7月4日 辛巳 晴
酉の刻、六波羅の修理の亮下着せらる。これ丈六堂供養結縁の為参向せんと欲するの
刻、次郎主の事を聞き、殊に鞭を揚ぐと。
7月6日 天晴 [明月記]
山門の訴え強盛す。神輿を振るべきの由、頻りに以て騒動するの間、今日雅親卿参陣
す。左大弁結政に参る。張本隆寛(本山僧、律師)・空阿弥陀仏・成覺等流罪と。
[百錬抄5日]
専修念仏者配流の官符請印。隆寛律師(還俗名山遠里)陸奥に配す。空阿弥陀仏(改
名原秋澤)薩摩。成覺(改名枝重)壱岐嶋。
7月10日 丁亥 晴
夜に入り、新造の堂舎に於いて鎮祭を行わると。
7月11日 戊子 天顔快晴
二位家第三年の御仏事、丈六(阿弥陀)堂供養なり。日次の事、度々沙汰有りと雖も、
遂に以て今日に及ぶ。導師は荘厳房律師行勇、請僧二十口。舞楽これを略せらる。御
布施三十・物二十五。竹の御所御聴聞の為渡御す。相州・武州・匠作以下、結縁の貴
賤勝計うべからずと。
7月12日 己丑 晴
近日伊勢の国の悪党蜂起す。而るに去る六月晦日、本間左衛門の尉元忠当国大石御厨
に於いて、賊主丹生右馬の允を窺い襲うの処、伴類を卒い悉く逃亡す。一人として討
ち留められずの由これを馳せ申す。この悪党は、同人本間去る四月二十二日仰せを奉
り、丹生山に於いて虜らんと欲するの処、還って彼等の為、親類・郎従等多く以て討
ち取られをはんぬと。
7月13日 炎旱焼くが如し [明月記]
巷説に云く、武士等少々八幡に遣わす。これ南の衆徒宮寺を焼き払うべきの由その聞
こえ有りと。
7月19日 丙申 風雨雷鳴甚だし。亥の刻聊か晴に属く
西山より赤気立ち半天に及ぶ。その色赤白。西は黒雲に隠れ、東は明月を映して、或
いは明るく或いは隠れる。少時して消えをはんぬ。暁に至り更にまた甚雨。
7月21日 [百錬抄]
関白直廬に於いて、議定の事有り。去年対馬の国の悪党等高麗国全羅州に向かい、人
物を奪取し、住民を侵陵する事、由緒を報ずべきの由牒送す。太宰小貳資頼の上奏軽
からず。高麗国使の前に於いて、悪徒九十人を捕り斬首す。偸に返牒を送ると。我が
朝の恥なり。牒状無礼と。
7月22日 己亥 晴
今日、納殿の立柱・打足・竪桁。進士刑部の丞行継の沙汰なり。
7月23日 庚子 晴
光物有り。流星と。
7月25日 壬寅 晴
民部大夫入道行然二位家御追善の為梵宇を草創せしむ。今日供養を遂げをはんぬ。導
師は聖覺僧都。京都より招請せしむ。夜前下着し給う。凡そ表白餝花・啓白貫玉の間、
聴聞の尊卑随喜渇仰す。言語の覃ぶ所のみならず、竹の御所御結縁の為御出で。相州
・武州渡御す。夜に入り御方違え有り。西侍火爐に御宿の間、近習の人々数輩参候す。
御連歌等有りと。
7月26日 癸卯 晴
納殿上棟。
7月28日 乙巳 晴
後藤左衛門の尉基綱の奉行として、陰陽道の輩を御所に召し聚め、天変の事を尋ね下
さるるの処、泰貞・宣賢白虹に非ざるの由これを申す。親職・晴賢白虹たるの旨言上
すと。
[明月記]
人云く、山門衆徒の怒りいよいよ嗷々す。悪言を吐くと。張本三人の流人各々引汲の
所に隠す。その在所を知らず。朝威の軽忽・人心の狂乱、これを以て察すべきか。
7月29日 丙午 晴
親職・晴賢等白虹の勘文を捧ぐ。後藤左衛門の尉基綱に付すと。