使用しました吾妻鏡は、汲古書院発刊の「振り仮名付き 吾妻鏡 寛永版影印」というもの
です。これがどのようなものなのか、また吾妻鏡にどのような種類があるのか。使用した
吾妻鏡の後書きに記載された「吾妻鏡刊本考」より抜粋させていただきます。

最もはやく世に顕れ、通行本の祖となったのは北條本である。この本は小田原北條氏に伝
わり、天正18年小田原の役の和議の交渉に際し、北條氏直が折衝につとめた黒田如水に
謝礼の引出物に贈ったが、後慶長9年黒田長政から如水の遺物として徳川家康に献上され
たものである。慶長10年家康がこの本を底本として活字を以て印行せしめたので、現代
に至るまで本書刊本の底本となり、世に北條本と称せられる。家康没後、江戸城内の紅葉
山文庫に収蔵され、現在内閣文庫に伝存する。室町時代の書写にかかり、52巻に分かれ、
51冊、巻第45を欠く。その他、吉川家所蔵本は大永2年右田弘詮の書写になり、47
巻、北條本に脱落せる闕文をかなり含んでいる。島津家所蔵本は北條本同様51冊で、巻
45を欠く。

家康は慶長3年から京都の伏見に於いて木活字を用いて漢籍を印行せしめており、世にこ
れが伏見版と言われる。この吾妻鏡はそれとは版式も活字も異なるが、これに準ずるもの
として、俗に伏見版吾妻鏡と称される。現在古活字版吾妻鏡には次の三種が存在する。
    (1)慶長10年跋刊伏見版
    (2)[慶長元和間]刊
    (3)[元和末」刊
本書も活字本を底本として整版を以て寛永3年上梓された。彌来この版が江戸時代を通じ
て広く流布した。その後各種の修補がおこなわれた。

明治に入り、「校訂増補 吾妻鏡」が明治29年刊行、同36年に古写北條本を底本とし
て諸本を對校し脱文を補った「続国史大系」が出版された。大正4年、吉川本を底本とし
諸本を校合した国書刊行会本が発行されて、本書の基本資料が活字本でほぼ出揃った。
昭和に入り、昭和8年に「新訂増補 国史大系」が刊行され、現在の最善本となっている。
国史大系を底本とし寛永版の訓読を参照して仮名交じり文とした「岩波文庫」版は残念な
がら巻32に止まっている。

この寛永3年版は江戸時代唯一の整版で、現存諸本中の有力な一本たる価値は認められる
が、最善の校本と評価するわけにはゆかない。寛永版影印の意義は一にその訓点振り仮名
にある。吾妻鏡の文体は準漢文或いは偽漢文などと呼ばれ、一種独特の和・漢文である。
この訓点が、鎌倉時代の読みを必ずしも復元しているとは言えないが、類似の文体の文書
記録を読み書きしていた時代に附されたものであることは重要である。