建武三年(1336年)

1月16日[梅松論]
  (前略)これに依って両大将二條河原に打立給ふ。御勢上はただすの森、下は七條河
  原まで来し所に、午の刻ばかりに粟田口の十禅寺の前より錦の御旗に中黒の旗さし添
  て、義貞大将として三條河原の東の岸に西に向ひてひかへたり。(略)官軍には千葉
  介、義貞一人当千の船田入道由良左衛門尉を始として千余人討とらる。御方にも手負
  討死多かりける。暮に及んで宮方負軍にみえしとき御方勝に乗じて責戦しに、義貞自
  旗をさし、親光が父結城白河上野入道と共に千余騎にて返合々々。白河の常住院の前
  へ中御門河原口を懸し時は、何たまるべしともみえざりし処に、小山結城一族二千余
  騎にて入替て火を散して戦し程に、敵討負て鹿の谷の山に引上りしが、残りずくなに
  ぞ見えし。
1月17日[梅松論]
  両侍所佐々木備中守仲親、三浦因幡守貞連(系図によれば、三浦横須賀流、六郎左衛
  門尉始めは貞明、京侍所、母は大多和行秀の女、従五位下使安藝守時明息)、三條河
  原にて頭の実検ありしかば千余よぞ聞えし。
1月27日[梅松論]
  辰刻に敵二手にて河原と鞍馬口を下りにむかふ所に、御方も二手にて時を移さず掛合
  て、入替て数刻戦しに、御方討負て河原を下りに引返しければ、敵利を得て手重く懸
  りける。両大将御馬を進められて思召切たる御気色みえし程に、勇士ども我も我もと
  御前にすすみて防戦し所に、上杉武庫禅門を始として三浦因幡守(貞連)、二階堂下
  総入道行全、曽我太郎左衛門入道、所々に返合々々て打死しける間、河原を下りに七
  條を西へ桂川を越て御陣を召る。

5月17日[梅松論]
  下御所の御陣、備中の河原と備前の兒嶋の間三里。下御所より御使あり。當手には備
  中、備後、安藝、周防、長門、大将、守護人、国人並びに三浦介(高継)、美作国よ
  り昨日馳参ず。太宰少貳大友供奉の間、御勢数をしらず候。御舟には四国の勇士等参
  着のよし承目出度候。
5月25日[梅松論]
  兵庫の合戦の事、御談合の御使夜の中に往復度々に及ぶ。当所にをいて御手分有。大
  手は下御所、副大将は越後守師泰、大友、三浦介(高継)、赤松、播磨、美作、備前
  三ヶ国の惣軍勢なり。山の手の大将軍は尾張守殿、安藝、周防、長門の守護厚東並び
  に軍勢共なり。濱の手は、太宰少貳頼尚並びに一族の分国筑前、肥前、山鹿、麻生、
  薩摩の輩相随てむくべきにぞ定められける。
 

建武4年(1337年)

*[今川記、難太平記]
  北畠顕家三十萬騎にて奥州より責上り給ひし時、桃井、宇都宮、三浦介以下の味方、
  敵の跡をおそひ上りし時、心省は遠州三倉山に陣とり、味方に加り海道所々にて御
  合戦有り。殊に美濃国にて諸勢もみ合評議あり。明日の合戦一大事なりとて、海道
  の勢三手に分て、一二三の鬮を取、入替々々せめらるべしとて、桃井、宇都宮は一
  鬮、今川、三浦は二の鬮、吉良、三河勢は三鬮なり。(中略)桃井、宇都宮打負け
  るに、今川勢、三浦勢入替て合戦、(略)それより奥州勢、所々の合戦に討負、伊
  勢路にかかり登りけるとなり。
 

建武5年(1338年)

3月17日[相州古文書]
  足利直義御教書
   正続院領相模の国山内庄秋庭郷内志奈野村の事
  鎌倉より軍勢預け置くに依って、僧食闕如すと。甚だ謂われ無し。早く預け人等の
  違乱を停止し、寺家の所務を全うすべきの由、厳しく催促を加うべきの状件の如し。
    建武五年三月十七日  直義
  三浦因幡六郎左衛門尉(貞連)殿

