1222年 (承久4年、4月13日改元 貞応元年 壬午)
 
 

5月2日 [百錬抄]
  今夜、土御門万里小路源大納言定通卿亭焼亡す。放火と。
 

5月4日 辛亥
  地震。
 

5月18日 [新編追加]
**関東御教書
  諸国守護人並びに庄々の地頭等、偏に不輸の私領の如く沙汰を抑え、或いは預所・郷
  司を追い出し、或いは自ら上司に相交わり、所当の弁済に及ばず。しかのみならず、
  吹毛の咎を以て、土民等を損ず。去る秋冬より、院宣並びに殿下の仰せに依り、禁符
  を被ると雖も、更に以て承引せず。これに因り、真偽を糺し、注文せしむこと是の如
  し。相模守・武蔵守国々を相分ち、代官一人相副えらるべきなり。尾張国先ず入部の
  始めとして、代官を定め下向し、相散ずべきなり。御使は、五月会神事以後、即ち進
  発すべしてえり。仰せの旨此の如し。仍って執達件の如し。
    貞応元年五月十八日       陸奥の守平(判)
   追申
    国々代官は、器量相計り、定め遣わさるべきなり。また計略を経廻せば、在廰の
    沙汰と為し、訴訟の所々にこれを充つべし。子細は御使に仰せられをはんぬ。
 

5月24日 辛酉
  天地災変御祭を行わる。泰貞これを奉仕す。御使は籐勾当頼隆、祭料は壱岐入道定蓮
  の沙汰なり。
 

5月25日 壬申 晴
  奥州三浦の海辺に逍遙し給う。駿河の前司の経営美を尽くす。