1206年 (元久3年、4月27日改元 建永元年 丙寅)
 
 

5月6日 丙戌 晴陰
  祭主従二位能隆卿使者を進す。申して云く、加藤左衛門の尉光員は微臣の家司なり。
  而るに頃年の間、関東に祇候せしむるに依って、武威に募り所堪に従わず。神領に於
  いては、また恣に数箇所これを知行せしむ。剰え子細を相触れず。去年十一月潛かに
  使の宣旨を蒙ると。早くその職を止めらるべしてえり。爰に相州・廣元朝臣・善信等
  沙汰を経らる。光員神領を知行する事に於いては、禁遏を加うべし。廷尉の事に至っ
  ては、西面に候するの間、仙洞の御計らいたらんか。関東の御沙汰に及ばざるの由仰
  せ下さると。
 

5月24日 甲辰 雨降る
  前の大膳大夫奉行として、能隆卿の申す所、光員に尋ね下さるの処、陳じ申して云く、
  伊勢の国道前郡政所職は、祭主の恩顧たるの間、その成敗に従う所なり。神領知行の
  事は、元より開発の地、神祝に寄附するばかりなり。押領と称し難しと。これに依っ
  て沙汰に及ばずと。