1226年 (嘉禄2年 丙戌)
 
 

10月6日 戊子
  夜に入り光物流星と。子の刻地震。
 

10月9日 辛卯 霽
  評議有り。駿河の前司以下の衆皆参侯す。諸人訴論の事決断せらる。爰に尾張の国御
  家人の中、民部の丞泰貞と駿河の前司郎従大屋の中太家重(泰貞親昵)と年来所領の
  相論有り。その事今日沙汰を経らるるの処、泰貞竊に評定所に廻るの後、評議の趣を
  伺い、駿州は家重の道理・意見を申すの由これを訴え申す。家重またその砌に参る。
  元より駿州の扶持無きの旨これを陳ぶ。縡すでに嗷々の儀に及ぶの間、両人共彼の所
  を追い出されをはんぬ。
 

10月12日 甲午 晴
  評定の時、訴人等近々に伺候する事、向後停止せらるべしと。猶推参の輩有らば、法
  に任せ沙汰を致すべきの由、尾藤左近将監・平三郎左衛門の尉盛綱・南條の七郎・安
  東左衛門の尉等に仰せ付けらる。これ併しながら泰貞の狼藉に依ってなり。彼の所帯
  に於いては、理運の間家重に付けらると。
 

10月13日 天晴 [明月記]
  高野吉野の事、関東委しく申せらる旨有り。その使者上の御成敗を聞かんが為在京す
  と。今度の事初めて将軍の御消息の状を以て言上すと。その次いでまた御書を前殿に
  奉らる。左府辞退の事すでに露顕す。
 

10月16日 天晴 [明月記]
  法眼音信の次いでに云く、対馬の国と高麗と闘諍の由巷説有り。未だ聞かざる事かと。
  末世の極みに依って、敵国来たり伐つか。恐るべし悲しむべし。
 

10月17日 朝天片雲無し [明月記]
  宰相吉田の事の次いでに参る。高野吉野の事を相示す。定喜律師関東の使いとして入
  洛す。長者に申す僧正の事の中、頗る不実の沙汰有りと。高麗合戦一定と。鎮西の凶
  党等(松浦党と号す)数十艘の兵船を構え、彼の国の別嶋に行き合戦す。民家を滅亡
  し、資財を掠収す(行き向かう所、半分ばかり殺害され、その残り銀器等を盗み取り
  帰り来たると。朝廷の為、太だ奇怪の事か)。この事に依って国を挙げ兵を興す。ま
  た我が朝渡唐の船西に向かうの時、必ず彼の国に到着す。帰朝の時、多く風に随い高
  麗に寄ること流例なり。彼の国すでに怨敵たらば、宋朝の往反輙からず。当時唐船一
  艘高麗に寄る。火を付けられ、一人残らず焼死すと。末世の狂乱至極、滅亡の時か。
 

10月18日 庚子 晴
  竹の御所の作事居礎を始めらる。狩野入道・海老名籐内左衛門の尉等奉行すと。今日、
  武蔵の太郎主、京都より唐鳥一羽(その号愛子)を献る。翼青く頭赤く、赤色の中白
  筋有り。頸を廻り環の如し。御賞翫甚深と。
 

10月20日 壬寅
  貢馬上洛の事その沙汰有りと。
 

10月21日 癸卯 天晴、風静まる
  鶴岡宮寺修理有るべきに依って、今夕御正躰等を仮殿に渡し奉る。所謂八幡の御正躰
  は若宮の御殿に渡し奉る。また若宮の御正躰は竈殿に渡し奉ると。
 

10月26日 戊申 霽
  戌の刻天変有りと。

[皇帝紀抄]
  夜半官文殿焼亡す。累代の文書已下火煙すと。
 

10月27日 己酉 晴
  寅の刻八幡宮修理の遷宮なり。御正躰本宮に渡し奉ると。武州参宮し給う。戌の刻将
  軍家聊か御不例、御温気かと。
 

10月28日 庚戌 晴
  御不例の事に依って、招魂祭以下の御祈り等を始行す。三條左近大夫将監親實奉行た
  りと。
 

10月29日 朝天陰 [明月記]
  平河兵衛・籐馬と云う男二人、関東より送り来たり。母子和合同宿すべしと。また書
  状(相模の守時房妻)、書を右兵衛の督に送り、母子和合すべきの由相伝うべし。志
  深庄の地頭は将軍の御下文に有り。但し領家領所は替えるべからずと。事の違乱・世
  の誹謗、偏にこれ母子の違背を以て本と為す。和平に於いては、これ本意の理運なり。