【 序 】
はじめに言葉ありき。人間は言葉によって人になります。優しい言葉を使うとき,人は優しくなれます。多くの人がしつけの悪い子と思う子どもは,言葉遣いの悪い子です。
人を育てようとするなら,美しい言葉を伝授することが基本になります。若者の言葉世界はいたって貧相です。言葉が貧しいところに豊かな心の花が咲くはずもありません。
この論文では,若者の言葉に欠けている空間認識が「第三次元と時間」であることを提示し,さまざまな面から検証したものです。大人の感じている若者への違和感が何かを明らかにしようとする論評は数多いのですが,いずれも具体に引きずられて個別的な解釈の段階に留まっており,実践活動の指針とはなりません。
教育界においても幾多の改善が提唱されていますが,その統一的目的が整理されていないので,現場では困惑だけが広がっています。これ以上新しい方策を重ねるよりも,現在向かおうとしている実践の目的を明らかにすることが急務であると考えています。
最近の若者が見せる行動に戸惑いを感じている大人たち,いまどきの若い者は何を考えているのか分からないという巷の感想,そのような状況を読み解くキーワードを探すことが本論考の目的です。手がかりは,「住む次元が違っている」という素直な直感にあります。
考えるという行為は人の特質であり,それはまた言葉を使って可能になります。そこで,若者を読み解く作業をするためには,まず若者の言語生活が持っている特徴を紡ぎ出し,それを,若者がどのように考えているか,その思考形態に移し替える必要があります。本考察は,そのような特徴を見つける補助指標として「次元」という概念に依拠しようという試みです。
【1】 平面的思考
面と向かっては話せないが,携帯でなら話せるらしい,そんなことを伝え聞きます。このことから読みとれることは,言葉に付随する背景,つまり表情や場所,雰囲気といった情報が邪魔になるということです。言葉が持っている深さや含意などは洗い流されて,上澄みのメッセージだけに用があることのようです。すなわち,実体的な言葉を平面に投影した影絵的な言葉にしないと受け付けない体質になっています。
国語力の低下が心配されています。その原因として,本を読まなくなったという調査結果があげられます。この推論もまた平面的です。本を読まないということは国語力の低下と同一次元にある事象です。因果関係にはなりません。原因は言語の質が違っていることです。若者の身につけている言語と国語力である言語とは違っているという点に注目しなければなりません。
言葉とは本来記憶化されている人の体験を意識世界に引き出すラベルです。恋を経験したから恋という言葉が意味を持ち,恋をした経験者に通じます。体験という根っこ,それは言葉の深みであり厚みであって,それ故に言葉は立体的,三次元的です。恋という言葉には,切なさ,甘さ,若さなどの要素が含まれていて,一つの塊となったイメージを紡ぎ出します。それ故に具体が抽象性を帯びるということができます。この深みによって,他の言葉とのつながりを可能にします。つながるから文章が書けて,文章を重ねることでさらにイメージを構築していけます。言葉がレンガ状になっているからです。
一方で,若者はつきあう,Hするといった直截な表現を好みます。単刀直入と言えばそれまでですが,その表現には深みがないので,他の言葉とつながりません。恋文といったような複合語はもちろん作れませんし,文章にもなりません。単語としてしか使用不可能です。言葉が点状あるいは平面状ですから,まとまったイメージを構築することは無理です。メール文化によって言葉の短縮化が一層進み,言語空間の縮小化も重なってきました。異年代には通じない言葉によって若者世界はスライスされていきます。これもまた平面化になります。
文章表現は,言葉をどのような順番で並べるかによって,一つのイメージを作り出します。文章の句読点が現れるまでは,一つ一つの単語を一時記憶しておいて,文章全体で意味を理解しなければなりません。言葉の溜が必要であり,最後まで聞かないと分からないのです。その間は理解を一時停止して,言葉のつながり方に神経を集中することが求められます。句読点になって,一気にイメージが開きます。文章の中で言葉がそれぞれつながりに相応しい自己主張をしていきます。その点で,単語表現はわがままな自己主張をします。
