『子育ちは 振る舞いの影 温かく』
■子育ち12資質■
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『子育ち第8資質』
【優しい心情を尊重できる】
《まえがき(毎号掲載)》
子育て羅針盤では,子どもの育ちを6つの方向と2つの領域から考察します。6つの方向とは,「誰が,どこで,いつ,何が,なぜ,どのように育つのか」という問題視座です。また,2つの領域とは,「自分の育ち(私の育ち)」と「他者と関わる自分の育ち(私たちの育ち)という育ち」の領域を表します。6つの方向にそれぞれ2つの領域を重ねた12の論点が「子育て羅針盤」の基本的な考察の構成となります。
この第95版では,こどもができるようになっていく資質という面から育ちを考えていきます。こどもの健全な育ちというものの中身を具体的なできることに表してみます。それぞれが程度に違いがあってもそれは個性になりますが,そのことを自覚しておけば,幸せに生きていくことができます。何となく育っているように思えても,生きる喜びをしっかりと自覚する視点を身につけて欲しいのです。もちろんこれまでのように,健全な育ちを実現する羅針盤としての全方位を見届けることができることを再確認していただけたらと思います。
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《尊重するのは何ですか?》
能力を育てながら年齢相応にできることを実行することが,子育ちの第7の能力でした。その際に、能力をどのようなことに使うかということが次の課題になります。
子どもは成長するにつれて様々な能力を獲得していきますが,それは自分の思う通りにしたいという欲に導かれています。私欲に向けたものだけではなく,しつけによって望ましい能力の発揮に導くことが社会的な育ちに必至です。
約束を守るということがあります。約束を破ってしまうこともありますが,それが不都合な事態をもたらすことを経験すれば,約束の大切さを知って,次からは守ろうとするでしょう。そのような体験を通して,もう一人の子どもは自分の行動基準を学び取っていきます。
人は大切にしている信条により人格が彩られます。赤ちゃんは人が喜んでくれるから笑顔を覚えていきます。人と共にある喜びを大切にする心情を育んでやらなければなりません。
人の厚意を受けてうれしいから,「アリガトウ」と言います。この時のうれしさは,誰からか貰うまで待っているうれしさです。ちょうだいといううれしさです。
一方で、ちょっとした厚意を示して,アリガトウと言われてうれしくなります。このうれしさは自分からいつでも招き寄せることができます。
アリガトウと言ってもらうには,「ドウゾ」という言葉が必要です。自分の優しさを引き出す大事なキーワードです。
子どもにアリガトウと言わせるのではなく,子どもに対してアリガトウと言えるような関わり方をしましょう。
社会生活では,してはいけないことがあります。例えば,皆さんは「法律の全てを知っているでしょうか?」。ほとんど知らなくても,法を犯すことはありません。なぜでしょう? 交通安全標語に,車は急に止れないというものがあります。交通信号について準えて考えてみます。黄色の信号は,生活のルールでは,「人に迷惑を掛けない」ということです。遠慮という抑制によって,度を越さないようにしています。
赤色の信号である法律の手前で確実に停止できているのは,黄色で徐行しているからです。制止の機構は二段構えなのです。迷惑と法律違反の間に余裕があります。迷惑はお互い様であると受け止めて,「済みませんー有難う」という徐行能力が人づきあいのコツになります。
子どもの免罪符は「ゴメンナサイ」です。至らなさを前提として,復元するためのまじないです。他に対する謝罪に加えて,自分に対する恥をもう一人の自分が感じるようになっていくことが,社会的な自立への育ちです。私欲による甘えが黄色信号無視であり,他に対して迷惑であると分別できるように導きましょう。
人は闇を嫌いますが,闇は必然的な存在です。例えば,理性は,光であり,科学的,客観的な思考であって,価値があるものです。闇はといえば,非科学的な世界というイメージになりますが,植物の根は光を嫌いますが,生存の土台としての役割を持っています。
光が認められるのは闇のおかげです。オカルトとは,隠すを意味するラテン語オクレレであり,分からないものという意味です。哲学者のカントは,オカルトの世界は科学で扱えないだけであり,決して否定はできないといっています。光と闇の共存こそが,人間世界です。闇に当たるものは,主観的,宗教的,心であり,非科学的と否定対置するのではなく,超科学的とでもいうべきです。ゲーテは,「考える人間の最も美しい幸福は,窮め得るものを求めて,窮め得ないものを静かに崇めることである」と語っています。
日本人は援助という名目で,自分の要らないものを出しているだけといわれることがあります。子ども用のパーティドレスなどすぐ小さくなるので不要となり,途上国に送りだされます。パーティドレスを着る環境ではないという相手の生活を考えていません。優しい心情による支援ではありません。簡単に押し入れのゴミを始末できて,更に気の毒な人を助けたという自己満足でしかありません。あげるなら,自分が必要としているものをあげるという,本当の優しさを教育しなければなりません。
価値尺度の持ち方が,人としての生き方を決めることになります。尺度の一元化は要注意です。例えば,損得優先を,権利義務論で正当化しようとしませんか? 「なぜ私が手伝いをしなければならないの?」という逃げ口上です。勉強だけしていればよい,手伝いなど余計なことはしなくてよいという尺度を使っていると,生きる優しさから隔離することになり,生きる喜びが涸れてしまいます。生きる喜びが勉強意欲をもたらすことを学ばせてください。
3人の女の子がぼくちゃんちにママゴト遊びにやって来ましたが,生憎ぼくちゃんは留守です。「誰がお母さんになる?」「ならない,お母さんは忙しくて疲れるもん」。「それじゃ何になる?」「お姉さんよ。あのね,お化粧してお勤めに行くの」。「ぼくちゃんは?」「いーつも,ポチよ」。「お父さんは?」「ならないの。お父さんは大変だもん。犬は寝ていて餌もらって散歩に行くだけだもん。絶対ラクチンよ」。
★落書き★
お米の新米は喜ばれますが,人の新米は未熟で失敗ばかりしている悪い意味で嫌われます。江戸時代の商人の社会では,店に新しく丁稚に入った小僧に,主人が新しい前掛けを支給する習慣がありました。そのシンマエカケが略されてシンマエになり,やがて時を経てシンマイになったということのようです。新前が新米に変わったのです。本来は主人が小僧さんを励ます意味であったのでしょうが・・・。
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