それ三崎の郷は 一名御崎 相陽南海の岸なり。鎌倉より海陸6里。三浦郡7郷の内。
古書に曰く、伊豆相模阿房3ヶ国かなへの如く海中へ出張たる崎あり。豆房の両国には洲
崎の名あり。此所は両国の出張の中央なれば称して三つか崎と号す。
東鑑に曰く、建久5年甲寅8月朔日頼朝三崎渡御山庄を立つ。
      翌年乙卯正月25日渡御、同27日還御
      正治元年3月頼朝頼家渡御
      元暦2年癸酉3月頼朝頼家尼御台所渡御
      建保3年3月渡御
      同5年9月渡御
      安貞3年2月渡御、同4月17日渡御
      寛喜元年乙丑3月11日頼経将軍渡御、同19日還御
      同2年庚寅3月19日渡御
北条5代記に、永禄8年弥生上旬三崎において北條氏康花見ありとしるせり。鎌倉将軍よ
り代々遊覧の地なり。また後小松院御宇応永10年8月3日異国船入津せり。船中に永禄
銭数万貫積来る時に、鎌倉の将軍義満公の下知によって船よりあげさせ、この時永楽銭は
しめて弘る。異国人山海の景色を見ておそらく西湖赤壁にも勝たり。唐土にも是ほどの所
いまだ見ずと称せしなり。

   家作りなせる所凡そ東西20町余、北は山、南は海なり。上下の廻船東へ走り
    西へ通り、順風自在の所なり。
東の口眺望、白浪のつづく浦々嶋々は黒島、大根、劔崎、海鹿嶋、霞に包む房陽の山々遠
   く鋸山、鞍懸ヶ山、州の崎に終わる。海上7里をへだつ。
西の眺望、三浦道寸の古城、鎌倉山、浪の向うに芙蓉峯、雨降山、八重山、箱根、嶋は笠
   嶋、名嶋、姥嶋、金亀山磯につづいては、花水、平塚、酒匂、眞名鶴、伊藤、洲崎
   に終る。海上18里をへだつ。
南は海上18里にして大嶋あり。
北は武山、尖山、姥神の森を終りとす。

  七崎
向が崎  北條の入江を云う。往古鎌倉将軍の別亭椿の御所、今その旧地大椿禅寺という。
     本尊観音。三浦33所第3番の札所なり。その外民家100軒ばかりあり。
蜑が崎  同所出磯。昔伊豫の国の蜑住けるよし。
手斧か崎 同所海岸。その形手斧に似たればなり。一名長南崎ともいう。
安房崎  城か島東の出崎。安房の国へ向うによってこの名あり。
遊びが崎 同所砂浜。[頼朝]遊覧の折から此所にて宴興あり。
灘が崎  同所西の出崎。相模灘18里に出向う。
忌崎   この名東西にあり。往古此所の神秘にて11月例祭あり。氏子その年の忌服あ
     るもの、神事のうち家をはなれ此所へ来る。神事終わって帰る。里俗にこれを
     出居戸という。

  産物
鰹    古書に鎌倉の海と書しは此所なりとぞ。初鰹毎年献上す。鮑、海老、螺貝
根津子草 古書に三浦の崎なる根津子草と書きたり。
鼠大根  鎌倉の産にもあり。此所を最上とす。
水仙   城が島に有り。ふくへの花にして丈甚だ長し。
海草   数多あれども、ほんだわらはこの浦を以て称す。 海鼠
海士船  この船の名、他の浦になし。鰹釣舟なり。
丸木船  漁舟にして昔は丸木にて作る。今は板なり。おかしき舟なり。
押送り船 29艘 江都往来の船なり。江都川御免の御極印あり。
小鉤船 小買物船 民家凡そ10軒余なり。

東の町 宝蔵山 一名城山、右大将家山庄を建て給う所なり。その後北條美濃守枝城とす。
        北條早雲、荒次郎の霊におかされ痼疾を煩い、この城に入て保養あり。
        その時二星を祭る事あり。
北條  北條家代々の旧地なり。
樹木畑 頼朝公の旧地なり。 蓮池 から堀 出し堀
扇子の井 桜の井 このふたつの井は旱魃にも水絶えぬ名水なり。
桜数樹 右大将家植させ給う古木にして、今も盛のすは、芳気四方に満ち、むかしながら
    のおもかげ深し。
はせ紅葉 享保年中公命によって植させらる。
一貫橋 この橋にて転びたる者、かならず煩い事ありという。
四郎兵衛稲荷 その来由久し。