ムカツク。それはただの気持ちのあくびであり,メッセージはありません。大人はそこに意味を見つけようとしますが,言っている側には意味を伝えようとする意図はないので,意味不明です。若者は意味を伝えることを知りませんが,それは意味を受け取ることに失敗した後遺症です。物心ついた頃よりテレビに言葉を習ってきました。テレビで流れてくる言葉は形態的には「捨てぜりふ」です。勝手にポンポンと放り出されてきます。聞きたければどうぞ,という態度です。聞く方も,勝手にしゃべっているというつきあいです。テレビの中から「おはようございます」と挨拶されても,こちらは完全に無視します。ブラウン管の向こうにいる発信者の意図をテレビ画面という平面性が封じ込めてしまい,同時にこちらの意図もブラウン管にはじき返され向こうには伝わりようがありません。言葉とはどちらの世界にもつながらない平面的なものと刷り込みされてきました。
他者とのつながりを求めるときに,言葉は意味を相手の記憶の中から引き出そうと働きます。おはようございますという挨拶の言葉は相手に対して関心を持っているというメッセージであり,その関心に応じる意味で挨拶を返します。だからこそ,言葉がコミュニケーションの道具になり得ます。平面的な捨てぜりふには相手に向けたメッセージはありません。その言語感覚を持つ若者は,他者へのつながりの持ちようが分かりません。自分以外の人は,テレビの前の視聴者と同じであり,何のつながりもない人でしかありません。
言語世界の平面性が,他者との関係を隔離状態と意識化しています。第三者という離別化をさらに進めて,完全無関係な第四者にまで後退しています。その感覚世界から,「人が壊れるのを見たい」という発想が生まれてきます。思いやりの片鱗もありませんが,それは不思議ではありません。人の心は人により添ってこそ伝わり育まれていくものです。他者との間に無機質な平面を介在させているので,その伝達路は遮断されています。影絵でしかない他者と交信することはありません。心の共育ちが拒否されていれば,思いやりは生まれようがないはずです。
他者への思いやりが持てない立場にいる若者は,自尊感情も欠落しています。自己に目を向けるような機会に出会ったとき,自己を肯定できる拠り所を持っていないことに愕然とします。自己とは何か? その存在感とは孤立していても可能な絶対的なものではありません。人の存在意義の自覚とは相対的な価値に依拠します。若者の行き着くところは,自己否定に向けて一直線です。かろうじて数少ない友人らしき人とのつながりに頼って踏みとどまってはいますが,傷つきやすくてもろくて,理想的であろうともがきます。理想的というお墨付きがあれば,他者の存在を必要としない唯我独尊の境地に入れるからです。しかしながら,理想は現実世界には存在しません。自ら理想をなし崩しにせざるを得なくなり,狂気か破滅の淵に押し流されていきます。
情けは人のためならず。情けを掛けるのは相手を甘やかすことになるのでしてはいけない,という解釈が若者に蔓延っています。そのような高みからの解釈,相手を甘やかすから相手のためにならないという傲慢さは,第4者の特徴です。まるで自分が人の上に立っているような感覚は,自分を失っている証拠です。言葉は自分の立場から発するものです。立場を失ってしまえば言葉は死にます。確かに相手を気の毒と感じる思いやりには一度は相手の立場に移る手続きが必要です。その上で情けを掛けるのですが,それはあくまでも自分の気持ちから出るものです。相手にとって掛けた情けがどういうことになろうと,それは情けを受けた相手のことであり,自分が関与すべきことではありません。助けてあげたいという自分の気持ちだけでいいのです。ところが,若者は妙に解釈的色合いの濃い知識に染まっているから,自己さえ解釈する立場に遠ざけざるを得なくなっています。相手が可哀想であると感じるのではなくて,可哀想であると知識的に観測しているのです。情けは人のためならずとはあくまでも自分だけが関わるべき言葉なのに,第4者がしゃしゃり出てしまっています。
嗜好の世界では,凹凸を嫌い,のっぺりした感覚,すべすべ感を好みます。毛濃いくて,ザラザラした感触を避けようとします。それは正に理想的な平面である鏡面の特徴です。出っ張りや手に引っかかりを与える突起は,二次元世界にはありません。それは三次元軸上にあるものです。ブランド志向も見られますが,違和感に全く頓着していません。選び抜かれたブランド製品は,洗練された身だしなみの部品として意味を持ちます。その機能を弁えずに自らに張り付けて粋がっていますが,実のところブランドが影絵にすり替わっていることに気付いていません。三次元軸上では,若者とブランド製品は完全に場所が離れています。それでも二次元に投影すれば重なっているように錯覚できるのです。
以上述べてきたように,若者が持っている意識世界,思考世界の特徴は,言語世界の奥行きや深み,人間観における他者の実像の膨らみ,思考世界の遠近感などに共通する第三次元を欠落して,平面的になっていると結論することができます。
【2】 無時間思考
