一炎月の初日に朝はやう出宅せし上之村定俊か宿所へ参り、それよりして連なる人、拙
者とも四人にて、鎌倉をさして出しなり、先、二階堂へ出んとして山道を通り、荏柄天神
を拝し、八幡宮へ参詣いたし、だんかつらを通り、弐軒茶屋より左に行き、なこへ並坂な
どを打越、此なこへ坂と申は、七ッまがりしなり、久の屋、たこえ、寒川浦など申浦々を
通り□鋪、くるは、あき屋と申、はま路を追々あるきし処、足な、下宮田を打過、三崎に
て止宿、その宿を吉見屋と申なり。二日朝、早々出立せんと存じし処、あめふりしゆへ、
少々出立延引、其内あめやみ候に付、城か嶋へと赴し処、同所西浦と申処にて、魚人町を
打行、こゝに船人ありしゆへ、それをたのみ、船にて城か嶋へ渡り、杉山と申嶋の御代官
とやらんをたづね参りし処、折悪敷、目病にてことわり、むなしう帰り侍りぬ。其かたわ
らに、魚人ありして、申遣りしは、昨夜、常光寺、京より帰りしと申遣、我と語りぬ。同
道の学老申し候へは、私常光寺と数年心やすきなり、幸ひのことと存じ先達せし常光寺え
参りし処、院主早々対面致し、色々物語せし手紙もらひ、三崎西浦相模屋へたづねしなり。
夫より三崎大湊に風流なる茶屋ありしに、こゝにて昼飯いたし、右の金兵衛え行き、連人
三人またせ手合いたし、追々咄しいたし申候処、金兵衛侍りしは、天王祭礼前に付、取込
し故、御気のとくなから、引つゝき稽古も致し候様にもまいり兼、何共残心至極に奉存候
間、折角之御出に付、一本願度と申聞候取込之処、手合いたし候心服忝存し候に付、一二
本稽古いたし帰りしといとまこい申候得は、重ねて御来賀之程奉願上る申聞候。
夫より伊井殿陣屋の前通り、あじろへゆき、古跡相改し時、道寸公ならびに三浦荒次郎公
の墓所等をふし拝し、千駄やぐら並に城跡、油つぼ、あじろ湊なとと申を一見せし、扨、
千駄やぐら、凡奥行七間程、横三間ほど、天地のあき弐間余存候。古き書物に此やぐらに、
荒次郎公小田原勢にせめられし時、必死之高名せし処やらんと存じ、あまりに武士の勇な
る所なりとをぼへ、落るいせし故に筆を留参りぬ。夫より追々見物せんと、磯路を打行け
は、南を見れは、爛々たる海上、右のかたは、巌下の石、下を通り少々海中へいり、また
あかり、山へ打のぼり、追々参りし処、城跡畑中を通り、引橋と申処へ出、休。夫よりし
てよほど参り、上宮田と申処、こゝに伊井殿本陣あり。こゝにて稽古申入れんと存じし処、
兼々他流は出来ぬ様わきまえしゆへ、立よらず。少々参りし処、はまじへ掛り、津久井、
長沢を参り、野火と申に、最蔵寺と申拙者宗門の寺ありし処、其院主伊井殿陣屋へ罷出候
と申し、長沢と申処に居りし処、同道の学老、是も宗門の事ゆへに、先年遊れきせし時よ
りして心安き者なりとて、最蔵寺、申けるは、今夜は拙寺へ御止宿可然と申まゝ右最蔵寺
へとまらんとして、院主先達にして、その寺へ参り止宿す。