御船蔵 2棟 下田丸 長津呂丸 日吉丸 小みどり丸
    御与力1騎 御同心2人 浦賀より勤番す。
 山際に向井将監忠勝の碑あり。その銘に、
   慶長20年乙卯、大阪御帰陣の節、征夷大將軍秀忠公に従い、此処を向井左近將監
   忠勝に拝領す。寛永10年癸酉、征夷大將軍家光公に従い、日本一の大安宅御船を
   向井左近將監忠勝これに承り、好く作を為しすでに成就す。大將軍御舟に成り為さ
   れ、天下の諸大名供奉有り。その時日本丸と号く。伊勢の国主、仁木右京の大夫義
   長五代の孫、修理大夫政長の伯父、源氏向井式部の大輔政隅5代向井兵庫の頭政綱
   の嫡、秀忠公、家光公2代の麾下、向井左近の将監忠勝、大阪丑卯両度の御陣に武
   勇の誉これ有り。従って相模の国三浦郡の内26ヶ村、上総の国望陀郡3ヶ村、因
   集郡大島これを拝領す。
御塩硝蔵 巖窟に入る 右向井兵庫の頭旧地なり。
鮫が淵  北條の入江にあり。この鮫出る時はかならず台風雨あり。常は淵底に隠る。
亀崎田  亀崎兵部草創す。今この孫三留氏これを所持す。
諏訪神社 向が崎海岸にあり。
法満町  法満寺という一向宗の旧地なり。今は下総国銚子湊に法満寺を移す。
法満寺井戸 海向山の林下にあり。
六軒町 牢岩穴 見竜山の半腹にあり。むかし御番所ありし時禁獄の地なり。

海向山本瑞寺 曹洞宗、本尊地蔵弘法の作。草創は三浦荒次郎、則ち守本尊という。此所
       小浜氏屋敷跡なり。
江笛の碑 この人加州の産にして毛利備後という。爰へ来て住する事20余年筆法を残す。
     門人あまたあり。市明これを建つ。
     その碑に、滝の音跡に残りて時鳥 江笛
見竜山光念寺 浄土宗、和田の義盛開基、本尊弥陀運慶作、三浦6躰に内5番目なり。往
       古上の御堂といいけるよし、今にその名を伝う。
   塔中 源崇院、称名院。 大日如来 唐銅なり。 弁天堂 地内にあり。
龍潜庵  禅宗、本尊不動、開山大心和尚、地内に大木の紅梅あり。
坂下地蔵 本瑞寺の末

大黒町 浦嶋井戸 来由不詳、町中の用水なり。
新町 切通引道
御番所跡 海岸にあり。慶長年中に立つ。元禄年中に止む。
神霊町  昔かのれの翁というもの住む由禄せし。海南宮の縁起に委し。
照臨山能救寺 禅宗、本尊あかしの観音という石仏なり。三浦札所なり。むかし漁夫蝦を
       釣に出で、釣あげたる霊仏なり。此所は慶長年中千賀孫兵衛居す屋敷跡な
       り。一名日和山、また中屋敷という。
時鐘堂 中の町 弥三右衛門稲荷の社
いなり山 この地むかしは時鐘堂あり。今は稲荷の社のみ残る。
ひらめ町 離れ嶋 磯崎町 花暮町 昔城が島花盛んの頃、日の暮るを忘れたり。
築出し町 海辺へ築出したる町なり。
本宮   海南宮の旧地、小祠残る。
御座の磯 明神着船の時上り給う磯なり。
龍神の宮 風薫る夕暮れ、漁舟此所へ群帰って明神へ鰹の初尾を献ず。
ほうろく嶋 花嶋 背戸町 西の町

 惣鎮守正一位海南大明神 三浦一郷の惣社なり。
・往古九州探代藤原資盈公、惟高惟仁卿位争いの節、伴大納言の為に左遷せられ、主従5
 4人舟船7艘、貞観6年霜月朔日此所に着船す。御嫡の船は房陽へ着す。今にその地に
 鉈切大明神と崇む。当社を楫谷山と号すは、着船の時家司楫を投られけるに此所に止ま
 る。よって鎮座とす。雪アラレの御供当社より出る。これは着船の節、雪あられ降しゆ
 へその故実なるよし。
・三浦大介義明源平加勢の節、明神を深く祈り神前において鶏合の勝負をこころみけるに
 赤き鶏負たるによって頼朝に力を合わす。
・東鑑に曰く、文治5年4月3日鎌倉右大將軍家より流鏑馬3番、角力10番興行あり。
・その後三浦道寸新井の城より日参す。年齢積もって歩行も成しがたく、後は城内に勧請
 す。今にその所を海南山という。
・三浦平大夫神領田を寄附す。今上宮田、下宮田その旧地なるよし。
・また寛永17年庚辰、向井左近将監忠勝が此所にて安宅丸の御乗船難風に逢い給けるを、
 この御神に祈り順風を得たりによって、境内に池を掘らしめ橋を渡す。擬寶珠にその銘
 あり。
・御供田向が崎の内田尻村に有り。
・御朱印5石金田村より納む。
神宝  吉田兼敬卿自筆の祝詞  牛玉 更津の貝 右二つは間宮氏より寄附
    その外の宝物は類焼す。
末社  24社
別の宮 御嫡鉈切大明神を勧請す。 大神宮 御霊の宮 鎌倉の権五郎景政を祭る。
稲荷社 王子稲荷社 近年下村氏江都より勧請す。
開公霊社 石燈篭 延宝3乙卯3月吉日、御代官山角籐兵衛寄附せらる。
石燈篭一基 鶯丘舎草也草創す。その銘に曰く、海南の海は唐迄も青く、梶谷の楫は船を
      恵み人を修するの教えにして上なき宝にや。されば宮柱太しき栄えも善尽し
      美尽して成就す。とくとこの水無月例祭の砌。遷宮ましますの幸にまかせ、
      神帳をひらかしめ給うに、郡裏の惣社千戸の宗廟とて、老少男女足元も見え
      ず押し合い侍る。予もそのひとりにして、爰に寸志の石燈篭を添えまいらせ
      て恐み拝まん事を祈り、且つみあらかの上久玉へる朝影夕影光りとも仰ぎ奉
      るものなるべし。
        海よりの旭や恵む若葉陰  夏山や幣にすかす夕月夜
          延享2乙丑年林鐘
神樹   銀杏2株 榎2株 梅1株
神主   六位下物部宿祢可命、凡そ30余代相続す。
御神詠  霧の海の南に弓をかけまくもかしこき神の例にそ引
社家   小坂氏 毛利氏

