正月小
一日、辛卯、雨雪
御参宮(巳の時)。供奉の五位・六位騎馬。還御の後、椀飯を行わる例の如し。
八日、晴
御所御方違えの為に宇津宮下野前司の亭に入御す。今日御所の西南の御門を立てらると
云々。
九日、晴
未の時御所還御すと云々。
十一日、晴
下総の守頼綱・玄蕃の允倫経、御使いとして今夕走湯山に向かう。衆徒闘論の事有りと
云々。
十五日、晴
御弓(一五度)。次いで御評定始め(老)。
廿四日、大風
御方違の為に宇津宮下野前司の亭に入御す。
廿五日、
主上御元服今月三日遂行せらるの由、西園寺殿これを申さる。
二月
一日、庚申、雨雪
辰の時、相太守の御前御産す(流産と云々)。
七日、晴
夜半ばかりに公文所炎上すと云々。
廿四日、晴
城九郎右衛門の尉検非違使を御免すと云々。
廿九日、晴
備中前司行有安堵奉行を仰せらると云々。
三月
廿五日、晴
御所御方違え。宇津宮下野前司の宿所。
廿六日、
遠江前司教時法師の女子他界するの間、両太守御軽服と云々。
四月
四日、晴
仙洞の御使い播磨前司永康近日参向するの間、勢入問答せしむと云々。未の時ばかりに
武州出家の暇を賜りしめ、申の時素懐を遂げしめ給うと云々。
九日、晴
仙洞の御使い永康朝臣帰洛すと云々。
十一日、晴
御所御方違え宇津宮野州亭と云々。
十八日、雨
御所御方違え宇津宮野州亭と云々。
十九日、晴
明日御評定を始行せらるべきの由、城務奉行として仰せ下さる。
廿日、
常陸国雑人奉行の事、越後左近大夫将監出仕の上は、返し付けらるべきなり。熊野山御
幸の事、院宣を下さる。今夕御所御方違え宇津宮野州亭と云々。
廿一日、晴
御所御上棟(卯の時と云々)。
五月
五日、晴
弾正少弼越後守に任ぜらるべきの由挙し申さると云々。
廿五日、晴
鶴岳八幡宮に於いて大仁王会を行わると云々。
卅日、晴
弾正少弼業時朝臣越後守に任ぜらるると云々。
六月
二日、晴
武蔵入道殿、去る月廿二日に御遁世、善光寺へ趣かしめ給う。御家中の人々、日来猶以
て存じ知らず。今日始めて披露するの間、内外仰天の由、土岐左衛門入道行正山内殿へ
参り申し入ると云々。
五日、晴
武蔵禅門御遁世の間、留め申されんが為御使い工藤三郎右衛門入道道恵を立てらると云
々。御遁世去る月廿二日の由披露するの處、定日は二十八日と云々。
七日、晴
御所御方違え宇津宮野州の宿所と云々。
八日、晴
宰府の脚力参着す。宋朝滅亡し蒙古統領するの間、今春渡宋の商船等交易に及ばず走り
還ると云々。
十三日、晴
城務使者を通ぜらるの間、松谷別庄に罷り向かうの処、仰せられて云く、肥前・肥後の
国安富庄地頭職は、相太守御拝領有るべきの由、内々御気色有り。只今御下文を成し進
せらるべし。且つは御下文は康有の奉書たるべしと云々。仍って御下文を書き山内殿へ
持参す。諏方左衛門入道を以て申し入るの処、園殿に於いて御前に召さる。仰せられて
云く、当庄の事聊か子細有って言上するの処、申し沙汰の条、悦び思し食す所なりと云
々。
十六日、晴
越中の六郎左衛門の尉廷尉御免を蒙りをはんぬ。諸人官途の事、自今以後評定の儀を罷
め、御恩の沙汰に准じ直に聞こし食され内々に御計い有るべきの由定められをはんぬ。
且つは前々名国司御免の時、諸大夫は成功の沙汰に及ばず、侍は成功を進すの條、御沙
汰の趣一准せざるか。公益を全うせられんが為、向後は諸大夫・侍を論ぜず、平均に功
要を召さるべきの由、同じく定められをはんぬ。
十七日、晴
諏方左衛門入道奉りとして仰せられて云く、陸奥左近将監を評定衆に加えらるる所なり。
御教書を書き進すべしと云々。
十九日、晴
城九郎判官、今日始めて白襖を着し出仕すと云々。
廿五日、晴
