1246年 (寛元4年 丙午)
 
 

5月5日 壬戌
  鶴岡八幡宮の神事例の如し。戌の刻月軒轅大星を犯す。
 

5月7日 甲子 天晴
  巳の刻地震。
 

5月14日 辛未 天晴
  天変並びに月蝕の事、殊に御慎み有るべきに依って、御祈祷等を始行せらる。所謂、
  入道大納言家御分
   薬師護摩 (岡崎僧正成源)
   愛染王供 (按察法印賢信)
   月曜祭  (文元朝臣)
  将軍の御方
   月曜供  (助法印珍譽)
   羅ゴ星祭 (国継)
  将軍御台所御分
   羅ゴ星供 (晴賢)
   月曜祭  (定賢)
 

5月16日 癸酉 天晴
  月蝕現れず。剰え円満・明なり。但し夜半以後陰雲すと。
 

5月22日 己卯 天晴
  寅の刻秋田城の介義景の家中並びに甘縄の辺騒動す。縡すでに広々に及ぶ。
 

5月24日 辛巳
  鎌倉中の民静まらず、資財・雑具東西に運び隠すと。すでに辻々を固めらる。渋谷一
  族等、左親衛の命を請け、中下馬橋を警固す。而るに太宰の少貳御所に参らんが為融
  らんと欲するの処、彼の輩御所に参るに於いてはこれを聴すべからず。北條殿の御方
  に参らしめば、抑留に及ぶべからざるの由を称す。この間頗る喧嘩有り、いよいよ物
  騒す。夜半皆甲冑を着け旗を揚ぐ。面々雅意に任せ、或いは幕府に馳参し、或いは左
  親衛の辺に群集すと。巷説縦横す。故遠江入道生西の子息逆心を挿み、縡発覚するの
  由と。
 

5月25日 壬午 天晴
  世上物騒す。左親衛の宿館の警固敢えて緩からず。甲冑の軍士四面を囲繞す。卯の一
  点但馬の前司定員御使と称し左親衛の第に参る。而るに殿中に入るべからざるの旨、
  諏方兵衛入道・尾籐太平三郎左衛門の尉等に下知せしめ給うに依って、忽ち退出すと。
  越後の守光時御所中に侍宿せしむの処、今暁家人喚び出しに参るの程、白地に即ち退
  出しをはんぬ。帰参の儀無く落餝し、その髪を左親衛に献ず。これ左親衛を追討すべ
  きの由一味同心を成し、改変すべからざるの趣、相互に連署の起請文を書く。その張
  本は名越一流に在るの由風聞するの間、この儀に及ぶ。舎弟尾張の守時章・備前の守
  時長・右近大夫将監時兼等は、野心無きの旨兼ねて以て陳謝せしむに依って、殊なる
  事無しと。その後但馬の前司定員右事出家す。秋田城の介義景これを預かり守護す。
  子息兵衛大夫定範縁坐に処せらると。午以後群参の士また旗を揚ぐ。今日遠江修理の
  亮時幸病に依って出家すと。

**[保暦間記]
  江間越後の守光時(相模の守朝時嫡子)将軍の近習して御気色吉りけるが、驕心有っ
  て、我は義時が孫なり。時頼は義時が彦なり。光時将軍の権を執らせんと企ける程に、
  将軍も光時に心を寄せられけるにや。
 

5月26日 癸未 天晴
  左親衛の御方に於いて内々御沙汰の事有り。右馬権の頭・陸奥掃部の助・秋田城の介
  等その衆たりと。