1254年 (建長6年 甲寅)
 
 

8月3日 癸酉 [百錬抄]
  立親王(今度降誕の皇子、御名雅尊)宣下なり。右大臣已下これに参る。
 

8月5日 乙亥 晴
  彼岸の初日なり。御所の御持仏堂に於いて法華懺法を始行せらる。その衆十二口なり。
 

8月10日 庚辰 雨降る、夜に入り晴に属く
  丑の刻東方に白虹見ゆ。
 

8月11日 辛巳 晴
  今日彼岸懺法の結願。導師は左大臣法印。花山院中将・尾張少将・中御門少将、各々
  唱導の布施を取る。那波左近大夫政茂・能登左近蔵人仲時等請僧の布施を役す。
 

8月15日 乙酉 陰
  鶴岡放生会。巳の刻小雨降る。将軍家南面階の間に御出で。為親朝臣御祓いに候す。
  陪膳は伊豫中将公直朝臣、役送は右近大夫政茂。
  御出の行列、
  先陣の随兵
   武田の三郎政綱  南部の次郎實光  三浦の介盛時  遠江の十郎頼連
   大曽彌次郎左衛門の尉盛経      出羽の三郎行資 越後右馬の助時親
   備後の三郎長頼  遠江の六郎教時  陸奥の七郎業時
  次いで前駈
   能登左近大夫仲時    那波左近大夫政茂
  次いで殿上人
  次いで御車
   小野寺新左衛門の尉行道 土肥の四郎實綱     山内籐内左衛門三郎通廉
   善右衛門次郎康有    紀伊四郎右衛門の尉   大曽彌左衛門太郎長経
   梶原上野の次郎     狩野左衛門四郎景茂   平賀の新三郎惟時
   肥後の彌籐次
    已上直垂を着し帯劔、御車の左右に候す。
  御劔役人 遠江の前司時直
  御調度
  御後(布衣)
   相模右近大夫将監時定  尾張の三郎頼章     武蔵の太郎朝房
   中務権大輔家氏     参河の前司頼氏     出羽の前司行義
   壱岐の前司基綱     和泉の前司行方     佐々木壱岐の前司泰綱
   大隅の前司忠時     伊賀の前司時家     周防の前司忠綱
   長門の前司時朝     遠江の守光盛      梶原上野の介景俊
   城の九郎泰盛      和泉次郎左衛門の尉行章 梶原上野の太郎景綱
   大曽彌左衛門の尉長泰  佐渡五郎左衛門の尉基隆 和泉五郎左衛門の尉政綱
   筑前次郎左衛門の尉行頼 隠岐三郎左衛門の尉行氏 小野寺四郎左衛門の尉道時
   肥後次郎左衛門の尉為時 城の次郎頼景      善右衛門の尉康長
   薩摩七郎左衛門の尉祐能 伊賀次郎左衛門の尉光房 狩野五郎左衛門の尉
   紀伊次郎左衛門の尉為経 足立三郎左衛門の尉   加地七郎左衛門の尉氏綱
   肥後四郎兵衛の尉行定  彌善太右衛門の尉    加藤左衛門三郎景経
   鎌田兵衛三郎
  後陣の随兵
   相模の八郎時隆     武蔵の八郎頼直     長井の五郎時秀
   上野の三郎国氏     河内三郎左衛門の尉祐氏 肥後次郎左衛門の尉景氏
   小田左衛門の尉時知   田中右衛門の尉知綱   阿波四郎兵衛の尉政氏
   阿曽沼の小次郎光綱
 

8月16日 丙戌 晴陰、夜に入り甚雨
  今日御出の儀昨に同じ。
 

8月17日 丁亥 快晴
  相州この間御風気に依って蟄居す。今日始めて出仕し給う。