4 鬨の声(不思議やな)

 そも尉が島の山奥と云わば、上は雲衝く松の峰、下は底知れぬ千尋の海、嵐も波も音合
せて世にあるまじき仙境なり、小桜姫は荒次郎に伴われ、此峰に登って四方の景色を見渡
せば、宝蔵山も、新井の城も歴々として眼の下に在り、霞にけりな今迄も波間に見えし大
島山、峰の烟は雲と化し、雲復水に連りて、極目千里名に聞えたる相模灘、風景言葉に述
べ難ければ、小桜姫茫然として酔えるが如く、我を忘れて飽かぬ景色を眺め居たり、「如
何に荒次郎殿、妾が城下金沢と申すも聊かの風景世に聞えて候が、斯る景色に比べては物
の数にも候わず、アワレ我身も斯る処に住居して、此島の島守となりたく候」と荒次郎を
顧みて申しければ、義意莞爾と打笑い「イヤ明暮見馴れて候えば島の景色も珍らしからず、
それよりも御身の御城下金沢の八景とやらんを一度は遊覧致したく候」、小桜姫「必ず御
入り候え、妾御案内申すべし、松葉山能見堂の風景、又は峰が岡八幡宮を御遊覧あらば、
一入の御慰みに候わん、今こそ春の海の景色も長閑にて候えば、是より御父君に御願いあ
りて妾と共に御入り候え、妾も父種久に其事を申しなば、父は定めて悦び候べし」と離れ
とも無き小桜姫、深き心を人や知るらん、荒次郎義意も同じ思いありながら、父道寸の心
を兼ねて俄にそれとも答え難く「御志は嬉しけれども累ねて参り候わん、それより御身親
子、暫く此地に御逗留あって緩々四方の景色を御覧候え、アレ向うに見ゆる彼の岬は松輪
の鼻剣崎と申して、其地に名高き星見の池と申すものヽ候、其池は岸の岩石自然と崩れて
自ら池の形を成せるに、海水石門より流れ入り、水深きこと数十丈、岩の蔭なれば波立た
ず、日の内と雖も水暗く、底に星影の写りて候えば星見の池と名づけたり、斯る名所も候
に復此後ろの山蔭に矢の根井戸と申すものヽ候、それは昔鎮西八郎為朝が大島に流されし
後、討手の舟と合戦して、大島より射出したる矢、海を渡って其井戸に落ちたりと申し伝
え候、尚明日も御逗留あらば、某父に願って御身親子を星見の池、又は矢の根井戸の旧跡
に御案内申すべし」と是も姫には別れとも無し、実にや希代の勇婦と無双の勇士、互に其
手並を知りしものから、斯る英雄を良人に持ちたし、斯る勇婦を妻にしたしと意気相合し
て慕わしく、互に心を傾けて其姿を眺むれば、荒次郎義意は身の丈七尺五寸、筋骨逞しく
して丈十丈の鬼をも拉がん勢いあり、小桜姫は亦無双の勇力ありながら、其顔の美しきこ
と、譬えば桜の御所の花も羞らい、鏡が浦の月も閉じなん風情なり、「荒次郎殿、御身が
金沢へ御入り候事の叶わねば、妾父に申して尚暫くは桜の御所に逗留致さん、御言葉に甘
えんは恐れあれども、星見の池・矢の根井戸の旧跡なんどを御身と共に遊覧致さば、これ
に過たる幸い候わず」、荒次郎「某とても御身の如き勇婦を御案内申さんこと何よりの面
目にて候」と互に意中を語る折柄、俄に宝蔵山の方に当って咄と揚げたる鬨の声、コハ不
思議なりと荒次郎立上って宝蔵山を見渡せば、新井の城の裏門より我が家の定紋打ったる
大旗を翻し、其勢凡そ八百余騎宝蔵山を望んで馳せ出せしが、忽ちの内に桜の御所なる楽
岩寺種久を四方八方より取巻いたり、荒次郎慨然とし歎息し「扨は父上、我が諫めを用い
給わずして種久殿に野心を抱くと覚えたり」、小桜姫ヌックと身を起し「ナニ御身の父道
寸殿が妾親子を討取らんとし給うか、然らば妾も御身の敵なり、よも此侭には帰し給うま
じ、叶わぬまでも尋常に勝負して、御身の手に掛って相果てなば、それが妾の本望なり」
と長薙刀取って身構えたり、颯と吹き来る沖の風、天は俄に掻き曇り、桜の御所に散る花
は、雪の吹雪の飛ぶ如し、