平和の持続というのは平衡状態であり,時の概念が意味を失います。日常感覚で言えば,昨日も今日も明日も同じであり変化が失われることです。天災は忘れた頃にやってくるという警句は,時間の経過を見過ごすことへの危惧を表しています。時間無視を基本とする思考が蔓延ることへの懸念です。
若者は若者でありながら,年下の年代に対して自らを年寄りと規定するそうです。時の移ろいを知らないわけではありませんが,その移ろいの中に自分もどっぷり浸っているという実感を失っています。第4者としての立場は,自らも実体世界から浮遊していると信じ込ませます。自分が在ると思っていた場に別の年下グループが居座っていることに直面して,知らない間に引っ越しさせられていたことに愕然となっています。正に浦島太郎の状態です。
若者の理科離れが心配されています。これは本来技術世界から出された危惧ですが,それだけに留まらないもっと根深い禍根が膨らんでいるのです。時間軸上にある思考は,順序づけられた概念です。こうしたらこうなるという論理は,時間軸上の因果という順序です。理科を忌避するとは,時間の経過を認知できないという資質から派生しています。複数の事象がお互いに関連性を持って順序よく移ろうという思考ができないのです。
人の話を聞かないという指摘もあります。授業をおとなしく聞けず私語ばかりすると語られます。授業で話される言葉と若者が聞き取れる言葉が異なっているために,話が通じないせいです。先生が何を言っているのか分からないのです。簡単に言えば,先生の言葉は論理の運びに沿って順番に並べられているのに,聞き取る方は順序というステップを持っていません。したがって,話の歯車がかみ合うはずもありません。
国語力の低下と関連した小説が読めないという指摘は,別の側面からも検討されるべきです。言葉がつながることで文章になります。その文章が前後の順序関係を保ちながら,情景の変遷を描き出します。小説を読むには,順序よく積み上げるという時間軸上の作業が必須です。時間軸が脆弱な思考回路では,経過が重複してしまい,意味がごちゃごちゃに混ざってしまい,雑音的な情景に様変わりしてしまいます。知的な関心が乏しいという若者気質も同根です。知的とはやはり意味の順序づけられた配列を基本とするからです。当然グローバルな思考の構築や展開などは望むべくもありません。
従来の学力が記憶型であったという反省があります。今反省しているということは,今の若者の学力は記憶型として育てられてしまったということです。同時に,反省とは単純にいえばこれまでが間違っていたという気付きでもあります。若者を育て間違ってしまったのです。どこがいけなかったのかを明らかにすることが真の反省です。知識は記憶されます。その点では間違ってはいません。例えば,「権利と対句になるものは?」という問題を出されたら,それは知ってると反応し,「義務」と答えることができるでしょう。丸をもらって,できたと喜んでいます。権利と義務という対句を知っていますが,言葉として知っているだけで,意味は怪しいものです。それは若者たちの行動に表れています。
知識は多くの場合,「AはBである」と解釈される形式を取ります。定義づけという重要な形式ですが,注意をしないと,それは単なる言い換えに過ぎなくなります。若者の文章が見せてくれる,そして,つまり,また,などで続けられていく傾向とは等置の重複です。文章に展開が無くて空滑り状態です。ダンスの振りに歩いているような動きをしながら一歩も前に進まないという仕草がありますが,全く同じなのです。
知識は言葉によって思考実体になり,それは元来時間軸上に配置されるべきものです。順序感覚を失った言葉の羅列は,論理の展開が欠けるために思考にはなり得ません。物事を理解するには,順序を抜きにしては意味を見落とします。最も基本的な生活信条であるはずのギブアンドテイクという言葉を考えながら,若者が順序概念を失ったために社会から遊離してしまった経緯を以下に例証しておきます。
人間社会はギブアンドテイクが原則です。若者はこの原則を全く理解できていません。理解する素地を持ち合わせていないのです。江戸時代にネズミ小僧という義賊がいました。大店の蔵から小判を盗み出し,貧しい長屋の衆に恵んでいました。ネズミ小僧のやっていることは,テイクアンドギブです。大事なことは順序が逆になっていることです。テイクだけならケチな泥棒ですが,かろうじてギブを付け足していることで義賊と呼ばれたわけです。ところが,この逆の原則は闇世界の原則であるために,泥棒に変わりはありません。このようにギブが先であるという順序に重大な意味があるのです。