去る十七日の聞書、奥左親衛(義宗)駿川守に任じ、相左親衛(宗政)武州に任ぜらる
と云々。
七月
四日
有栖川殿領等、相州御拝領と云々。筑後国守護職、武州御拝領と云々。
八日、晴
召しに依って山内殿に参る。諏方左衛門入道を以て仰せ出されて云く、西園寺殿の御函
此の如し。山門梨本の衆徒座主に違背し、登山を抑留し堂舎に閉じ籠もると云々。急ぎ
申し沙汰せしむべきの由と云々。(御函は六波羅留守早馬を以て進せしむと云々)。
十日、雨
西園寺殿の御消息、山門梨本衆徒座主に違背し堂舎に閉じ籠もる事、院宣・座主の御書
在り。
十二日、雨
山門の事昨日人々の意見、並びに使節の事下野備中辞退するの趣、披露せられをはんぬ。
御免、備前前司・信濃判官入道上洛すべきの由仰せらるるの間、信判入・備前の亭に相
向かい仰せ含むの処、領状を申す。仍って山内殿に参り、此の由を申し入れをはんぬ。
十九日、晴
御所御移徒(午の時)御車。五位・六位供奉す(騎馬)常の如し。月卿・雲客・諸大夫
兼ねて儲けの御所に参る。相太守兼ねて西侍に御参。入御の期に臨み庭に着座す。御家
人等同じく庭に烈す。入御の後吉書を御覧ず。次いで相州以下侍に還り参り椀飯を行わ
る。今日の御膳以下屋々の御儲け、一向相州の御沙汰。未の時御評定を行わる(老)。
相太守、武州、駿州(今日初参)、越州、前武州、城務、佐対、康有、佐中書、玄蕃。
三ヶ条御沙汰の後、事書を書き進す。武州、城務を以て御使いと為し、御所に進ぜられ
施行すべきの由、即ち仰せ下されをはんぬ。
廿日、晴
御弓場始、一五度。
廿一日、晴
相太守御出仕の間、人々猶庭に着座と云々。
廿三日、晴
一、座主使教因、青蓮院衆徒使禅淳・顕譽申す、梨本衆徒堂舎に閉じ籠もる事、
去六月二日閉籠の衆徒退散し、仏事講行元の如く遂行すと云々。この上は御使時秀・
行一を差し上さるるに及ばざるか。但し両門跡確執有るべからざるの由、文永年中衆
徒怠状を進すの処、今この悪行に及ぶの條向後の積習か、張本の山務を召さるべきの
條々訴陳に及ぶと云々。早速聖断有るべきかの旨院宣を申さるべきの御返事なり。院
宣に就いて御返事を進せらるるの上は、座主の御返事各別申さるるに及ばざるの由、
教因・禅淳に仰せ含めらるべきか。又、教因去る文永年中召し下さるるの時、向後武
家の御家人として山門の諍論に与すべからざるの趣誓状を進すの処、今に青蓮院使と
して参向するの條、所存何程の事ならんや。聊か御不審有るの旨、教因に仰せ知らさ
るべきの由仰せを蒙りをはんぬ。
一、去る十四日長講堂回禄、同十五日夜常盤井殿炎上の事、
西園寺殿の御書到来す。御使い(伊勢四郎左衛門尉)を進せ驚き申さるべし。評定以
後召しに依って山内殿(園殿)に参るの処、仰せ下されて云く、佐藤中務相共に京都
の仁の所領を注し抽んずべしと云々。仍って晩景に至りこれを注す。諏方左衛門入道
相触れて云く、駿州、若一の意見御免有り。その旨を存ずべしと云々。
廿五日、晴。評定(老)。
一、梨本衆徒使永海・頼尋申す堂舎閉籠無実の由の事、
座主非拠の過法、梨本の奏聞達し難きの間、廃退の行徒道路を切り塞ぐの條は、訴訟
を達せんが為の山門の故実なり。全く本堂霊場の閉籠に非ず。彼の五仏・実相・浄行
院等は、一門の訴訟有るの時往古の集会の場なり。仍って閉籠すべけんや。所詮両方
参対するの上は、早く召し決せられ、真偽に就いて御計らいを蒙らんと欲すと云々。
てえれば、山務の非拠と云い、閉籠の実否と云い、梨本陳謝の趣子細有るか。張本を
召さるべきの由院宣申さるべき御返事の旨、先日その沙汰有りと雖も、今に於いては
張本の沙汰に及ばず。ただ両方を召し決し、正義に任せ早速聖断有るべきの由、御返
