江戸中期以後明治後期までの書物の中で、特に三崎を取り上げている
部分を抜き出して掲載します。大半は開発により様相を変え、また地
名や文化など人の記憶から失われつつあるもののあります。遠い昔を
多少とも偲ぶことが出来れば良いと思います。
1、三崎誌
三崎最古の地誌で、著者は早也、木村氏、伝右衛門、俳号蔦丘舎、三崎の人、寛延
2年12月11日、73才にて没している。三崎俳人の創始者である。本書は早也
の七回忌(宝暦5年、西暦1755年)追善供養のため子息市明が編纂刊行したも
ので、早也の遺構と遺句並びに関係有る俳人の句(省略)を集めたものである。
2、俳諧三崎志
三崎誌の刊行後、宝暦10年2月に火災にあって版木を焼失してしまい、市明の編
集により再版されたのがこの本であり、全面的に三崎誌の改訂増補を行っている。
市明は早也の息、甚蔵、俳号は初号井泉亭、松月家を継いで松月亭。天明7年3月
28日70才で没した。この本の刊行は明和2年から6年の間とされる。
成立年代、著者ともに不明であるが、三浦古尋録(文化9年成立)より抽出されて
いると思われ、古尋録の間違いをそのまま転記している部分、転記ミスの部分等が
見受けられる。併し独自の記載もあり、三浦古尋録の成立以降間もなく編集され、
その後修正、追加が行われたものと思われる。一説には海岸防御の武士への案内書
とも言われる。
4、三浦紀行(相模国紀行文集)
ある酉年の正月19日、江戸を出発して先ず杉田の海を見物し、それより金沢・三崎
・鎌倉・江ノ島・藤沢と巡遊して、同月28日目黒不動に参詣して終わる十日間の旅
日記である。著者白英は一鶴堂と号する江戸の俳人で、他の三人の俳人がこの旅に同
行している。成立は享和元年(辛酉、西暦1801年)とも言われる。
5、箱根日記(相模国紀行文集)
江戸の歌人清水浜臣の三浦・鎌倉・箱根紀行。門人箱根の勝間田茂野訪問が目的。例
えば戸塚の鈴木長温、小田原の飯田梁などとの交遊がしられる。文化10年8月9日
から26日までの行脚。
6、嘉永元年海岸日記(相模国紀行文集)
相州平戸の人、荻原行篤の三浦半島旅行の手控。嘉永元年6月1日から9日まで、海
岸防備の視察と武術行脚。同行者は門人上野村の高橋義臣、角田定俊と国学者来岸。
行篤は領主杉浦家の江戸湯島の邸で生まれ、本姓鈴木、荻原家の養嗣となる。早田養
徳に真影流を学び、門人数百人にのぼった。
7、城村の旧記
底本は三崎円照寺所蔵本、嘉永6年2月書写の記載が有る。内容は、領主間宮氏と城
村の関係、三崎の漁業の歴史等に付いて記されている。併しながら原本、著者、成立
年月日等一切不明である。但し後半に「大津村代官倉之助と申す者云々」と有り、河
越藩大津陣屋を指しているとすれば、天保十四年以後の成立と考えられる。
8、桜の御所
明治27年1月、当時の大衆作家村井玄斎の小説「桜の御所」が都新聞に連載された。
その後同年12月に単行本として春陽堂から発行され、29年10月までに六版を重ね
た。これは村井玄斎が本瑞寺下にあった旅館青柳亭に滞在し執筆したものである。
内容は、三浦氏滅亡を題材に、荒次郎義意と小桜姫(架空の人物)の悲恋物語を描く。
三崎を舞台とする唯一の小説で、各所の伝承が散りばめられている。
桜の御所拾遺は、単行本「桜の御所」の巻末に載せられた村井玄斎の三崎滞在中の見聞
記である。
9、三浦繁盛記
本書は明治41年7月に横須賀の公正新聞社より発行された。著者は岡田緑風。例言に
は、『本書は、大まかなる三浦半島の現状及び名称旧跡の所在地、その概要を記述して、
旅客探勝の栞となすを主とし、敢えて専門的に歴史若しくは地理等を掲ぐるを目的とし
なかった。乃ち、材料の取捨選択、記事の繁簡等に於いて読者の不満足を買ふ事あるは
免かれぬ処である』と書かれ、観光案内を主眼としたものであるが、内容には当時の旅
館、飲食店、商店の広告、汽船の発着時間、料金、里程表なども掲載されており、かな
り充実したものである。