11月5日[神明鏡]
  尊氏は正三位官大納言に遷る。征夷大将軍に成。直義従上四品に叙任し、官を宰相
  に任ず。
 

観応2年(1351年)

10月7日[相州古文書]
  相模国守護(三浦高通)禁制
    制札
   右大將家法華堂領三崎の庄内大多和事
  右、当所に於いて、甲乙人等、乱妨狼藉を致すの輩は、罪科に処せらるべきの状件
  の如し。
    観応二年十月七日   三浦介(高通)
 

貞治5年(1366年)

9月16日[相州古文書]
  鎌倉御所(基氏)御教書
   浄光明寺雑掌賢秀申す、相模国(中郡)金目郷北方の事
  守護代先例に背き、使者を当所に放ち入れ、種々の課役に充て仰せ、譴責を致すに
  就いて、土民等牢籠に及ぶ。所行の企て、甚だその咎を遁れ難し。所詮向後の違乱
  を断ぜんが為に、厳密にその沙汰有る所なり。不日に実否を尋ね注進すべきの状件
  の如し。
    貞治五年九月十六日  基氏
  三浦介(高通)
 

永和3年(1377年)

9月2日[相州古文書]
  関東管領(上杉憲春)奉書
   円覚寺雑掌申す、造営要脚相模の国棟別銭異議在る所の事(注文壹通これを載す)
  注進の状の如きは、或いは寺社領と号し、或いは地頭堀内と称し、支え申す。甚だ
  以て然るべからず。今度の課役に於いては、他に異なるなり。所詮、国中平均を為
  すの上は、重ねて使者を大勧進雑掌に相副え、先度仰せ下さるの旨に任せ、厳密に
  その沙汰を致さるべし。使節緩怠有るべからざるの状、仰せに依って執達件の如し。
    永和三年九月二日   沙彌(道彌、上杉憲春)
  三浦介(高通?)殿
 

康暦2年(1380年)

5月16日[花営三代記]
  小山下野守義政と宇都宮下野前司基綱と合戦す。(略)仍って関東より小山下野守
  退治の為に御発向有るべしと。

7月14日[花営三代記]
  東使布施兵庫入道京着、同使節三浦次郎左衛門尉(三浦横須賀流、杉本宗明が息貞
  宗か?、二郎左衛門尉下野守、母は遠江守光盛の女)未だ到らず。小山下野守の事
  注進と。

9月21一日[花営三代記]
  小山下野守義政降参すと。関東の注進到来す。
 

永徳2年(1382年)

11月[鎌倉大草紙]小山左馬助義政謀叛
  同八日小山義政方より禅僧を使として、愚息若犬丸に家を渡し隠居仕るべく候間、
  若犬丸を御免下さる。小山を相続仕候様にと降を請ける間、布施入道得悦を御使
  として御免許あり。同九日鷲城を両大将に渡し、白昼に三百余人にて祇薗の城に
  移る。扨又祇薗城、新城、岩つぼ、宿城等の門戸を開て、味方の人々も出入あり。
  同十二日、義政出家して大衣の姿と成て法名永賢と号す。梶原美作守道景、三浦
  二郎左衛門(貞宗?)両人を検使に遣わさる。永賢に上杉対面す。若犬丸出仕。
  小山同名三人同心して参る。
 

至徳元年(1384年)

6月25日[相州古文書]
  関東管領(上杉憲方)奉書
   円覚寺山門方丈等造営要脚相模の国棟別銭壹疋の事
  御寄進の状の旨に任せ、寺家雑掌相共に、先例に任せ、厳密の沙汰を致さるべき
  の状、仰せに依って執達件の如し。
    至徳元年六月二十五日 沙彌(道合、上杉憲方)
  三浦介(高連?)殿
 

明徳元年(1390年)

8月6日[伊豆山神社文書]
  相模守護三浦高連請文
   走湯山雷電社領相模国厩川の事、仰せ下さるるの旨に任せ、中納言律師明善に
   下知し付け候のところ、中村安藝太郎の代官ら、遵行の地に立ち還り、違乱を
   致すの由の事、国代官岡蔵人大夫入道聖州の今月三日の注進状、かくの如し。
   慎んでこれを進覧す。この旨をもって御披露あるべく候。恐惶謹言。
     明徳元年八月六日  大介高連(花押)
   進上
    御奉行所
 