ネズミ小僧が蔵から去るときに呟くであろう言葉は,アリガトウのはずです。夜中に小判をばらまくときにはドウゾと言っているでしょう。テイクするときの言葉がアリガトウ,ギブするときの言葉がドウゾなのです。若者は幼いときから豊かな育ちをしてきました。大人から何かを貰って,アリガトウを素直に言えるように育ちました。アリガトウは待っている言葉であり,順序として第一声にはなることは不可能です。
アリガトウを言える若者は,待っているしかありません。待っていても適えられないままに置かれると,万引きに走ります。そのときに,アリガトウと呟いているはずです。自転車窃盗,ひったくり,車上狙い,恐喝など,若者がしでかす非行のパターンは全てアリガトウとテイクすることです。闇の原則を身につけてしまっています。つきあいにも同じ傾向が現れます。してもらうのを待っていて,してもらったらアリガトウと言えます。待っていることしかできないから,人づきあいが苦手になります。アリガトウと取ることしか知らない者とは誰もつきあいたいとは思ってくれませんから,浅いつきあいしかできません。順序が逆だからです。
ドウゾが先であると分かっていたら,非行は起こり得ません。献血率の高い地域では非行者率が低いという相関があることは,その証拠になります。ドウゾの言葉は第一声になり得ます。どんな人とも関わりを始められますし,喜ばれる関わりになります。つきあうのが楽しくなるはずです。世の中はドウゾという人が動かしているのです。ドウゾと言える人が,生きている人です。アリガトウを言える人は生かされている人,場合によっては奪う人です。
権利と義務という言葉にも順序があります。ギブである義務が先行すべきなのです。テイクである権利はギブが出そろうまでは,待っていなければなりません。待てないとなったとき,それは収奪に成り下がります。思いやり,優しさ,福祉にボランティア,およそ望ましいと考えられている行為は,全てドウゾから生まれ出るものです。権利と義務,その言葉の並置しか見えない無時間思考では,自らに有利な権利の主張を本能的に優先するのは当たり前のことでしょう。そのワナに捕まっているのが,若者の悲劇の根元です。カードの落とし穴も,テイクを優先しているせいです。
感性を優先するという生き方が選ばれています。本能的な感性とは今ここにしか存在しません。昨日の感性は気の抜けたビールと同じです。とはいえ,感性といえども,実は時間の経過の上で流れていくことで,クライマックスを構築できます。ギャグのような瞬間感性にしか反応できなくなると,それは単なる刺激に堕落していきます。かつての落語や漫才のような流れを持った芸を楽しめなくなっているのは,言葉の順序性に対する人間だけが持ちうる時間感性を喪失しているからです。
以上のように,若者が言葉の助けで認知している物事は,言葉の不備を反映していびつに変形されています。色眼鏡ではなくて偏光眼鏡をかけているのです。言葉の欠陥により事象が平面的,無時間的に観測されてしまい,自らを第4者に置いていると結論することができます。
【3】 期待される課題
情報機器,交通機関の発達によってもたらされた豊かな世界に育った若者の時空間感覚は,「今ここに」という一点にブラックホールのごとく収斂しています。今が楽しければいいという刹那主義しか,若者に与えられた選択肢はあり得ないのです。このような若者に対して,大人は何がしてやれるのでしょうか?
まず,子どもたちを学校空間に閉じこめてきたことを反省すべきです。それが学校週五日制の目的でもあります。学校は元々は社会のシミュレーションの場であったはずです。その仮想空間しか知らないままに育った若者は,仮想であることを弁えていません。知的世界は仮想世界です。現実世界と並立することで,人間社会が歴史を刻むことができます。子どもたちがどれほど実社会に関わってきたでしょうか? 学校,家庭,地域の連携という言葉が飛び交わざるを得ない状況とは,家庭,地域が子どもの世界になっていないということです。実世界から隔離された環境を与えてきたことが,最大の誤謬です。
開かれた学校,体験重視,生きる力,総合学習などのキーワードに共通するのは,現実社会への復帰に他なりません。家庭や地域の教育力が喪失したとされる根元は,毎日あくせく生きている人間としての経験欠損です。暮らす環境を育つ環境にすることが,最も急務で望まれる課題です。そこで培うべきことは,事物や人物の立体的および時間的イメージの再構築です。具体的目標は言語生活の構造改革になります。
あらゆる知的育ちの素材を入学試験に出るかどうかで選択してきた愚かさも脱出すべきです。日常の暮らしに関わる身近で具体的な事柄を廃棄処分にしてきました。人を育てることを忘れた所業が,大人の過失です。いい会社に就職して金を取れる人材育成を目指すのではなくて,金を生み与えることのできる人材を輩出しようとする育成こそが,社会に課せられた次世代に対する責務です。
完