6 舟に七人(陸には一人)

 前に海、後ろに敵、渡らんとするに舟もなし、返さんとするに道もなし、小桜姫と種久
は是迄遙かに落延びながら、此にて空しく果てんこと残念なり、舟なければ陸地の敵を破
って斬抜けんと、顧みて従者を数うれば僅かに六人、何れも身に数か所の疵を負わざるな
く、中にも小桜姫の腰元八重絹は姫より習いし武芸を以て敵数多討ちたりけん、薄色の衣
も血に染みて韓紅と変りけり、斯る有様なれば此残兵を以て再び戦うべき術もなく、アワ
レ尉が島明神の神徳にて一艘の舟を此浜に寄せ給えと、小桜姫遙かに尉が島を望んで祈念
すれば、不思議や島の彼方より追手の風に帆を揚げて一艘の舟此浜へ走り来たる、種久主
従大に悦び、舟の岸辺に着くを待ちて其側に進み寄り「如何に舟人に物申さん、我等を其
舟に載せて武州金沢の浦まで便船せよ」と種久の郎等関団六先ず躍って其船に飛乗れば、
舟人騒げる色もなく「コハ狼藉なり御武家達、便船を頼むとあらば随分渡しても参らせん
が、御覧の通り此舟は磯草を積む小舟なれば大勢は乗り難し、無理に載せても七人までな
り、其上に乗らんと仕給わば舟は途中にて覆らん、心して乗り給えよ」と淀まぬ言葉は人
に似ぬ、是尋常の舟人にあらざるべし、団六後ろを振返り「如何に我君、此舟は七人より
多く乗るべからず、然るに我等は主従八騎、如何に計らい候わん」と、思案に暮れて申し
ければ、種久も従者を顧み「誰かある、一人踏留まって陸地を遠く落延び候え」と言いけ
るが、何れも忠義金鉄の武士、皆此舟に御供して我君の御先途を見届けんとて留まるべき
色なし、然るに敵は後ろに近づきたり、ハヤ御舟に召されよと舟人頻りに促せば、小桜姫
心を決し「誰彼と云わんより妾が留まり候わん」、父の種久大に驚き「汝に別るヽ程なら
ば我も留まり申すべし」、従者六人声を揃え「行くも忠義、留まるも亦忠義なれば、我等
留まり候わん」と俄に留まらん事を争いしが、斯くては果てじと腰元八重絹進み出で「留
まって陸地を遁れんには女の身こそ屈強なれ、妾が留まり申さん」と独り彼方へ走り行け
ば、今は争うも詮なしと主従七人舟に乗り、八重絹独り陸に残して沖なる方に漕ぎ出す、
小桜姫は船端に立上り、八重絹心許なしと浜辺の方を見給えば、左手の方より敵大勢今毘
沙門堂の浜に打出たり、八重絹は敵に隠れて陸地の方へ遁るヽかと思いしに、さはなくし
て唯一人寄せ来る敵中へ割って入り「女ながらも楽岩寺家の腰元八重絹なり、我が首取っ
て功名せよ」と大音に呼わり、前なる敵と戦う有様健気にも亦勇ましヽ、小桜姫は打驚き
「こは八重絹が敵を喰止め、我舟を跡より追わしめざらん為討死なすと覚えたり、斯くと
知らば独り陸には残さぬものを」と首を延ばして浜辺の戦いを眺むれば、父種久も郎等も
共に八重絹を惜しがりて、男子も及ばぬ忠勇よと褒ぬものこそなかりけり、然るに今宝蔵
山の方より丈なる駒に打乗って、砂を蹴立てヽ馳せ来るは三浦道寸が嫡男荒次郎義意、父
の使いを受けて詮方無く尉が島より宝蔵山に渡って来たりしものと見えたり、もとより急
場の事なれば身に甲冑を着けざれども、兼て手馴れし十八貫目の鉄の棒を馬の平首に引付
け、宝蔵山下しの春風に衣の袖を翻えして、毘沙門堂の浜に打出でたる有様は、天晴れ関
東随一の勇将、三浦家の鬼神と人も怖るヽ若武者なり、仮令八重絹勇ありとも、此英雄に
向いなば唯一時も溜るまじ、スワヤ八重絹討るヽとて、種久始め主従七人舟の後ろに延び
上り、固唾を呑んで眺めたり、折から舟は剣崎の鼻に差掛れば、舟人帆を一杯に張り、梶
を直して忽ちに舟を東へ廻しければ、潮の流れと追手の風に其速きこと矢の如し、