事を申さるべし。次いで教因の事、使節に随い参向するの條然るべからざる由、教因
並びに青蓮院衆徒禅淳、顕誉に仰せ含めらるべきなり。次いで信賀の事、御家人の子
息として青蓮院に属き、悪事を骨張せしむの由、梨本の訴えに屓くの條、穏便に非ざ
るの儀、早く召し下すべきの旨、内々親父氏信に仰せらるべきか。但し信濃判官入道
行一・康有両人、両方の使いと問答するの後、此の如く施行有るべきの由評しをはん
ぬ。
評定衆の誓状、新衆の署判を申し加え進せ入るべきの由、平金吾を以て仰せを蒙りをは
んぬ。
廿七日、晴。評定延引す。
信判入相共に御所評定所に於いて、青蓮院使教因・禅淳・顕誉、梨本使永海・頼尋等と
問答しをはんぬ。
八月
二日、晴
御所山内殿に入御す。御車(ヒリヤウ)。前陣の随兵十人、五位・六位の供奉常の如し。
五日、晴。評定(若)。
上野の国雑人奉行の事、駿州に仰せ付けらるべしと云々。即ち御書下を書き御判を申し
をはんぬ。興福寺、去る月廿六日雷火の為炎上するの由、西園寺殿これを注し申さる。
十五日、微雨
御所出御。随兵已下の供奉例の如し。
十六日、微雨
出御の儀式前に同じ。流鏑馬・競馬以下例の如しと云々。
十七日、風雨
駿州逝去す(申の時)と云々。
廿三日、晴
御所持仏堂の供養。御導師は若宮の前の大僧正隆弁。
廿九日、陰雨。評定(老)。
山内殿より召さるの間、馳せ参るの処、御前に召し仰せられて云く、武蔵守一番の引付
頭たるべし。武蔵の前司は二番頭たるべし。越後守三番頭たるべし。早くこの旨を以て
彼の人々に触れ仰すべし。且つは問注所公人不足すと云々。先日挙し申す所の富来十郎
光行・山名弥太郎行佐・藤田左衛門四郎行盛・清式部四郎職定・皆吉四郎文盛は寄人に
召し加うべし。次いで山名二郎太郎直康・飯泉兵衛二郎祐光・岩間左衛門太郎行重、合
奉行役を勤むべきの由、召し仰すべしと云々。退出の後、秉燭の期に及んで武州・前武
州の亭に向かい、仰せの旨を触れ申すの処、各々領状しをはんぬ。
九月
四日、晴
召しに依って山内殿に参るの処、平金吾を以て御前に召さる。仰せに任せ安富民部三郎
入道・嶋田七郎・斉藤七郎兵衛尉・長田新左衛門の尉(已上政所公人)、富来十郎(元
合奉行、今執事)、鎌田三郎左衛門入道を以て引付衆に注し入れをはんぬ。次いで武州
一番頭、前武州二番頭領状等言上するの処、仰せて云く、武州は元三番頭なり。三番衆
を相率いて一番に転ずべきなり。越州は元一番なり。その衆相共に三番に遷るべし。そ
の旨を相触るべしと云々。
六日、甚雨
一番の引付注文を武州に進す。五番執事、合奉行の交名を城務に付しをはんぬ。当所の
新参寄人等に書下を与えをはんぬ。
十六日、晴。評定(若)。
上野の国雑人の事。問注所申し沙汰すべきの由仰せを蒙りをはんぬ。
廿日、甚雨。評定(若)。
来十二月両社(賀茂、八幡)に行幸有るべきの由、供奉の官人衛府等の事仰せ下さる。
佐藤中書これを申す。
十月
十四日、晴
山内殿に参り人々に謁す。遠江十郎左衛門の尉と杉本六郎左衛門の尉の郎等(深沢左衛
門の尉と云々)と建長寺前に於いて乗合の間、十郎左衛門の尉の下人、深沢左衛門の尉
を殺害す。仍って十郎左衛門の尉下手人を相い具し、山内門前に参るの処、武蔵守殿に
召し預けらるると云々。
廿日、深雨。御寄合。孔子一二。
相太守、康有、業連、頼綱。京都御返事の清書役、丹後の太郎を召し加うべきの由仰せ
られをはんぬ。
廿五日、晴。御寄合(山内殿)、孔子一二。
相太守、康有、業連、頼綱。京都本所の領家等申さる兵粮料所並びに在京武士拝領の所
々返し付けらるべきの由の事、御沙汰有り(中書これを申す)。
廿九日、晴。評定(明日分、老)。
