1240年 (延應2年、7月16日 改元 仁治元年 庚子)
 
 

7月1日 癸亥
  将軍家御不例の事、昨日より御減すと。今日炎旱に依って水天供を行うべきの旨、鶴
  岡の供僧等に仰せらると。出羽の前司行義これを奉行す。

[平戸記]
  炎暑気殊に蒸すが如し。日数すでに旬月を渉る。世間皆損じをはんぬ。今日炎気殊に
  以て堪え難し。上下堪忍するに能わず。去る夜より一重此の如き炎旱□重り、定めて
  人々の迷惑を知るべし。上下冷水を羞すの外、他の治法無し。
 

7月4日 丙寅
  祈雨の為別して十壇の水天供を始行せらる。法印定親・良信・良賢等これを修す。
 

7月5日 丁卯 晴 [平戸記]
  請雨経法、今日始行せらるべきの由、その沙汰有りと雖も、用途無きに依って両三日
  延引すと。
 

7月7日 己巳 晴 [平戸記]
  炎旱逐日興盛す。誠に愁うべきなり。天災か。申の刻ばかり頭の弁来たり。改元の事、
  人々候すべきの由、大略一同申せしむと。然れども未だ一定せず。入道殿仰せ切られ
  ずと。
 

7月8日 庚午
  夜に入り雨少し降る。地を湿すに能わず。

[平戸記]
  今日より神泉苑に於いて、請雨経法を始行せらる。醍醐座主實賢これを勤修す。御読
  経の如き未だ行われず。すでにこの法に及ぶ。希代の事か。その用途諸国に宛召さる。
 

7月9日 辛未 雨下る
  水天供の験徳かの由沙汰に及ぶ。但し猶滂沱に能わず。今暁六波羅の越後の守時盛帰
  洛す。匠作の事に依って参向する所なり。今日に於いては関東祇侯を聴さるべきの由、
  この間頻りに愁い申すと雖も、恩許無し。去る五日進発すべきの由、四日前の武州平
  左衛門の尉盛綱を以て度々相催せらる。然れども五日は太白方の由、延引を申請すと。
 

7月11日 癸酉
  水天供、昨日七ヶ日に満つと雖も、猶延引せらると。
 

7月13日 乙亥 辰の刻甚雨、巳の刻晴に属く
  水天供の間数度の甚雨有り。仍って奉仕の僧各々御剱一腰を賜う。また御剱を鶴岡に
  奉らる。神馬を二所・三嶋等に送り進せらるべしと。
 

7月16日 戊寅 晴 [平戸記]
  辰の刻ばかり殿下より仰せられて云く、今日改元、必ず参るべし。然らずんば遂行せ
  しめずてえり。(中略)頭の弁語りて云く、入道殿に参り申す。召しに依って御前に
  参る。仁治宜しかるべきの由仰せらる。二人の難、天子執柄冶世の事なり。何事か在
  らんやと。この仰せ太だ謂われ無きか。治の字兵革の事、後白河院御時の難、尤も去
  らるべきか。遂にこの号を用いらる。
 

7月26日 戊子 天霽
  将軍家二所の御精進始めなり。未の刻潮に浴し給わんが為由比浦に出御す。御先達は
  一乗房阿闍梨と。夜に入り由比浦に於いて風伯祭を行わると。左馬の頭義氏朝臣の沙
  汰なり。寛喜の例に任せ、泰貞朝臣これを奉仕す。前の隼人の正光重御使たり。これ
  今年天下旱魃の間、兼ねて風難を攘わんが為行わるる所なり。
 

7月27日 己巳 天霽
  卯の刻将軍家また御浜出で。二所の御精進の間潮に浴せしめんが為なり。今日京都の
  使者参る。去る十六日改元、延應二年を改め仁治元年と為す。