*** 子育ち12章 ***
 

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「第 7-05 章」


『任せたと ママは言うけど 目で指図』


 ■はじめに

 新聞を読んでいたら,法学部の先生の嘆きが載っていました。若手の裁判官が有罪か無罪かという判断を先輩に委ねたというのです。判決文は判例を見ればどちらでもちゃんと書けるのですが,最も大切な決定ができないのです。学力低下の例です。

 これまでの学力は,判決文を書ける力は養ってきたのですが,判断する力を培ってこなかったのです。判断できない若者とは,ことさら新しいことではなく,そうだろうなと思い当たるものに過ぎません。かなり前から,子どもたちの判断力の無さは指摘されていました。例えば,語尾を曖昧にするしゃべり方も,決断力の未成熟を現しています。

 写生の時間に,子どもたちを学校の外に連れて行き,自由に好きなものを描きなさいと任せます。子どもは「先生,○○を描いていいですか?」と確認に来ます。自分で判断し決定できないのです。こんな育ちをしてきた若者に,判断を任せることは最初から無茶なのです。これが現状です。

 学校週五日制でやらなければならないことは,子ども自身に判断させ決めさせて,その結果を自分で確認するという体験です。判断してうまくいったという経験が,判断する力を育てるからです。判断は教えられることではなく,自分の経験の上に築き上げるものです。この判断体験は学校教育では苦手とする領域ですから,家庭や地域で支援する必要があるのです。

 休みになったら何をしようか? それは子どもに任せるべきです。自分の時間をどう使うか,その判断を促すことが,これまでにやってこなかったことなのです。あれをしなさい,これをしたら,と大人が先回りをしてお膳立てをすることで,子どもが判断するチャンスを奪ってきましたが,最近の週五日制に対する動きを見ていると,何も変わっていません。

 この羅針盤で述べてきた,「もう一人の子ども」を育てる意味に早く気付いて欲しいと思います。自分がどう生きるかを判断し決めるのはもう一人の自分の役割なのに,大人がよかれと判断してしまったら,もう一人の子どもをないがしろにしているのです。今の流れのままでは,これまで同様,判断力のない子どもが育ち続けることでしょう。がんばれ,ママたち!



【質問7-05:あなたの家庭では,パパの茶碗を用意していますか?】

 《「パパの茶碗」という意味について,説明が必要ですね!》


 〇誰と向き合えばいいのでしょうか?

 今月のカレンダーはどんな絵が載っていますか? 今日は何日かを確認するときに見ているはずですが,覚えていないのでは? パパはママや子どもの今日の服装を覚えていますか? ママはパパが今日していたネクタイをちゃんと覚えていますよ。そうですよね?

 人は見られている自分を確認できるとき,その見てくれている相手に信頼感を持つものです。誰も自分のことを気にかけていないと思ったら,生きていることがつまらなくなりますよね。最も見ていて欲しい人,連れ合いが全く無関心であると分かったら,無関心で仕返ししたくなりますし,なにより一緒にいる理由があっさりと消えてしまいます。

 結婚記念日にプレゼントを贈るといった派手なことでなくても,日々の暮らしの中で頼まれてなかったことをさりげなくしておいてあげるといったことの積み重ねが案外と効果的です。そのためには,連れ合いが何を思っているのか,それとなく気にかけておく必要があります。

 毎日顔を合わせていても,それだけでは居心地のいい家庭にはなりません。相手の心と向き合わなければなりません。そのためには,わざわざ耳を傾けることです。夫婦の間でわざわざするという言い方は変に聞こえるかもしれませんが,夫婦の間だからわざわざすることが喜びに変わるはずです。いつまでもわざわざしてやったという気持ちのままであるなら,それは他人の関係です。そこまでする必要があるのか?という気持ちが湧いてきたら,それは夫婦の関係がさび付いてきた軋みです。

 同じことがパパと子どもの間にも言えます。パパが子どものために何かをわざわざしてやったという顔をしたら,子どもは決してパパに心を開こうとはしないでしょう。わざわざとは,ボクのためにわざわざしてくれた,というように相手が思うことです。手間暇を惜しんでは大切なものを失います。

・・・さりげなくわざわざ向き合うとき,心が通います。・・・


 〇名前?

 入学の準備で手間がかかったのは,学習教材に子どもの名前を書き込む作業でした。小さな物までいちいちという印象がありました。事情を考えれば仕方のないことですので,二人でぼやきながらも仕上げて持たせてやりました。漢字では読めないので,ひらがなです。

 もう一つの準備は,「名前を呼ばれたら元気よく大きな声で返事をしなさい」という教えです。実際に先生のマネをして我が子の名前を呼んで,子どもが「ハーイ」と返事をして起立する訓練をさせたパパもいるでしょう。

 名前というものは自分の物でありながら,他人に必要なもので,自分には用がないものです。昔は女性の名前が呼ばれるためだけに付けられていました。でも,実のところ,名前は自分にとって最も大事なものなのです。自分を意識する縁(よすが)だからです。自分は何者だと自問するとき,真っ先に思い浮かぶのが名前です。

