扨も荒次郎義意は一の宮の渡しを打渡り天神が原に来かヽれば、物凄まじく風落ちて、
月は雲間に隠れたり、夏草野辺に繁りあい、行方も分かぬ闇き夜の人跡絶えし野中の道、
風ならで音なうものもあらざるに、遠音淋しき狼の声、寂寞を破って幽に遠く聞えければ、
菊名左衛門立留り「如何に我君、此辺りこそ狼の出る所にや候わん、御覧候え、向うの森
の茂みより幾百千とも数知れぬ蛍火の如き光の見え候は、噂に聞きし狼の眼にて候べし、
御用心召され候え」、荒次郎「いでいで狼の来りしよな、世の常の旅ならば、松明を振照
らし、狼を避けて行手に道を急ぐべきが、我は父の勘気を蒙り、世に用も無き身の上なり、
せめては人に害をなす狼を退治して此地の患を除きなば、後世の功徳となりもせん、重氏
それにて見物せよ」と腰に帯びたる四尺三寸の大太刀を抜き、岩を小楯に取って狼遅しと
待ちかけたり、
折しも吹き来る風の音に茅葦原ザワザワと動き、人珍らしき悪獣が臭いを慕うて襲い来
る、荒次郎大太刀を以て飛びかヽる狼を前後左右へ斬倒しけるが、固より無双の腕前なり、
忽ちの内に数百頭の狼算を乱して其処に斬殺され、死骸は積んで山を為す、菊名左衛門重
氏も世に面白き事に思い、刀を抜いて群がる狼を斬払えば、さしもに猛き悪獣も此両人に
斬尽され、残る数頭の狼は阿芙利山の方を差して遁げ失せたり、重氏死したる狼を打眺め
「我君の御武勇今に始めぬ事ながら、今斬り給いし狼の数は百をもて数うべし、試に死骸
を数えて後の世の物語にも致し候わん」と余りに感じて狼を数え初めぬ、荒次郎打笑い「斬
殺したる狼を一々数え立て致しなば此短夜に鶏が鳴かん、死骸は里人の跡にて片付け候べ
し、疾く厚木へ参らばや」と刀を鞘に納め、重氏を促して三里の道を過ぎ行きぬ、
斯くて厚木に到着し、重氏知辺の者の家を尋ねて其門を叩きければ、内より主人出で来
り「今頃我家を音なうものは誰人にて渡り候や」、重氏「珍らしや厚木大膳家忠どの、某
は菊名左衛門にて候、此度子細あって我君荒次郎義意公を是まで御伴い申したり、懇に迎
え入れ給え」、主人「扨は三浦家の鬼神と承りし荒次郎の君の御入りなるか、身苦しくは
候えども此方に迎え奉らん」と門を開いて両人を内に誘い、種々に心を尽して厚く持遇し
参らせける、「扨重氏どの、見申せば主従僅御二人、只今は何の為の御入りにて候や」、
重氏「されば頼み参らするは其事なり、我君義意公讒者の言にかヽり給い、御父道寸公よ
り御勘気を受けさせ給い候故、某此地まで御伴い申したり、此辺りに世を忍ぶべき処の候
か」、主人「それは御痛わしき事どもなり、世を忍び給うには屈強の処こそ候え、此厚木
の山中に近頃まで隠者の住みたる庵あり、其隠者先年何処へか姿を隠したるより庵は空し
く荒れ果てたり、其庵を繕い、人目稀なる山中に世を忍び給いて、父君の御心解くるを待
ち給わば、などか御疑いの晴れざる事や候べき、夜明けなば某御案内申すべし、今宵は此
に御休息召され候え」と主人の心の頼もしき、重氏悦び斜めならず「斯くてこそ某が我君
を御伴い申したる甲斐こそあれ、如何に御主人、不思議なる事を尋ね候えども、此頃此辺
りに末広を売る狂女とやらんの候か」、主人「されば其狂女の候よ、姿形の美しきに似ず、
笹の葉に扇を着けて日毎に此町を売り歩き候、扇を求むるものあれば、笹を振って末広舞
を為す、其舞いの面白きに我等も幾度か末広を求めて候」、重氏「さらば明日にもならば
再び其末広売の此へは参り候べきか」、主人「必ず共に参るべし、参らば徒然の御慰に一
さし舞を舞わせられ候え」、荒次郎歎息し「古き歌にも申せしよな、物思うに立舞うべく
もあらぬ身の袖振りし心知りきやと、狂女の心を知りもせばいかでか舞の見らるべき、唯
此侭に休まん」と重氏を促して設けの臥戸へ入り給う、