横雲散じ朝霧霽れて日は東天に登りけり、北条家の軍勢八千余騎兜の星を輝して新井の
城に押寄する、城に籠れる三浦勢中黒の旗を朝嵐に翻し、敵寄せなば打砕かんと鏃を揃え
て待掛けたり、敵も味方も武勇の大将、城攻の法・防御の備共に隙間は無かりけり、此時
北条勢の陣中より二人の武士に左右を守護され悠然として顕われし虎王丸、新井の城門に
歩み寄り顔を揚げて城中の体を打眺め「如何に兄上荒次郎君はそれに坐さぬか、父君道寸
公は城門に在さぬか、虎王丸が一言申入れたき子細あり、恐れながら城門の櫓まで御出で
候え」と声張揚げて呼わったり、城中の武士はあれあれ若君よと立騒ぎけるが、道寸も荒
次郎も最愛の虎王丸城門に現われしと聞き、取るものも執あえず忽ち櫓の上に立出でたり、
北条勢が陣よりは早雲・氏綱共に駒の鞍笠に延上り、虎王丸が如何に和議の事を申入れん
かと千秋の思いにて見物す、八千騎の同勢も皆虎王丸一人に目を注ぐ、中に楽岩寺家の小
桜姫は我を忘れて駒を陣頭に乗出し、脇目も振らず窺い居たり、虎王丸左右を顧るに北条
家の武士両人、もし虎王丸が由無き事を申さば其場に於て斬捨てんと刀の鯉口寛げ居る、
天は晴たり、旭日輝く宝蔵山、峰より颯と吹下す嵐に散り来る秋の木の葉は桜の御所の名
残かや、虎王丸莞爾と打笑い、櫓の上なる父と兄とを倩々と打眺め、やがて天地に響く大
音揚げて「父君も兄上も心を鎮めて某が申す事を聞給え、今北条勢盛なりと雖も竊に城兵
の勇気に舌を巻き候、然るに此度武州江戸の城主上杉修理大夫朝興公当城を救わん為、一
万五千の大軍を起して当国中郡まで御出張あり、北条勢これが為に狼狽し、某を賺して偽
りの和睦を申入れさせんとは工みたり、父君・兄上天晴れ暫く御籠城あれ、やがて北条勢
は微塵になるべく候」と言葉も未だ終らぬに、左右の武士抜く手も見せず虎王丸が細首丁
と打落したり、道寸此体を見て絶えん計りに悲みしが、荒次郎義意奮然として櫓を降り、
十八貫目の鉄の棒を小脇にかい込み城門を開いて獅子王の荒れたる如くに北条が備に撃っ
て掛る、北条勢は虎王丸の死骸を荒次郎に奪われじと一参に本陣の方へ運び行く、荒次郎
跡より追駆け「其死骸渡せ」と呼わりながら遮る敵兵を三人・五人一度に左右へ打倒す、
此勢いに怖れて北条勢右往左往に散乱す、荒次郎駒を駆寄せあわや虎王丸の死骸を奪わん
とせし時、敵兵の中より身の丈抜群に勝れたる武者一人、大鉞を携えて荒次郎の馬前に立
塞がり「某は伊豆国天城の山中に人となり、熊狼を対手として武術を学びし早川典膳と申
すものなり、音に聞えし荒次郎殿の御手並を拝見仕らん」と古木の如き腕に金剛力を込め、
大鉞を振上げて喚き叫んで撃て掛る、荒次郎大に怒り「邪魔立するな下郎め」と鉄の棒を
取直し二打三打撃合いしが、早川典膳大鉞を打落され馳寄って荒次郎に組まんとなす、荒
次郎面倒なりと猿臂を伸ばし典膳が襟髪掴み、馬上ながら目より高く差上げて逃げ行く敵
中へ投げ込んだり、典膳は先の言葉にも似ず目口より血を吐いて失せにける、此隙に北条
勢虎王丸の死骸を遙に彼方へ持ち行きけるが、忽ち向うに現われし小桜姫「其死骸は妾が
受取ったり、余人には手を着けさせじ」と従兵に命じ死骸を我陣へ舁ぎ込ましむ、折から
此へ馳せ着けたる荒次郎、無念の形相を為して小桜姫をハッタと睨み、「やあ虎王丸の讎
は汝なるぞ、其処動くな」と鉄の棒を真向に振かざし微塵になれと襲かヽる、小桜姫言解
く暇も無し、十三貫目の大薙刀を取直し鉄の棒を発止と受止めた、