1227年 (嘉禄3年、12月10日 改元 安貞元年 丁亥)
 
 

4月2日 庚戌 晴
  大慈寺の郭内に於いて、二位家第三年忌の奉為、武州の御願として丈六堂を建立せら
  る。今日上棟なり。相州・武州監臨せしめ給う。御家人等群参す。匠等禄物を賜う。
  巨多注記に遑あらず。同日民部大夫入道行然堂の上棟、これまた二品追善の奉為なり
  と。酉の刻将軍家御心神不例。仍って御祈り等を始行せらる。明日重日の故なり。
 

4月3日 辛亥 晴
  御不例の事聊か温気し御う。但し今日殊なる御事無しと。
 

4月4日 壬子 晴
  将軍家十三番の相撲を召覧す。
 

4月8日 丙辰 晴
  如法鬼気祭以下の御祈りこれを行わる。
 

4月11日 朝より陰雨漸々灑ぐ [明月記]
  申の時に及び心寂房来談の次いでに云く、去る八日午の時ばかり管十郎左衛門の許に
  罷り向かう。その辰の時ばかり法印終命の日なり。武士委しくその間の事を談る。年
  来熊野また洛中・鎮西等に経廻し、この三年ばかり在京す。茂盛子の兵衛入道尋ね逢
  い友と為すの間、件の法師の従父兄弟、山の伯耆房また知音の間、兵衛入道忽ち貳心
  を挟み、以てこの事を告ぐ。身を扶けんが為計るべきの由支度を成し、使者を以て武
  州に触る。武州悦びを成し、書状を以て、搦め取るべきの由河東に示し送る。状は五
  日到来す。忽ちその事を議し、伯耆房法印の許に向かう(早旦)。敵を恐れ我が身出
  門するの時入るべきの由、兼ねて武士と約し行き向かう。武士避暑の由を称し、二條
  大宮泉(管十郎・小笠原)に行き向かう。甲冑を車に入れこれを運ぶ。また乗車四両
  を馬に引かしむ。彼の近辺に行くの間、伯耆河東の武士群を成すの由これを聞き、罷
  り向かい見て帰り来たるべきの由を称し、出門し武士を麾き、奔り去るの間、管の十
  郎の手先押し寄す。法印劔を取り一間所に入る。先ず奔り入る男突かれ(三疵)帰り
  出る。次いで入る者また突かる(浅手)。次いで自害するの後、車に入れ河東に向か
  う。車ながら門内に入る。法印問いて云く、あの男は誰ぞ。人云く、修理の亮殿・武
  蔵の太郎こざれ。またあの男は掃部の助殿。これは見き。次いで云く、ただ早く頭を
  きれ、もし然らざればまた義時が妻が義時にくれ遣さむ薬されこるてくはせて早ころ
  せ(衆中頗るこの詞に驚く)。(略)また和田兵衛入道の説、年来京人に知音の由と。
  如何なる由これを問えば、また云く、京中に知人の事何要たるや。甚だ無益なり。更
  にこれ無しと。(略)八日辰の時ばかり只今臨終か。帷を着し改め手は仏に懸けしむ。
  高声念仏、坐しながら終命す。武士等往生の由を称す。跡屍香無し。各々これを賛歎
  す。(略)兵衛入道は武士の許に召し取り置く(後日の賞罰これを知らず)。件の法
  師の縁者(しうとか)、入道宮僧都知音。これに依って責めらると。
 

4月12日 庚申 晴
  幕府の御畳の上に犬の糞有り。驚き御沙汰有り。百恠祭を行わる。国継これを奉仕す。
 

4月13日 辛酉 戌の刻地震
  今日恠異並びに息災の御祈りとして、七座の泰山府君祭を行わる。親職・晴賢・泰貞
  ・重宗・文元・道継・国継等奉仕すと。
 

4月16日 甲子 霽
  近日世上頓死の類甚だ多し。これに依って或いは餅を舂き、或いは粥を煮て食す。所
  々この事有り。今夜御所中これを始めらる。また将軍家御不例の事に依って、今日御
  所南門に於いて鬼気祭を行わる。泰貞これを奉仕す。嶋津豊後の守の沙汰なり。周防
  の前司親實これを奉行す。
 

4月20日 天晴雲収む [明月記]
  午の時ばかり中将来たり。夜前左衛門の尉知景相門の御使として関東に馳せ下る。女
  房御仏事を修すべし。行兼を相具し下向すべしと。
 

