*** 子育ち12章 ***
 

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「第 2 章」


『ママの手を 握って眠る 小さな手』


 ■はじめに

 第1章では「子どもの居場所」について,考えてみました。
 種は豊かな大地に触れることで発芽します。
 同じように子どもは家族としての居場所があって育ちます。

 自分を「透明な存在」と思った子どもがいましたが,
 それはどういうことなのでしょうか?・・・それが今回のテーマです。

 「人間の存在を決定するものは,人間そのものではなく人間関係である」
 と,作家の尾崎士郎が言っています。これを手がかりにしましょう。

 歩き始めの幼児は母親が側で見ていると伝い歩きの手を離します。
 見ていないと手を離しません。
 母親が側にいると安心し,情緒が安定し,余力を成長に注ぎます。
 頼りになる母親がいるから,育とうとします。



【質問2:あなたのお子さんには,親との信頼関係がありますか?】

 《「信頼関係」という言葉について説明が必要ですね!》


 人間関係をいくつかに分類してみます。パターン化すれば関係の本質が見えてくるからです。親から自分はどう思われているかという子どもの立場で読んで下さい。

 (1) いない方がよい人

 もし母親から「お前さえ 生まなきゃ」と言われたら,子どもは生きることに「絶望」します。そこまであからさまではないにしても,ちょっとしたすれ違いが起こることがあります。

 もうすぐ夕食という頃が最も空腹になります。子どもが「ねえ,クッキー食べていい?」と言ってきます。ママは「だめ,もうご飯なんだから。お菓子ばっかり食べちゃだめ」と言い切ります。その語調は「余計なことは言わせないで,あっちにいっていて」と邪魔そうです。お呼びでない虚しさが襲います。たとえば,ママが「そう,おなかすいたの。クッキーおいしものね。でも,もっとおいしいものもあるのよ,ちょっと待ってね」と,空腹であることを認めてやれば,子どもはそれで満足します。同時に邪魔にされないで済みます。


 (2) いてもいなくてもいい人

 忙しい家庭の中で,手の掛からない子どもが育っていきます。親にはいい子かもしれませんが,子どもはどうでしょう。いつの間にか自分なんかいてもいなくてもいいのではないかと思うかもしれません。一人ぽつんとなんとなく生きていると思ったなら,自分は何なんだろうという「不安」が脹らんできます。

 子どもよりパパが重体なのかもしれません。男の子が帰宅しましたが,母と姉は不在で,父が新聞を読んでいます。男の子は「誰もいないのか!」とつぶやきました。パパは存在感を取り戻そうと,ある日小さなお菓子を10個買ってきました。夫婦が2個ずつ,子ども2人は3個ずつという心づもりでした。おやつの時間になり,パパが自分の皿を見ると1個です。ママと子どもたちはそれぞれ3個でした。似たようなことは茶飯事です。子どもはポケモン,パパノケモンという寂しさです。

 いてもいなくてもいいと思われていると感じたら,子どもは自分の存在性を保持させるために,嫌われないように気配りして暮すようになります。いつも防衛的ですから緊張・ストレスの連続で,やがて心身をすり減らします。分ってもらえない苦しさを避けるために,心を閉ざしてしまうこともあるでしょう。自分という存在を透明にしていきます。


 (3) いてもいい人

 「あなたは勉強さえしていればいいの」と,生活から隔離されているような状態です。家族がそれぞれ自分だけの暮らしをしているクールな関係です。最近流行した「パラサイトシングル(実家に寄生している独身若者)」は,このような関係の行き着く先なのです。一見自立しているようで,肝心の生活部分はしっかり依存しています。ちょっと気配りのできる子どもであれば,自分だけが遊んでいるようで落ち着かないことでしょう。

 いじめの人間関係も似ています。まず,一応友達としてグループに取り込みますが,いつも境界域に排除しておきます。決していじめられっ子をグループから追放はしません。グループと付かず離れずの所に縛り付けておきます。いじめを陰湿にしている要因は,「飼殺しの状態」においているからです。

 家庭でも「自分のことは自分で」というしつけだけを厳しくし過ぎると,家族であって家族ではないような「不安定」で曖昧な存在に追いつめてしまう危険性があります。家族であるとは,生活上に持ちつ持たれつの相互関係がなければなりません。

