1260年 (正元2年、4月13日 改元 文應元年 庚申)
 
 

8月2日 丁酉 晴
  式部太郎左衛門の尉京都より帰参すと。
 

8月5日 庚子 晴、甚雨、申の刻大風
  人屋多く以て破損す。戌の刻風休む。地震。
 

8月6日 辛丑
  相模の三郎外祖父卒去するの間、軽服と。
 

8月7日 壬寅 晴
  将軍家赤痢病を煩い御う。仍って相模の太郎殿の沙汰として、如法泰山府君祭を行わ
  る。為親朝臣これを奉仕す。御使は狩野四郎左衛門の尉。
 

8月8日 癸卯 晴
  御悩に依って、七口の碩徳を以て七座の法を修せらる。安祥寺僧正・松殿法印・勝長
  寿院法印・左大臣法印以下なり。
 

8月12日 丁未 霽
  御悩の事に依って、相模の太郎殿の御沙汰として、一日中に薬師像(将軍家御等身)
  を造立せらる。供養導師は尊家法印。また薬師法を始行せらる。今日六波羅に仰せ遣
  わさるる事有り。その御教書に云く、
   問注以後の追進状の事、證文を進せざるの外、訴陳に於いては、沙汰に及ばざるの
   由定められをはんぬ。而るに問注記の具書を進覧するの時、毎度追進状を副え進せ
   らるるの條、傍例に違い、沙汰の煩い無きに非ず。自今以後に於いては、證文の外、
   訴陳の状を副え進すべからず。もし簡要の證文を備進せしめば、覆問を遂げ、彼の
   證文を副え進せしむべきの状、仰せに依って執達件の如し。
     文應元年八月十二日      武蔵の守
                    相模の守
   陸奥左近大夫将監殿
 

8月15日 庚戌 晴
  鶴岡の放生会。将軍家御参宮無し。赤痢病の御悩軽からざるが故なり。武州御使とし
  て神拝せらる。舎弟左近大夫将監義政並びに相模の四郎・和泉の前司行方・太宰権の
  少貳景頼・壱岐の前司基政・縫殿の頭師連・上総の前司長泰等廻廊に参る。
 

8月16日 辛亥 陰
  武州参宮昨に同じ。将軍家御出無しと雖も、馬場の儀桟敷等例の如し。大夫判官行有
  ・大夫判官廣綱・大夫判官行氏等馬場を警固す。
 

8月17日 壬子 晴
  将軍家の御悩に依って、御鞠の壺に於いて、天文博士為親朝臣如法泰山府君祭を勤む。
  鞍置き馬一疋・鎧・弓箭等、相模の太郎殿の御沙汰としてこれを奉らる。御双紙箱(錦
  の袋に入る)、御所よりこれを出さる。
 

8月20日 乙卯 晴
  将軍家の御悩聊か減に属かしめ御う。
 

8月25日 庚申
  二所御参詣有るべきに依って、供奉人等その沙汰有り。且つは先日の御点人数を書き
  出し進せしむべきの由、小侍所に仰せらる。行方これを伝達すと。宗像の六郎子息の
  童形(如意丸と号す)御調度懸けに点じ供奉すべきの由定めらると。
 

8月26日 辛酉 雨降る
  将軍家御除服。為親朝臣(亥の刻)御祓いを勤む。陪膳は讃岐の前司忠時朝臣(布衣)、
  役送は近江の前司季實。