応永2年(1395年)

9月5日[相州古文書]
  鎌倉御所(氏満)御教書
   右大將家法華堂禅衆職壹口の事
  元の如く補任する所なり。といえば、早く先例を守り、沙汰を致すべきの状件の
  如し。
    応永二年九月五日   氏満
  宰相阿闍梨御房

  関東管領(上杉朝宗)施行状
   右大將家法華堂禅衆職壹口(清弁跡)の事
  御補任還御の状の旨を守り、下知を宰相阿闍梨に沙汰し付けらるべきの状、仰せ
  に依って執達件の如し。
    応永二年九月五日   沙彌(禅助、上杉朝宗)
  三浦介(高連)殿
9月29日[相州古文書]
  相模の国守護(三浦高連)遵行状
   右大將家法華堂禅衆壹口の事
  今月五日の御補任還補(足利氏満)の状並びに同日の御施行(上杉朝宗)等の旨
  に任せ、下知を宰相阿闍梨に沙汰し付け、請け取りを執し進ずべきの状件の如し。
    応永二年九月二十九日 三浦介高連
  岡蔵人大夫入道(聖州)殿
 

応永3年(1396年)

12月14日[相州古文書]
  関東管領(上杉憲実)施行状
   右大將家法華堂供僧職壹口(良範律師跡)、寺領相模の国三浦郡林郷大多和村
   内の田参町、畠壹町貳段、在家参宇等の事
  相承院法印これを請け申すに依って、去る九日の御下文の旨に任せ、下知を淡路
  の律師良助に沙汰し付けらるべきの由、代官に下知せらるべきの状、仰せに依っ
  て執達件の如し。
    応永三年十二月十四日 安房の守(上杉憲実)
  刑部少輔(一色持家)殿
 

応永4年(1397年)

1月24日[鎌倉大草紙]
  小山若犬丸子ども二人若年にてありしを、会津の三浦左京大夫これをめしとり、
  鎌倉へ進上しけるを実検の後六浦の海に沈めらるる。
 

応永7年(1400年)

6月12日[相州古文書]
   上杉禅助(朝宗)施行状
  大山寺護摩堂造営料所相模の国蓑毛田原両郷の事、早く御寄進状の旨に任せ、
  下知を護摩堂雑掌に打ち渡さるべきの状、仰せに依って執達件の如し。
    応永七年六月十二日  沙彌(禅助)
  三浦介入道(高連)殿
 

応永9年(1402年)

10月6日[相州古文書]
  関東管領(上杉朝宗)奉書
   鶴岡八幡宮小別当(大庭)弘能申す、当社領相模国早河庄内久富名の事
  籠崎尾張入道家人依田太郎十五ヶ年買い得ると。爰に社領沽却の地半済の法に
  任せ、仰せ付けらるの処に、一円これを押領す。作毛を刈り取り、竹木を剪り
  取り、種々の狼藉を致すに依って、年紀一ヶ年相残ると雖も、下知を弘能に沙
  汰し付け、請取状を執し進ぜらるべし。更に緩怠有るべからざるの状、仰せに
  依って執達件の如し。
    応永九年十月六日 沙彌(禅助、上杉朝宗)
  三浦介入道(高連)殿

11月7日[相州古文書]
  相模国守護(三浦高連)遵行状
   鶴岡八幡宮末社三嶋の神主申す、当国下海老名郷領家職の事、
  去る月二十六日御補任の状並びに同日遵行の御奉書等の旨に任せ、下知を神主
  山城守時連に沙汰し付くべくの状件の如し。
    応永九年十一月七日  沙彌(三浦高連)
  岡豊後守殿
 

応永14年(1407年)

3月15日[相州古文書]
  関東管領(上杉憲定)奉書
   密厳院雑掌賢成申す、相模の国小田原並びに関所の事
  大勧進理無く知行の由これを申す。糺明沙汰有らんが為に、文書を持参せしめ、
  明らかに申すべきの旨、当知行人に相触る。請け文を執り進らるべきの状、仰せ
  に依って執達件の如し。
    応永十四年三月十五日 沙彌(長基、上杉憲定)
  三浦介(高明?)
 

