1261年 (文應2年、2月20日 改元 弘長元年 辛酉)
 
 

11月1日 己未 天晴
  前の下野の守正五位下藤原朝臣泰綱(年五十九、時に在京)卒す。
 

11月2日 庚申 天晴
  貢馬・貢金等京都に進発す。
 

11月3日 辛酉 霽
  寅の一点入道従四位上行陸奥の守平朝臣重時卒す(年六十四、時に極楽寺別業に住す)。
  発病の始めより、万事を抛ち、一心に念仏し正念に住し終わりを取ると。
 

11月6日 甲子 霽
  寅の刻奥州禅門葬礼と。
 

11月7日 乙丑 天晴
  戌の刻雷鳴。
 

11月11日 己巳
  御祈りの時、大阿闍梨の壇所として宿所を点じ召さるべき事、鞠懸りの樹を召さるべ
  き事、定めらる。並びにその人数、
   越前の前司  刑部少輔  武蔵左近大夫将監
   新相模の三郎 秋田城の介 上野大夫判官
 

11月12日 庚午 天晴
  政所廰屋等上棟。
 

11月22日 庚辰
  押垂齋藤の次郎小侍所の番帳に召し加えらる。武藤少卿景頼これを申し沙汰すと。
 

11月26日 甲申
  明年正月御弓始めの事その沙汰有り。射手等を差さる。相模の太郎殿・越後の守連署
  の奉書を下さると。