 家庭の雑事を「うるさい用事」と思うように育てられた子どもは,生活から逃げるようになり,自立からは見放されます。寄生しているパパも他人事ではありません。


 (4) いなくてはならない人

 子どもは甘えることから育ちはじめます。十分に甘えさせてやりますが,いつまでも甘えん坊で依存していては困ります。そこで甘えを止めさせようとしつけをします。依存しないことが自立することであると思われています。確かに半分はそうですが,半分は思いこみという誤解です。自立という言葉の定義は何かをしないことではなくて,何かをすることでなければ意味がありません。

 パパは自分が会社でも家庭でもいなくてはならない人物であることに張り合いを持っています。病に倒れ見舞いを受けるとき,「早くよくなって出てきてもらわないと皆が困っています」と言われればご機嫌がよいのですが,「後はちゃんとやっていますから,どうぞゆっくり養生してください」とでも言われたら落ち込みます。自分がいなくてもいいと引導を渡されるのですから,つらいのは当然です。必要とされていることが自立の証だからです。

 桃太郎のチームリーダーとしての手腕を見てみましょう。犬は猿とは犬猿の仲です。ところが桃太郎の家来として協力しています。どうしてでしょうか。犬は桃太郎と,猿も桃太郎とキビ団子契約でつながりました。犬と猿はそれぞれ桃太郎に協力するという形でつながっています。チームとしてのポジションを与えられ役割を担っています。共同体の中で責任ある役割があるということが,存在感を実感させてくれます。ケンカをする必要など失せてしまいます。

 共同体ではお互いに役割を担うことが大切です。言い換えれば,相手の役割に依存してもいいということです。お互い様なのです。忙しいママはお使いや手伝いなど,子どもに依存する,つまり頼ればいいのです。頼られればそれに応える,それができたとき自立したことになります。必要とされている,頼られている,いなくてはならない人と思われている,それが気持ちを「安定」させ生活の充実感をもたらしてくれます。


(5) いて欲しい人

 社会的な関係では,いなくてはならない人と自覚できていれば十分でしょう。しかしながら,人間関係としては,まだ不十分です。定年になって役に立たなくなったらお払い箱です。パパの名刺から肩書き役割がなくなったら,さみしくなるはずです。

 4歳の男の子がオネショをするようになりました。妹が誕生してまもなくのことです。ママはあちこちに相談に行きますが,いっこうに止む気配はありません。そんなつらいある日のことです。オネショをしなかったのです。ママは「できたね」と思いっきり男の子を抱きしめました。そのときです,「あのね,ママ。またできたらだっこしてくれる?」・・・。母親の膝を妹に奪われた寂しさ,不安に駆られ,無意識に自分への注目回復のためのオネショでした。下の子に手が掛かり,上の子を心ならずも邪魔にしてしまうことがあるかもしれません。何か処し方はないのでしょうか?

 つわりのひどいママがいました。幼い女の子がいます。祖母が女の子をしばらく預かろうと申し出てくれました。でも,ママはある決意から断りました。数日前,トイレでしゃがみ込んでいたときのことでした。苦しさの中でふっと気が付くと,背中を小さな手が一所懸命にさすってくれていました。「この子といっしょに産もう」と思ったからです。幼児でも大人に力を授けられるます。大したことはできなくても,いてくれるだけでいいのです。

 子どもはパパが出張先から買ってきてくれるおみやげを喜びます。ところが,数日するとおみやげは飽きられて隅に転がっていることがあります。せっかく買ってきてやったのにと,パパはおかんむりです。でもそれでいいのです。おみやげは出張先でも子どものことを気遣っているから買って帰ります。子どもは「パパは出張していても,自分のことを気に掛けていてくれた」という証拠として受け取っています。パパの気持ちを確認できれば,おみやげそのものはどうでもいいのです。でも,ママが「子どもにばっかり」とにらんでいることにご注意!?

 お互いに役に立たなくても,いるだけで「ほっと安心する」関係,それが家族の人間関係です。



《子どもに必要な信頼関係とは,親が好意的であると信じられる関係です》

 ○子どもはいつも親とのやりとりの中で「好かれていることの確認」をしようとしています。子どもに自分は「Wanted Child」であると思わせる気配りが大事です。「叱られても嫌われない」という親との信頼があれば,子どもは安心という根っこを家庭に張り,元気よく育っていきます。

【質問2:あなたのお子さんには,親との信頼関係がありますか?】

   ●答は?・・・もちろん「イエス」ですね!

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