1208年 (承元二年 戊辰)
 
 

閏4月2日 辛未
  神宮寺造営の材木、伊豆の国狩野山の奥より沼津の海に出す。
 

閏4月3日 壬申 陰
  防鴨河使判官従五位下行左衛門の少尉小野朝臣義成卒す。(時に在京)

[明月記]
  天明に退出す。人々云く、検非違使義成(時行)死去しをはんぬ。
 

閏4月11日 庚辰 晴
  将軍家俄に以て御不例。
 

閏4月15日 天晴 [明月記]
  亥の時ばかり南方に火有り。風猛烈にして、煙炎飛ぶが如し。後聞、火北小路東の洞
  院より出て、七條の東西十二町(洞院の西、朱雀の東)・朱雀の南北十二町(七條以
  北)・六條東の洞院より五條坊門朱雀の辺に至るまで、すぢかへてその中を融る。貴
  賤上下勝計うべからず。宣陽門院・坊門院・太政大臣(旧宅)・右大将(六條堀川)
  ・入道内大臣殿・中宮大夫・大宮大納言(五條大宮)・源大納言(中院)・入道大納
  言(六條坊門大宮)・故中納言(親能卿)・三位経家・業兼・教成・入道宰相定経・
  故親国卿・忠行朝臣・大夫史国宗・大外記良業・文章博士為長。
 

閏4月24日 癸巳 快晴
  御不例平癒の後、始めて御沐浴なり。
 

閏4月25日 甲午
  京都の使者参着す。去る十五日洛中焼亡するの由これを申す。火北小路より出づ。仍
  って東の洞院・七條の東西十二町(洞院の西、朱雀の東)・朱雀の南北十二町(七條
  以北)、六條東の洞院より五條坊門朱雀の辺に至る。宣陽門院・坊門太政大臣旧宅・
  右大将六條堀川の御亭等その中に在りと。
 

閏4月26日 乙未
  西国守護の沙汰の事に依って、季時の使者参着す。仍って今日、御所に於いてその沙
  汰を経らる。廣元朝臣・善信・行光・盛時等これに参行す。
 

閏4月27日 丙申
  東の平太重胤上洛す。これ父胤頼は弱冠の当初本所に候す。その例に任せ、片時上日
  奉公の名を級すべきの由懇望を致すの間、挙げ申さるるに依ってなり。