70 尋ぬる人は(知れもせで)

 心ありて山に住めば花の紅葉も余所に見る、三浦荒次郎義意は義理ある弟虎王丸の行方
を失いしより、今尋ね出さざれば父道寸に言訳無しと、日毎に鳶尾山の麓又は厚木の辺り
を尋ねけれども更に其行方を知らず、更に菊名左衛門重氏と初声太郎行重の両人も若君を
失いしは我々の落度なりと、寝食を忘れて四辺を隈無く求めけるに、尋ぬる人の行方は知
れもせで、忽ち耳に入る三浦合戦の噂とりどり、菊名左衛門先ず此事を聞出したれば、急
ぎ鳶尾山に取て返し荒次郎の庵室に至りけるに、荒次郎は今こそ重氏が虎王丸の吉左右を
斉して帰りしかと自ら門辺に出で迎い「如何に重氏、虎王丸の行方が知れてあるか」と先
ず問い掛くる言葉にも悦びの色現れたり、重氏心に其情を悲み「恐れながら我君には好か
らぬ事のみ聞き給うものかな、若君の御行方は未だ知れざるに一大事の起り候」、荒次郎
「一大事とは何事ぞ」、重氏「さん候、此度北条早雲楽岩寺種久と心を協せ、不意に八千
余騎の兵を起して三浦領に乱入致したり、御国元よりは道寸公五千余人の兵を率いて花水
川の彼方まで打出で給いしが、早雲の鉾先当り難く唯一戦に撃破られて岡崎の城に引上げ
給いたるよし、此事を我君に御知らせ申さん為、若君の事を後にして一先ず取て返し候」、
荒次郎斯くと聞いて眉を顰め「早雲が兵を起さんは兼て期したる事ながら、斯く俄に出陣
の沙汰あらんとは思わざりし、虎王丸の事だに無かりせば、後ろより小田原城を襲うて父
君の兵威を援くべきに、今虎王丸を失いては仮令北条勢を破りしとて父君の御心解くべき
よし無し、重氏は兎も角も虎王丸の行方を尋ね候え」、重氏「畏り候」と再び庵室を立出
でんとせしに、麓より獲物々々を携えて此処へ登り来る一手の軍卒あり、荒次郎遙に其体
を眺め「扨は敵方にて我が此に在る事を知り討手の兵を差向けたるか、重氏物見仕れ」、
ハッと答えて左衛門重氏谷の流れの岸に立って麓を見下し「イヤイヤ我君敵の討手の兵に
あらで、厚木大膳家忠と大森蔵人頼親が数百の勇兵を引卒し、我君を守護せん為是まで参
り候なり」と待つ間、程無く家忠・頼親の両人真先に此庵室に入来り「我君は此たびの合
戦を御存知にて候か、某等兼て君の命に従い手を分けて若君虎王どのヽ行方を尋ね居りし
に、北条早雲が大軍を起して三浦領に乱入せしと承り、扨は我君愈々小田原征伐の御催し
あるべしと一族郎等どもを従えて推参致して候、物の役には立たねども兼ねて待ちたる北
条征伐、我君の御武威にあやかって涯分の働き仕るべし、我君にも早く御用意あって御出
陣こそ然るべく候」と勇気を含んで申しける、それに従う数百騎の軍勢も此勇将の旗下に
て日頃の武勇を現わさばやと勢い込んで控えたり、荒次郎諸士を労らい「面々の志神妙な
り、さりながら我身は今義理ある弟虎王丸の行方を知らぬ内は軽々しく事を起し難し」、
厚木大膳「そは仰せにて候えども、我君を此地の領主と仰ぎ、小田原城を攻めうって武威
を天下に輝かさんこと唯此一挙にあり、某等の心を汲み給わば一刻も早く御出陣を願い奉
る」と申す側より蔵人頼親「某を始め大森家の残党百余人は我君の御武徳に頼り、北条早
雲を滅ぼして日頃の怨みを晴らさんと存じ、梓弓の後へは返さぬ決心にて候、虎王どのヽ
御事は後にて分り申すべし、唯早く御出陣あって第一番に一の宮の敵城を攻落し、其勢い
に乗って小田原城まで攻込み給え」と共に励むる勇士の意気組、並み居る兵士も口を揃え、
唯御出陣あれと一同に願いける、此時麓より庵室を望んで馳せ登るは初声太郎行重なり、
荒次郎振返り、虎王丸の吉左右かそれとも合戦の注進かと延上って待ち給う、