今月十六日、越後の孫四郎時国大夫将監に任ずと云々。深更に及び平金吾奉りとして院
宣を付け下さる。山門の事と云々。今日御沙汰の院宣の御返事並びに院宣、明日持参す
べしと云々。
卅日、晴
昨日御沙汰の院宣の御返事並びに夜前の院宣等を帯し、山内殿に持参するの処、御前に
召さる。頼綱・業連同じく参候す。昨日清書の院宣の御返事は早く京進すべし。夜前到
来の院宣は追って沙汰有るべきの由仰せを蒙るの間、御返事に於いては直に業連に付け
をはんぬ。富士の御精進、今日より殊に厳密。来月六日に至るまで御沙汰有るべからず
と云々。
十一月
十日、晴、風。評定(若)
出羽の大夫判官頼平、筑前の大夫判官行重座次の事、頼平座上たるべきの由、院宣を下
されをはんぬ(業連これを読み申す)。
十二月
二日、晴
相太守の賢息御元服(午の時)。二棟の御所西の御格子に上らる。西の御侍の御酒・肴
・椀飯元三の如し。越州刻限を申さる。その後出御か。次いで賢息御簾中に参らる。次
いで武州同じく理髪の御役に参らる。次いで城務烏帽子を持参す。佐対州広蓋を持参す。
長井備前湯摩杯。御元服の後御太刀を賜わる、越州の役か。相太守已下庭に着座す。中
門以南を南北に行き、車宿の前を東西を行き、西御門以南を南北行く(御簾を巻かる)。
御剣(前武州)、御弓征矢(大切班、尾州)、御甲冑(藤威、相模の式部大夫、越後の
左近大夫将監)、御野矢(小切班、宇津宮下野前司)、御行騰(備中前司、役人侍の妻
より歴参す)。一、御馬栗毛(上手、相模右馬助、下手、長崎四郎左衛門の尉)、二、
鹿毛(刑部少輔七郎、工藤二郎右衛門の尉)、三、河原毛(陸奥十郎、南条二郎左衛門
の尉)、皆銀の鞍を置かる。西侍の妻より中門と西侍東南の角とに引き向わる。その後
相太守已下侍に参り酒を賜わる。康有並びに宗有なまじいに人数に列し末籍に接く。
十日、晴。評定。
山門座主の御文、諏方佐入奉りとしてこれを下さる。両門合戦事と云々。
十三日、風雨。夕晴。
奥州上洛せんが為に今日常盤殿に門出すと云々。
十四日、晴
豊後の新左衛門の尉合奉行に召し加えらるるの由、城務奉りとして仰せ下さる。
十六日、晴。評定(老)。
一、山門座主吉水前の大僧正(道玄)申さるる事(諏方これに付す。使い憲聴)
御書並びに使いの申す詞の如きは、去る月廿三日日吉の御祭たるの間、勅使を守護し
神事を全うすべきの由、院宣を下さるるに依って、門徒に差し遣わし問答するの処、
梨本に日来立籠る衆徒左右無く矢を放つの間、不慮の外合戦に及ぶと云々。てえれば、
両門合戦の條驚き存ずるの旨、御詞を以て仰せ含めらるべきか。次いで御使いを京都
に差し進せ尋ね沙汰有るべし。宇津宮下野の前司・信乃の判官入道当座に於いてこれ
を差され、来廿七・八日比進発すべしと云々。
十九日、晴。御寄合(山内殿)。
相太守、城務、康有御前に召さる。奥州申さるる六波羅政務の條々、
一、人数の事、
因幡守、美作守、筑後守、下野守、山城の前司、駿川の二郎、備後の民部大夫、
出羽の大夫判官、小笠原の十郎入道、甲斐の三郎左衛門の尉、小笠原孫二郎入道、
加賀の二郎左衛門の尉、式部の二郎右衛門の尉、出雲の二郎左衛門入道、
一、寺社の事、
一、関東御教書の事、
一、問状の事、
一、差符の事、
一、下知符案・事書・開闔の事、
五ヶ条は備後の民部大夫奉行すべし。
一、諸亭の事、因幡守奉行すべし。
一、検断の事、出羽の大夫判官奉行すべし、
一、宿次・過書の事、下野の前司奉行すべし。
一、越訴の事、下野の前司・山城の前司奉行すべし。
一、御倉の事、甲斐の三郎左衛門の尉奉行すべし。
一、雑人の事、初條の人数を配分し奉行せしむべし。
