1212年 (建暦2年 壬申)
 
 

11月8日 庚戌
  御所に於いて絵合わせの儀有り。男女老若を以て左右に相分ち、その勝負を決せらる。
  この事、八月上旬より沙汰有るの間、面々の結構尤も甚だし。或いは京都よりこれを
  尋ね、或いは態と風情を図せしむ。廣元朝臣献覧の絵は、小野小町が一期の盛衰の事
  を図す。朝光が分の絵は、我が朝の四大師(伝教・慈覺・智証・慈恵)伝なり。数巻
  の中、この両部頻りに御自愛に及ぶ。仍って老方勝ちをはんぬと。
 

11月11日 癸丑
  河内の国関東藍の御作手六十人の事、例に任せ中右衛門の尉朝定を以て奉行人と為し、
  官仕を致すべきの旨仰せ下さると。
 

11月13日 乙卯
  将軍家法華堂に参らしめ給う。供僧等参入す。国絹を以てこれを施さる。行光奉行た
  り。
 

11月14日 丙辰
  去る八日絵合わせの事、負方所課を献ず。また遊女等を召し進す。これ皆児童の形を
  模し、評文の水干に紅葉・菊花等を付けこれを着す。各々郢律の曲を尽くす。この上
  堪芸の若少の類延年に及ぶと。
 

11月15日 丁巳 晴
  将軍家の御祈りとして、奉幣の御使いを南山に遣わさるべき事、今日政所に於いてそ
  の沙汰有り。日次已下治定す。行光御所に参りその由を申すと。
 

11月21日 癸亥 晴
  荻野の三郎景継永福寺に於いて出家を遂ぐ。梶原平次左衛門の尉景高が子なり。景高
  誅伏の後、遺息等頗る沈淪す。而るに景継が心操穏便を存ずるの間、召し仕わるるの
  処、俄にこの事有り。これ去る夜御前に於いて、誤って常燈を滅す。恥辱と称し此の
  如しと。将軍家これを聞こし食さるるに就いて、伊賀の次郎を以て御使いと為す。敢
  えて以て憚るべき事に非ず。その科無きの上は、恥辱に処し難し。早く帰参すべきの
  由仰せ下さるると雖も、御使いに対面せず逐電すと。若しくは事の次いでを求むるか。
 

11月22日 [玉蘂]
  (前略)今日造閑院上棟の日時を勘がえらる。上卿藤中納言光親卿陣に於いてこれを
  行う。来月二日と。
 

11月27日 庚午
  奉行人を国々に遣わさるべき事、日来その沙汰有りと雖も、人数定まらざるに依って
  暫くこれを止めらるべし。