまびく、物悲しいメロディだ。
「ほら・・・。ロマージュさんは無事だ。もう、大丈夫だよ」
「ええ・・・」

安心したのか、アイゼルは柔らかな草むらにぺたりと座りこむ。
肩を抱くように、無意識に寄り添うノルディス。

と、東の森の向こうの空が白々と夜明けの色に染まりはじめる。
この時、ようやくノルディスは、自分の右手が水晶のようなかけらを握りしめているのを思い出した。
『湖光の結晶』・・・。 冬の終わる夜、ヘーベル湖に産卵に訪れる千年亀が流した涙が、湖水の中で結晶となったものだ。

まるで月光を吸い取ったかのように、澄み切った青い輝きを放っている。
その手触りは、しっとりとしているが、握っていても氷のように溶け出したりはしない。
親指と人差し指でつまみあげ、しげしげと目の前にかざす。
森の向こうから、夜明けの最初の光が射す。
「あ・・・」
ノルディスは絶句した。

夜明けの黄色い光を受けた『湖光の結晶』は、冴え冴えとしたサファイア色から、深みのあるエメラルド色に輝きを変えていた。
それは、アイゼルの瞳の色と寸分変わらなかった。

冬の最後の夜が、終わりを告げようとしていた。
そして、今、昇ってくるのは、春の最初の1日の訪れを知らせる、暖かな太陽だ。
3月1日。
ノルディスは、アイゼルの右手をそっと開かせ、『湖光の結晶』を載せると、自分の両手で包み込んだ。
「アイゼル・・・その、つまり、この前もらった誕生日のプレゼントのお返しだよ・・・」

アイゼルがはっとノルディスの顔を見る。
冬の終わる夜が明ければ、自分の誕生日だという事を、アイゼルはすっかり忘れていたようだ。
ノルディスは、今度ははっきりと告げた。

「アイゼル・・・。誕生日おめでとう」

<おわり>


○にのあとがき>

「アルベリヒの舞」の続編として、なかじまゆらさんの「Salburgs Museum」に寄贈した作品です。(こちらにアップするに当たって、少しだけ手直ししました)
続編とは言っても、ストーリー自体は独立したものです。ただ、「アルベリヒ」でアイゼルから誕生日のプレゼントをもらったノルディスが、20日後のアイゼルの誕生日にお返しをするという設定ですので・・・。

『湖光の結晶』とか、ヘーベル湖の千年亀とか、『マリー』で出てくるアイテムやエピソードを使っていますので、『マリー』をプレイしたことのない人には、ピンと来なかったかも知れません。

今回も、黒幕あやつり人形師・ロマージュ姉さんが暗躍しますが、作者としては、ただただ、ナタリエちゃんを出演させたかった! という一言につきます(←おい)。

ところで、さりげなくユーリカの父ちゃんが出てきたのに、気付きました?


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