 かつて,名に恥じないという生き方の芯がありました。今風に言えば,自分を大切にすることに当たります。しかし,実はそこに大きな違いが出てきました。「自分」という普通名詞で意識するようになってから,人は自らを見失うようになりました。自分を「○○(名前)」であると固有名詞で意識しなければ,個性も持ちようがありません。

 無名であることは,存在が無視されることです。お断りしておきますが,ここで述べている無名とは,普通に言われるような有名の反対語としての無名ではありません。人に知られるということを二の次として,まず,自分が自分を名前のある個性と認知するかどうかということです。私は「モリのクマさん」である,そう認識したときにはじめて,もう一人の私は私を私らしく個性的に振る舞わせることができるのです。

 どこの誰とも分からないという状況では,人は人としてのプライドを脱ぎ捨てることがあります。もう一人の自分が常に自分を名付けて意識すること,それがプライドを失わない方法なのです。ファミリーネームがあり,そこに個人の名前が並ぶ,そのような自分の名前に誇りを持たせることが育ちのスタートなのです。

・・・私には名前があると意識することが,私らしくなる発端ですよね。・・・


 〇食器?

 ご飯茶碗と汁碗とお箸の三点セットは,各個人専用の物が用意されています。パパとママは夫婦茶碗のお揃いで,子どもには可愛い茶碗です。子どもに茶碗を買ってやると,子どもはとても喜びましたね。自分の茶碗を持つことで,自分の存在感を感じているのです。パパの茶碗と自分の茶碗,それが対等に並ぶことが大切です。パパの茶碗というものが目の前にあることで,ボクの茶碗が際だって意識されます。このような所有権の意識が自分意識を導入する端緒になります。

 他方,お皿類は共通です。誰の物でもありません。子ども専用にキャラクターのついたお皿を用意されているかもしれませんが,幼い時期だけに限定された方がいいでしょう。みんなと共通のものを使うことに慣れることが大事だからです。すべてが自分専用になっていると,可愛がられすぎになります。共同生活は使い回しが基本です。自分のものではない,みんなが使うものを自分も使っていると思う気持ちが公共心の基盤です。

 食器棚にはお客様用として,別にしている食器があります。自分の食器,パパの食器,家族みんなの食器,それに自分たち以外の人の食器があり,このような多層な食器の使い分けが,子どもには自分を中心にした人のつながりの括り分けを実感させてくれます。

 パパが宴会で盃を酌み交わすのは,同じ盃で酒を飲む行為が親密さの形式だからです。形を採用することで,気持ちのつながりを産み出そうと期待しているのです。家族のつながりを実感しているお皿の共通性が経験になっています。仲間内では鍋を囲みますが,それも同じ鍋をつつく形に親しみを感じているからです。

 それならいっそ,自分の食器などは不要で,みんな同じ食器にすべきではないかと思われるかもしれません。でも,それは人の気持ちをあまりに単純に考えすぎてしまうことになります。個人の食器があるから,みんなの食器が意味を持つのです。個人という気持ちがあってはじめて,親密さが感じられるはずです。パパの茶碗は,子どもに人間の間合いを教えているのです。

・・・パパとお揃いの自分の茶碗,そこにパパとの愛を感じているはずです。・・・


 〇道具?

 台所にある包丁には,菜切包丁,刺身包丁,出刃包丁の三点セットが普通でしたが,今は西洋包丁一本で用が足りているようです。ハサミも使い分けがされていません。裁ちばさみ,糸切りばさみ,剪定ばさみ,花ばさみ・・・,いろんなハサミがあります。まさか紙ばさみ一本で用が足りていることはないでしょうね。

 暮らしの中で何でも一つの道具で済ませようとしていては,無理が生まれて壊れる原因になります。日頃の暮らしぶりは物事の考え方を組み上げていくものなので,対象に応じて使い分けるという大切なことを見失うようになります。一事が万事ということです。

 パパは何かしらの工具類を持っていますか? ドライバー一本では,用を足しません。暮らしの場にはいろんな種類のネジがあります。鍋の取っ手を取り付けているネジが緩んだとき,パパが締めてくれます。網戸が堅いとき,パパが調節してくれます。子どもの自転車のブレーキ調整をしてくれます。そんなパパの姿を見て,子どもはパパはすごいと思い,さらにパパの道具に興味を持ちます。

 いろんな道具が目に付くと,何をするものか,試してみたくなります。人は手で道具を使うようになって,知恵を獲得してきました。子どもはその道筋を辿ることで育ちます。知恵とは手から入ってくるものであり,見たり聞いたりしたものは自分のものには成り得ません。見たことがあっても,自分でやってみればできないものです。

 道具は創造するためのものです。こうすればこうなるというプロセスを実現させます。ネジを締めていけば本棚ができます。板からはじめるなら,鋸が必要です。大きさを決めるためには,物差しが必要です。こうして,ものを作っていくプロセスが道具を仲介にして組み上げられていきます。

 また,物差しという道具を知ることで,ものには長さという概念があることに気付きます。長さとは何かを口で説明しても分かりませんが,物差しを持たせ使わせたら自然に理解できます。体験の不足とは,いろんな概念の実感不足のことであり,それは道具を使った経験の不足でもあるのです。

・・・子どもの創造性を培おうとするなら,いろんな道具に馴染ませることです。・・・


 〇身代わり?

