66 人の姿(誰やあらん)

 秋風に雁の音信それならで聞くも嬉しき便りかな、虎王丸余りの嬉しさに我を忘れ前な
る方に進み給い「汝は先の末広売、姉上よりの御玉章とは難有し、姉上は今何処に坐すぞ」、
末広売「さん候、一の宮の辺りに御座ありしが、先頃より重き病に打臥し給いて候」、虎
王丸大に驚き「御いたずきと候か、今迄音信のあらざるはもしやそれかと思いしに、好か
らぬ事の斯くまでも思い当るぞ怨めしき、先ず御玉章を見ばや」とて、手早く封を押開き
給い「やア此御文の表も頼み少なく見え給う、ナニナニ、
 峰の楓葉青かりし時に御別れ申せしより、今は樹々の梢錦を色どる頃に相成るまで、一
 度も御音信なし参らせぬこと定めて怨めしく思い給うべし、さりながら妾此地に参りて
 より重き病に取りつかれ起臥さえも自由ならず、生中に斯る便りを御身に知らせ参らせ
 なば、却て心を痛め給わんと昨日までも今日までもつれ無くこそは過ぎ候いしが、今は
 愈々頼み少なく、明日をも知らぬ身の有様に、只管御身の事のみ懐かしく、夢にも幻に
 も片時忘れん暇は無く候、息ある内に只一目見参らせたくは候えども、斯る敵地に御身
 を招き申さんこと、荒次郎君が必ず妾を怒り給うべし、帰らんとすれば病重く、招き参
 らせんとすれば人の怒りを如何にせん、虎王どの妾を哀れと思し召さば、荒次郎君にも
 御知らせ無く、又其余の人にも隠れ給い、そと此末広売と共に妾が許へ参られ候え、悪
 しくは計らい申すまじ、此世の願いに候ほどに必ず参られ給えよ、
のう末広売、此御文の様を見れば姉上こそ我身を待ち給うと覚えたり、汝が迎えに参りた
るか」、末広売「さればにて候、小桜姫が明暮に若君の事を御慕い召るヽより、某が御迎
に参らんと其玉章を賜り、先程より此辺りに参りて候、然るに若君の御側に人ありて申上
るに便り悪く候えば、暫く此森に控え居たるに、若君が唯独り是まで参り給いしは天の与
うる時節にて、小桜姫の御心が若君に通ぜし為ならん、いざ某と共に参り給え」、虎王丸
「我身も今は姉上のみを力と頼み参らするなり、此にて汝に逢しこと是も天の加護にやあ
らん、汝と共に此を立退き姉上の御許へ参りて、及ばぬながら御看病を申し参らせん」と
幼き人の事なれば欺かるヽとは露知らず、末広売に伴われて林を彼方へ抜け給う、
 此時山の上より荒次郎義意虎王丸の身を案じ、もし初声太郎の勧に従わずば、無理にも
諫て父の許へ帰さんと麓へ降り来りしに、初声太郎・菊名左衛門の両人が血眼になって林
の中を尋ぬる様子、荒次郎馳来り「重氏・行重両人の者、虎王は如何致せしぞ」、行重後
を振返り「我君にて候か、某虎王どのを御伴い申さんと種々に諫め参らせしに、蒼蠅しと
思召しけん、俄に林の中へ身を隠し給いて候、我君の御招きあらば必ず立出で給うべし」、
荒次郎「それは心得ぬ虎王なり、彼こそ義理ある弟なれば、過ちあっては父君に相済まず、
コレのう虎王丸、荒次郎が参りたるぞ、出で合い候え、のう虎王丸よのう、余り木枯の風
の烈しきに我が声も聞えぬと見えたり、是よのう虎王丸」と林の中を駆廻りて屹と彼方を
視給えば、人は誰とか見分かねど風に散り来る紅葉ばの、木の間を漏れて遙か向うに人影
チラと見えにける、荒次郎大に悦び韋駄天の如く其後より走り行く、