7月1日 晴 [葉黄記]
南都の栄圓・玄芸等今日武家に召し渡さる。前の相国(實氏)長時に仰せ遣わし使者
(佐治左衛門の尉重家・真木野左衛門の尉茂綱・高橋左衛門の尉時光等と。直垂・小
袴、郎等甲冑に及ばずと)を進す。御所門前に於いて渡すべきの由相国これを計り申
さる。仍って予官人に仰せをはんぬ。可不を弁ぜず武士等冷泉西門外に候す。検非違
使左尉章種・右尉章澄(以上立烏帽子を引き弓箭を帯し、毛沓白靱を着すか)等彼の
両人を相具し参上す。縄を付けるに及ばず。但し布衣長(負剱)・放免等これを持参
す。友景(相国後見、武家の事問答の仁か)門下に候しまた問答の事等有るか。武士
門外に於いてこれを請け取る。両人乗馬せしめ六波羅に向かうと。六波羅に於いてま
た他の武士に預けるか。今日貴賤の見物、月卿雲客また門下に立ちこれを見る。
[百錬抄]
呪詛の張本武士に渡されをはんぬ。
7月2日 丁未 晴 [葉黄記]
長時の使い(重家・茂綱)来たり、御所に於いてこれに謁す。栄円の申す詞等一切承
伏せず。これに就いて子細を申す。時に興福寺三綱定寛(一条院に於いて栄円に問う
の者なり)上洛し武家に向かう。子細を問答すべきの由仰せ下されをはんぬ。
7月3日 戊申
来月十五日の鶴岡放生会、将軍家の御出有るべきに依って、供奉人の事日来その沙汰
有り、人数を催せらる。今日交名を整え奉る。これを覧るに就いて、御前に於いて随
兵以下の事これを差し定めらる。相州・左親衛申し沙汰せらる。陸奥掃部の助奉行た
りと。
7月7日 壬子
官途の事沙汰を経られ、人々多く恩許を蒙る。近江四郎左衛門の尉氏信廷尉の御挙に
預かるべしと。
7月8日 癸巳 [葉黄記]
武家の使い重家・茂綱等来たり。栄円の事子細の問答をはんぬ。
7月9日 甲寅
諏方兵衛入道蓮佛始めて寶壽公の御方の雑事を執行す。日来辞し申すに依ってこれを
閣くと。
7月10日 乙卯
雑務の條々その沙汰有り。教経等勘じ申して云く、所謂父祖所領を質券に入れ、弁を
致さず死去せしむの時、後家並びに子息に譲り與えしめをはんぬ。而るにその所を得
るの仁、親の出挙たるに依って、平均に支配すべきの由これを申す。自余の子息等、
名字を差し質券に入るの上は、その所知行の仁沙汰を致すべきの由これを申す。次い
で亡妻養子の事、凡そ女人は自専の法無し。養子は、夫免さざるの外は、女人の養子
は免さざる所なり。次いで亡妻遺物の事、その子息有らばこれを進退すべきなり。一
子無きの時は、夫これを進止すべからず。妻の祖家に返すべし。また盗人の罪科軽重
の事、先日定め置かれをはんぬ。而るを彼の状を守り、小過たりと称し一倍の弁を致
すの後、猶以て小過の盗犯を企てば、重科に准え、一身の咎に行わるべきか。この趣
を以て、雑人奉行等存知べきの由仰せ出さると。
**盗人罪科軽重の事[鎌倉幕府法]
宝治二年七月十日事書内、明石左近将監奉行
先日定め置かれをはんぬ。而るを彼の状を守り、小過たりと称し、一倍の弁を致す
の後、猶以て小過の盗犯を企てば、重科に准え一身の咎に行わるべし。この趣を以
て雑人奉行等存知しむべきか。