1212年 (建暦2年 壬申)
 
 

9月2日 乙巳 晴
  筑後の前司頼時、去る夜京都より下向す。当時前駆已下の事を勤むべきの輩幾ばくな
  らざるの間、召し下さるる所なり。この便宜に、定家朝臣消息並びに和歌の文書等を
  進す。今日御所に持参す。また申して云く、去る十三日、八幡の神人数十輩[隆衡卿
  の門前に列立す。その根源は、去年山城の国に件の神人を殺害する者有り。]今年重
  ねて長賢僧正所領の者神人を殺す。仍って此の如し。裁許無くば、宮寺に帰らず、逐
  電すべしと。同日この神人半分院の御所に参る。明旦以前に勅裁有るべし。もし遅々
  せば、神輿を捧げ奉るべきの由仰せ下さると。十七日、大膳大夫業忠(年五十三)帰
  寂す。相撲の間、忠綱朝臣に合い頸の骨を損ず。これを以て病と為り遂に命を終う。
  これ強ち官禄已下世報の事を思わず。十五歳以後、毎日法華経を読むの仁なりと。
 

9月15日 戊午
  常陸の国那珂西の沙汰人等、地頭職を兼行す。名主を安堵せしむべきの由仰せ下さる。
  所謂行光・祐茂・行村・光季等なり。
 

9月16日 己未
  将軍家、神馬二疋を石清水並びに六條新八幡宮に進し給う。今暁雑色等これを相具し
  て進発すと。
 

9月17日 庚申
  関東御寄進の石清水・住吉・廣田等の所領訴訟の事に就いて、社解到来せしめば、左
  右を経ず沙汰し申すべきの由、問注所に仰せらると。
 

9月18日 辛酉
  将軍家岩殿・椙本等の観音堂に御参りと。
 

9月21日 甲子
  諸国の津料・河手等の事を止めらるべきの由、日来御沙汰に及ぶの処、その事得分と
  為す所々の地頭子細を申すに依って、今日元の如く沙汰を致すべきの由、面々に仰せ
  下さると。
 

9月26日 己巳
  御物沙汰衆、奉公の勤厚に就いて禄物を賜う。これ月迫の定式なり。而るに去年の事
  延引すと。