以前の沙汰等緩怠の聞え有らば、陸奥守・越後左近太夫将監相共に催促を加うべきな
り。
此の外、
内裏守護の事、追って御計らい有るべし。
大楼宿直の事、当時は前の如きの両人沙汰を致すべきなり。追って御計らい有るべし。
在京人等の事、六波羅の下知に背かば、交名を注し申すべきなり。
仙洞の御使い並びに貴所の使者来臨の事、対面せらるべし。但し事の躰に随い問答有る
べきか(この事書を奥州に書き渡すべきの由仰せを蒙りをはんぬ)。
一、奥州上洛の事、京都守護の為差し上せらるるの由、西園寺殿に申し入るべきなり(御
教書案草し進しをはんぬ。島田六郎に付す)。
一、越後左近大夫将監(時国)、奥州相共に六波羅の雑務を致し署判を加うべきの由、
仰せらるべきなり(当座これを書き御判を申す)。
退出の後、御事書・御教書等を調え、夜陰に及び城務に付けをはんぬ。
廿一日、晴
奥州明日進発すと云々。
廿五日、晴。評定(老)。
一、山門の事。
当座事書を草し進す。その状に云く、山門の事、去る十一月廿三日社頭に於いて両方
既に合戦を致すの由、その聞こえ有り。未だ仰せ下されざるの間、子細を存じ知らざ
ると雖も、事黙止せられ難きに依って、景綱・行一を差し進す所なり。且つは先年確
執有るべからずの由両門怠状を進すの処、今この悪行に及ぶの條、甚だ以て濫吹なり。
向後の梟悪を断たられんが為、根元と云い下手と云い、能々誡めの御沙汰有るべきか。
一、遠江の十郎左衛門の尉、杉本六郎左衛門の尉郎従を殺害する事、武州の御領たる津
軽に流さるべきの由評しをはんぬ。
評定以後、城務・康有・頼綱・真性御前に召さる。御寄合有り。
一、院宣・諸院の宮の令旨・殿下の御教書の事。
因幡守奉行すべし。
一、諸亭の事。
先度因幡守奉行すべきの由仰せらるると雖も、その儀を改め、下野の前司奉行すべし。
一、宿次の事。
先度下野の前司奉行すべきの由仰せらるると雖も、その儀を改め、備後の民部大夫奉
行せしむべし。
一、番役並びに篝屋の事。
奥州・越後左近大夫将監の両人、代官を差し奉行せしむべし。
一、沙汰日々の目録・孔子等の事。
周防の左衛門の尉勤仕せしむべし。
この外の條々は、先度の注文に相違有るべからざるなり。
廿七日、晴。評定(若)。
早旦召さるるの間、馳参(夜前より方違えの為頼綱が山内の屋形に入御す)するの処、
山門事の院宣只今到来す。引付の勘録を読み申す以前に申し沙汰すべきの由、直に仰せ
を蒙るの間、御函を賜り御亭に帰参す。その子細を城務に申しをはんぬ。
一、山門の事、
去る廿一日の院宣の如きは、去る月同祭日に合戦に及ぶ。朝家の煩い、先規多く山門
の闘乱より起こる。珍事必然足るべし。当時の如きは聖断更に事を行い難し。思慮を
廻すに計らい沙汰無きは、静謐の期有るべからずと云々てえり。
評定に云く、合戦の事、根元と云い下手と云い、実犯を尋ね究めその身を召し出す
べし。且つは張本に於いては、御使い帰参の時これを召し具すべし。与党に於いて
は、在京人等に預け配流せしむべきなり。次いで両門跡の事、先年の御沙汰の例に
任せ、向後の狼唳を断たれんが為、両門跡を顛倒し座主に付せらるべきか。
次いで座主の事、智行・治術兼備の高僧を以て補せらるべし。且つは大原の宮、毘
沙門堂前の大僧正(公豪)、両人中御計らい有るべきなり。近年の使者御事書を給
い進入するの条、物儀に違うか。今度この目安を給い詞をもって奏すべし。且つは
張本を召し出すの後両条を申し渡すべきの由、景綱・行一仰せを蒙りをはんぬ。
この外の條々、先日の注文に相違有るべからず。但し人数の内今度は出雲の二郎左衛門
入道を除き、佐々木備中の前司・中沼の淡路左衛門の尉を加えらるる所なり。