海南町  鳥居の通りをいう。
お松井戸 来由不詳
鰹木山  むかし獅之像をいけるよし
鍋町 上橋町 上野山 八軒町 栗餅山
神宮寺 禅宗、本尊薬師、昔は城が島に有り。中興移す。
泰平山二所明神 八幡船玉勧請す。
天狗の腰黒松 来由不詳
海岸山西福寺 一向宗、本尊弥陀、聖徳太子の作、開山は承教和尚。昔は西の浜にあり。
       中興うつす。
    塔中 観流寺 寂正寺
城光寺  城が島にあり。
圓海山大乗寺 日蓮宗
香水山圓照寺 一向宗、本尊弥陀、春日作。親鸞上人十字名号有り。
城村  間宮酒之丞殿旧地、今なお領す。
住吉社 城谷山音岸寺 本尊観音、恵心の作。三浦札所第一なり。僧の告によって安置す。
西の浜 此所の漁夫鯛釣事を専らとす。
地蔵堂 寺屋敷 西福寺の旧地なり。
歌舞島 安貞3年2月21日、三浦駿河前司招請して、豆州走湯山浄蓮房を導師として修
    すことあり。海上に数船を浮かべ歌舞の菩薩をうつす。よってこの名ありとぞ。
見桃寺 禅宗、本尊は地蔵、この地は往古頼朝公の御所といいし旧地なり。向井家代々の
    石碑あり。御影堂向井兵庫頭父子の木像zり。
横高根 鎌根 七つ高根 石蔵高根 皆々海中にあり。磯根なり。

  年中行事
  正月2日 船祝い
    4日 門松を納め、この日より13日まで、町々の童共松の一枝を手毎に持って
       海南宮へ日参す。その詞に「テサイナテサイナテナイモノワカニコソウ」
       と社頭に至って、14日の御幣流しと社檀の敲き祝して帰る。この童共左
       義長を勤む。
   14日 未明に左義長あり。町毎に海岸にて勤む。童共おかしき諷ひものあり。
   15日 町中火防神事有り 同日本宮社祭
    同日 女子ともはつせおどり、ヒヤリともいう。
   16日 百万遍町中を修行す。光念寺より勤む。
 6月18日 海南宮祭礼 御座船を飾り海上に御輿を移す。磯崎町、城が島より船を
       出す。船唄を諷う。
   10月 十夜念仏光念寺に有り。16日より17日に至る。
  霜月初申 海南宮の神事、これを申の神楽という。この日氏子とも忌服を揃う。出居
       戸の神事なり。
    翌日 市立つ。これをおせうじのまちという。酉の町とも。
    同日 鍋町に鍋市立つ。
                    年中行事終り

  城が島 三崎より海上10余町南に当たる。東西15町余、南北4町余。
往古は尉が島と云けるを、頼家公城と書き直し給へるよし。鎌倉将軍家遊覧の為、諸国の
大名より向が崎に椿、歌舞島に桃、この地に桜あまた植られたるよし。民家10軒余有り。
皆々かつきを業とす。
洲の御前 海南宮の家司を勧請す。此所に大蛇住み、毎年6月祭礼の前夜は三崎に渡海す
     るよし。
白槙古木 頼朝公遊覧の折から楊枝をさし、この嶋の栄ん事を寿給う。中興大火に亡ひ、
     控となるやどり木あり。この木を手折るものは疱疾患ありとぞ。
観音窟  補陀落寺の跡。
頼朝硯水 今も流れあり。
薬師堂山 神宮寺の旧地なり。
眞名板石 俎箸の跡あり。
楫三郎殿山 明神の家司
椿嶋   澪杭跡あり。
釜嶋   遊覧の釜を埋む。
居洗井戸 その時の用水なり。
牛か池  旱魃にも水絶えず。今も水牛住しけるよし。
長津呂入江 赤羽根 白雉 竹鶏 近年公命によってはなす。野狐の為に絶ゆ。
御篝堂  中興公命によって、四節ともに通夜の篝を焚く。諸廻船沖よりの目当てなり。
     一名燈明堂というはむかし油火なるゆへなり。
遠見御番所 昼夜廻船を守る。 二つ山 午の背

                    三崎誌終り
三崎の図