1209年 (承元三年 己巳)
 
 

3月1日 甲午
  今日、高野山大塔の料所備後の国太田庄の乃貢対捍するの由、寺家よりこれを訴え申
  す。仍ってその沙汰有るの処、彼の使者僧と地頭大夫屬入道の代官と口論に及ぶ。御
  前の近々たるに依って、両人共に追い立てらる。この事に於いては暫く閣くべきの旨、
  直に仰せ下さると。
 

3月3日 丙申
  鶴岡宮の一切経会。相州将軍家の奉幣の御使いとして廻廊に参らる。美作蔵人朝親・
  山城左衛門の尉行村等扈従す。
 

3月21日 甲寅
  大夫屬入道鞠を御所に持参す。京都より到来するの由これを申す。また去る二日大柳
  殿御鞠の記一紙これを進覧す。彼の日大輔房源性始めて御鞠に参ると。これ左金吾将
  軍の御時の近士なり。去る建仁三年九月坐事の後、在京する所なり。件の御鞠衆、御
  所・刑部卿(宗長)・越後少将範茂・寧王・医王・山柄・行景・源性等なりと。
 

3月23日 陰 [玉蘂]
  この日故摂政前の太政大臣(良経)の長女入内の事有り(名立子、生年十八、予と同
  腹、母は権中納言能保卿女)。