 「パパは今日も遅いね」。幼稚園に通っている女の子が,夕食の時にぽつりとつぶやきました。「パパはお仕事をがんばってるのよ」。ママはこのところ残業が続いているパパのことがちょっぴり心配です。夕食のテーブルがパパの分だけぽっかり抜けています。

 次の日のことです。夕食前におとなしく絵本を読んでいた女の子が,ママの傍に来て尋ねました。「パパは今日も遅いの?」。「まだ忙しいって」。その返事を聞いて,女の子はテーブルに食器を並べるお手伝いをはじめました。珍しいことがあるものとママはその様子を見ていました。女の子はパパの茶碗を真っ先にテーブルに並べたのです。

 ママは「パパは遅いから後でいいのよ」と言おうとしましたが,止めました。女の子はそれを知っていてしているんですから,好きにさせておきました。パパのいない夕食が始まりましたが,女の子は並べられているパパの茶碗を眺めて「パパは晩ご飯食べてるのかな」と心配そうでした。

 日曜日の夕食は休みのパパも一緒です。久しぶりにパパのいるテーブルについてうれしそうな女の子にパパが話しかけました。「パパが遅いとき,パパの茶碗をテーブルに並べてくれたんだってね。パパも,○○ちゃんがいっぱい食べてるかな〜って思ってたんだよ」。女の子はとても素敵な笑顔をパパに向けました。

 そこにパパがいなくても,パパの茶碗が心をつないでくれます。お互いを思いやる橋渡しになっています。心は見えません。たかが茶碗一つをどう扱うかに過ぎませんが,その具体的な行為が心の動きをお互いに分かるように伝え合います。パパの茶碗,そこにパパはいると思えたらいいですね。

・・・パパがいないから心がつながるということもあります。・・・


 〇方便?

 若者が結婚して最初に出会う難関は,稼いだ金が目減りすることです。パラサイトシングルの独身貴族生活をしていると,住居費,食費は親がかりで,稼いだ金は丸ごと趣味に使えます。結婚するとそうはいきません。親がかりの分を自分で引き受けるだけではなく家族の分も含めて,いわゆる生活費という思わぬ出費にかすめ取られていきます。こんなはずではなかったと後悔するかもしれません。

 その気持ちを何とかクリアしようとして思い直そうとしますが,途中下車してしまうことがあります。家族を養ってやっているというパトロン気分です。この優越感に浸ることで,経済的なマイナスを心情的なプラスで埋め合わせていきます。男の弱い部分です。家族を養う責任感の裏側には,この気持ちの収支決算が働いています。

 パパが家族に「誰のお陰で生活できてるいると思っているんだ」という台詞を口にすることがありますが,本音がひょいと顔を出しています。ホントに正直なんですが,それを言ったらお終いです。家族愛というゴールに向けて,気持ちの流れを乗り継ぐまでのことですから,余計なことは秘すべきです。すぐそこに,気持ちの脱皮という劇的な成長が控えています。

 愛という字は,心を真ん中に受けるという形をしています。ではどんな心を受け止めることでしょうか? ラブという言葉は0を意味します。金銭的なマイナスを優越感によるプラスで帳消しにした0ではありません。それは自分だけの損得勘定に過ぎません。家族全体の収支決算を考えるように心の構造改革をしましょう。自分だけの勘定は閉鎖するのです。0とは無にすることです。私の財産ではなく家族の財産を殖やしていく積もりになれたら,ゴールは間近です。

 ママも自分で稼いだお金は自分の洋服を買うのに使いたいですよね。こっそり買ってきても,自分のお金を使ったと思えば,気が楽ですよね。100%の家族愛は無理です。60%であれば充分です。そこでパパの茶碗は高級品にして頂けませんか? パパは特別扱いされていると思わせてもらえれば,気分がよくなります。他愛のないことですが,そんな弱みを温かく包むといった方便も,大事な夫婦愛です。

・・・家族という財布をふくらませるには,ご褒美が効果的です。・・・



《パパの茶碗とは,自他の線引きをするための基点です。》

 ○自分の存在感は確かな他者がいてこそ意識できるものです。個性というのも相対的な価値ですから,自分と他者の関係の上になりたちます。子どもが自立心の拠り所にするのは,パパでありママです。ママとだけの関係では安定しません。安定するには三者の関係が必要です。子どもにとってだけではなく,ママにとってもパパとの関係は大事でしょう。自分とは違ったパパがいる,そこから自分が見えてきます。

 子どもの目線から見ると,家の中はあらゆる物がLLサイズです。ドアの取っ手は上の方についています。階段も高い段です。暮らしにくいことこの上ありません。このサイズ違いの世界の中で,子どもはできないことがたくさんあります。パパの茶碗も持ってみると,自分の手に余ります。パパの手は大きいな,その経験が子どもに自分の現実を自覚させます。自分をきちんと見ることができるようになります。


 【質問7-05:あなたの家庭では,パパの茶碗を用意していますか?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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