1257年 (康元2年、3月14日 改元 正嘉元年 丁巳)
 
 

2月2日 戊午
  将軍家鶴岡八幡宮に御参り。先ず御禊ぎ有り。為親朝臣(衣冠)・能清朝臣陪膳に候
  す。仲家役送たり。資茂同手長を勤む。その後御車を寝殿南面に寄す。土御門中納言
  顕方卿御簾に候す。西唐門より御出で。
  行列
  先ず前駈六人(衣冠。下臈前と為す)
   赤塚蔵人資茂   能登右近蔵人仲家    押立蔵人資能
   近江の前司季實  備中右近大夫将監忠茂  能登右近大夫重教
  次いで殿上人七人(束帯、下臈先と為す)
   一條侍従定氏    六角侍従家基    二條侍従雅有   近衛少将公敦
   紙屋河兵衛の佐顕名 中御門侍従宗世朝臣 一條少将能清朝臣
  次いで公卿四人(直衣・束帯相交る、下臈先を為す)
   刑部卿宗教  前の兵衛の督教定  仁和寺三位顕氏卿  土御門中納言顕方卿
  次いで御車
   梶原上野の三郎景氏   隠岐次郎左衛門の尉時清 武藤次郎兵衛の尉頼泰
   小野寺新左衛門の尉行通 太宰肥後左衛門三郎為成 周防三郎左衛門の尉忠行
   善次郎左衛門の尉泰有  肥後六郎右衛門の尉時景 鎌田三郎左衛門の尉義長
   平賀の新三郎惟時    鎌田三郎兵衛の尉行俊
    以上直垂を着し帯劔、御車の左右に候す。
  御劔役  刑部少輔教時
  御調度  彌次郎左衛門の尉親盛
  次いで御後
  五位十人(布衣・下括り)
   相模式部大夫時弘    尾張左近大夫将監公時  少輔左近大夫将監佐房
   備後の前司康持     長門の前司時朝     秋田城の介泰盛
   伊賀の前司時家     縫殿の頭師連      周防の前司忠綱
   太宰の少貳景頼
  六位十三人(布衣・下括り)
   陸奥の六郎義政     同七郎業時       備前の三郎長頼
   遠江の七郎時基     武蔵の四郎時仲     遠江の太郎清時
   長井の太郎時秀     善右衛門の尉康長    隠岐三郎左衛門の尉行氏
   紀伊次郎左衛門の尉為経 肥後次郎左衛門の尉為時 渋谷左衛門の尉武重
   武藤右近将監兼頼
  御車を赤橋下に遣り立つ。黄門御簾に候す。重教御榻を献る。宗世朝臣御沓(兼頼こ
  れを伝う)に候す。黄門御裾尻を取る。下宮御奉幣なり。仁和寺三位御幣を進す。次
  いで上宮に御参り。御経供養、御聴聞有り。導師。前駈の人々御布施(政所沙汰)を
  取る。政所寄人等手長たるなり。事訖わり還御す。
 

2月6日 壬戌 晴
  将軍家二所御精進始め。
 

2月10日 丙寅 霽
  二所奉幣の御使遠江の守時直朝臣進発す。

[百錬抄]
  太政官廰炎上す。朝所の外悉く焼失す。
 

2月14日 庚午 晴
  遠江の守二所より帰参す。
 

2月22日 [北條九代記]
  時茂左近将監に任ず。同日叙爵。
 

2月26日 壬午 天晴、風静まる
  今日午の二点、相州禅室の若君(御名正壽、七歳)御所に於いて首服を加えらる。奥
  州並びに御家人(各々布衣・下括り)西侍に着す。二棟の御所に於いてその儀有り。
  東障子に副え御座(大文高麗縁)を設く。若公童装束(狩衣・袴繍)を着し、武州の
  座下に着せらる。時刻に将軍家出御す。土御門中納言(顕方卿、直衣)二棟南面の妻
  戸を出て、廊根の妻戸の間に蹲踞す。若公に向かい召しの由を告ぐ。若公御前に参ら
  る。武州これを扶持し奉らる。次いで御装束・御烏帽子を賜わり退下す。中御所西の
  対渡廊に於いて屏風を立て、賜わる所の御衣(浮線綾狩御衣・紫浮織物御奴袴、蘇芳
  二柏・紅単衣)を着られ、則ちまた簾中に参らる。武州の扶持先の如し。その後雑具
  を置く。先ず秋田城の介泰盛烏帽子を持参す(柳筥に置く)。御前の簀子に進み、御
  簾を抬げこれに進み入る。次いで壱岐の前司泰綱乱筥を取り出す。太宰権の少貳景頼
  カン杯(柳筥に置く)を役す。已上作法先の如し。次いで奥州侍座を起ち、廊の西縁
  を経て切妻戸の庇に候せらる。武州は理髪役として簾中に候せらる。その外の人々廊
  西南の座に列す(北上、車切折東)。次いで武州理髪に参進す。次いで新冠御座前に
  候し給う。御加冠。次いで新冠三拝す。次いで本役人等参進し雑具を撒く。武州簾中
  より出て庭上に加わる。次いで黄門二棟南面より出て、同西面の御簾三箇間を上ぐ。
  次いで進物、御劔は武蔵の前司朝直、御調度は尾張の前司時章、御鎧は刑部少輔教時
  ・左近大夫将監公時、御野矢は下野の前司泰綱、御行騰は和泉の前司行方。
   一の御馬(鞍を置く、銀) 陸奥の六郎義政  原田籐内左衛門の尉宗経
   二の御馬(白伏輪の鞍)  陸奥の三郎時村  工藤左衛門の尉高光
   三の御馬(同)      相模の三郎時利  南條新左衛門の尉頼員
  次いで新冠御劔を給い(自らこれを取り給う)退出す。武州更に堂上これを扶持し、
  便に侍座に着せらる。次いで人々同座に帰着し、三献の儀有り。次いで新冠御前物(そ
  の座武州已下初めの如し)。次いで予め書き下す御名字(時宗)、黄門これを給い武
  州に授けらる。
 

2月28日 甲申 [百錬抄]
  午の刻、五條大宮殿院御所炎上す。

**[五代帝王物語]
  五條殿炎上。五條殿は大宮院の御所なるべしとて、常磐井の大相国の造られしかば、
  橘知茂が沙汰にて造りしに、閑院の外京中になきほどの御所に造りたてて、(以下略)