1205年 (元久2年 乙丑)
 
 

4月3日 天晴 [明月記]
  清季朝臣奉書に云く、朝雅申す旨此の如し。何様に仰せらるべきか。披見の処吉富庄
  預所伝え知らすべきの由謀書なり。子細更に言い足らず。末代の法甚だ恐るべし。殿
  下より勅撰の事仰せ合せらる。
 

4月7日 甲午
  佐々木判官定綱病気に依って出家すと。
 

4月8日 乙未
  将軍家鎌倉中の諸堂巡礼し給う。御騎馬・御水干なり。
 

4月9日 丙申
  検非違使左衛門少尉源朝臣定綱法師卒すと。
 

4月11日 戊戌
  鎌倉中静かならず。近国の輩群参し、兵具を整えらるの由その聞こえ有り。また稲毛
  の三郎重成入道、日来は武蔵の国に蟄居す。近曽遠州の招請に依って、従類を引きい
  て参上す。人これを怪しみ旁々説等有りと。
 

4月12日 己亥
  将軍家十二首の和歌を詠せしめ給うと。