4月21日 己巳 晴
  新御所裏板を葺き瓦を葺かんと欲す。而るにすでに五月節に入るの間憚るべきかの由、
  行事隠岐の入道・後藤左衛門の尉等これを申すに依って陰陽師に問わる。天井の裏板
  等の事は憚るべからず。屋上は裏板・瓦共、五月を以て忌むべきの由、一同申せしむ
  るに依って閣かると。
 

4月22日 庚午 晴
  武州大倉御堂に渡御す。この所に於いて陰陽道の輩を召し、新造堂供養の事を問わる。
  六月十九日たるべきの旨、京都より撰び申すと雖も、その以前土木の功を終え難し。
  七月十一日(正日)以前の日次計り申すべし。五日壬午何様たるべきやてえり。晴幸
  ・文元申して云く、午の日は将軍御衰日なり。尤も憚り有るべしと。泰貞申して云く、
  将軍家御衰日・二位家第三年の御仏事、憚らるべきに非ざるか。但し十一日戊子無難
  の日なり。これを遂げらるべきかと。親職・宣賢申して云く、戊子吉に入らざるの上、
  丈六供養の先規無し。五日宜しと。各々の申状すでに一揆せざるの間、駿河の前司如
  きの衆評議せられて云く、将軍家御衰日憚るべきの儀無し。三宝吉日に付き五日たる
  べきの由定められをはんぬ。清和天皇の御宇貞観三年辛巳三月十四日戊子、東大寺大
  仏供養なり。

[百錬抄]
  未の刻火有り。土御門町辺なり。東風頻りに吹き、火延大内に及ぶ。承久回禄の後、
  僅かに新立の殿舎桧皮を葺き棒屋を敷く。皆以て灰燼と為す。外記廰余焔を免がると
  雖も、結成南所すでに焼けをはんぬ。遷都以後未だ焼けざるの所なり。大内半作と雖
  も、炎上の後廃朝有るべきや否や余議有り。
 

4月23日 辛未 晴
  西国の悪党蜂起するの間、守護人に仰せ、対治せらるべきの旨御沙汰に及ぶと。

[明月記]
  後聞、検非違使行兼の次男左衛門の尉(左衛門の尉基綱聟と)他行の間、舎人男大路
  に馬を置き、草を運び門内に入るの間、男一人来たり、その草を取り逃げ去る。草盗
  と称し追い搦めんと欲するの間、他の郎等男を見付け、制止し取り放しをはんぬ。そ
  の後件の男の党類、群を成し門内に乱入し、飛礫を以て宅を打つの間、また他の郎等
  これを聞き来たり、剣を抜き奔り懸かるの間、十余人群入の者逃げ散りをはんぬ。
 

4月24日 壬申 晴
  将軍家御不例の事、時々発らしめ給うと。今日戌の刻この御気有り。武州以下諸人群
  参すと。
 

4月25日 癸酉 晴
  御不例の事に依って、御祈りを始行せらるべきの由、その沙汰有りと。
 

4月26日 甲戌 晴
  亥の刻地震。
 

4月27日 乙亥 晴
  武州の御沙汰として、将軍家御不例の御祈り、三万六千神以下の御祭等これを行わる。
  今日より聊か御減気有りと。

[明月記]
  山門の僧また専修を妨げるに依って、法然房の墓を発し、その墓堂を破壊す。濫僧等
  を以て壊し取らしむの間、武家より制止す(この事の日を知らず)。山の所司等を陵
  轢せんと欲するの間、訴訟嗷々すと。
 

4月29日 丁丑 霽
  御不例の事に依って御祈り等を始行せらる。周防の前司親實奉行たり。
   仏眼護摩(荘厳房律師)    尊星王護摩(信濃僧都)
   薬師護摩(大進僧都)     北斗護摩(若宮別当僧都)
   金剛童子護摩(丹波律師)   正観音法(山口法眼)
   千手法(宰相律師)      不空羂索法(常陸律師)
   延命供(越中阿闍梨)     大威徳法(蓮月房律師)
    以上内典
   三萬六千神祭(前の大膳の亮泰貞) 属星(陰陽大允親職)
   天地災変祭(陸奥権の守国継)   泰山府君祭(左京の亮重宗)
   呪咀祭(陰陽少允晴幸)      霊気(散位晴賢)
   疫神祭(散位道継)        竈神(図書の助晴職)
   土公祭(散位宣賢)
    已上外典