応永23年(1416年)満隆、禅秀謀叛

*[鎌倉大草紙]
  新御堂殿の御内書に禅秀副状に回文をつかはし、京都よりの仰にて持氏公並びに
  憲基を追罰せらるべき由仰せられければ、御請申人々には、千葉介兼胤、岩松治
  部大輔入道天用両人は、禅秀のむこなれば申すに及ばず。渋河左馬助、舞木太郎、
  兒玉党には大類、倉賀野、丹党の者ども、その外荏原、蓮沼、別府、玉井、瀬山、
  甕尻、甲州には武田安藝入道信満は禅秀の舅なれば最前に来る。小笠原の一族、
  伊豆には狩野介一類、相州には曽我、中村、土肥、土屋、常陸には名越一党、佐
  竹上総介、小田太郎治朝、府中、大掾、行方、小栗、下野に那須越後入道資之、
  宇都宮左衛門佐。陸奥には篠河殿へ頼申間、芦名盛久、白川、結城、石川、南部、
  葛西、海道四郡の者どもみな同心す。鎌倉在国衆には木戸内匠助伯父甥、二階堂、
  佐々木一類を初として百余人同心す。かくて、国々の調儀終て、

10月2日[鎌倉大草紙]
  持氏は折節御沈酔これ有て御寝成けるに、木戸将監満範御座近参驚かし奉り、世
  はかやうにみだれ候と申ける。(中略)御馬にめし塔辻は敵篝を焼て警固しける
  間、岩戸のうへの山路をめぐり、十二所にかかり小坪を打いで、前はまを佐介へ
  いらせ給ふ。御共には一色兵部大輔子息左馬助、同左京亮、讃州兄弟、掃部助、
  同左馬助、籠崎尾張守、嫡子伊勢守、品川左京亮、同下総守、梶原兄弟、印東治
  部左衛門尉、新田の一類、田中、木戸将監満範、那波掃部助、嶋崎大炊助、海上
  筑後守、同信濃守、梶原能登守、江戸遠江守、三浦備前守、高山信濃守、今川三
  河守、同修理亮、板倉式部丞、香川修理亮、畠山伊豆守、筑波源八、同八郎、薬
  師寺、常法寺、佐野左馬助、二階堂、小瀧、宍戸大炊助、同又四郎、小田宮内少
  輔、高瀧次郎以下御共人々五百余騎。安房守憲基は夢にもこれをしらず、酒宴し
  ておはしける。
10月4日[鎌倉大草紙]
  未明より佐介の口々へ御勢を差向らる。先ず濱面法界門には長尾出雲守を初とし
  て房州手勢、甘縄口小路佐竹左馬助、薬師堂面をば結城弾正、無量寺をば上杉蔵
  人大夫憲長、気生坂をば三浦相模人々、扇谷をば上杉弾正少弼氏定父子、その外
  所々方々馳向陣取。同日、新御堂殿寶壽院より打立給。御馬廻一千余騎、若宮小
  路に陣を取る。
10月6日[鎌倉大草紙]
  (前略)佐介の舘に火懸りしかば、人力防に叶わず。持氏落させたまふ。安房守
  も御供申極楽寺口へかかり、肩瀬腰越汀を途に打過給ひ、黄昏に及んで小田原の
  宿に付給。爰に土肥土屋の者ども、元来禅秀一味なれば、小田原の宿へ押寄、風
  上より火を懸攻入ければ、御所と憲基をば落すけり。夜の間に箱根山にいらせ給
  ふ。
10月7日[鎌倉大草紙]
  箱根別当(證實)御供申、これを案内者として駿河国大森が舘へ落給ひ、これよ
  り駿府今川上総介を御頼み然るべしと評定これ有って、駿河の瀬名へ御通りある。

12月25日[鎌倉大草紙]
  去ほどに、駿河国に今川上総介範政京都へ注進申ければ、不日に禅秀一類並びに
  新御堂殿、持仲公追討すべきのよし御教書を給。上総介関東の諸家中回状をいだ
  さるる。

*[鎌倉大草紙]
  去程に禅秀は千葉、小山、佐竹、長瀬、三浦芦名の兵三百余騎を足柄山越入江の
  庄の北の山の下に陣を取る間、持氏は今川勢を先登として入江山の西に陣を取給
  ふ。今川勢夜討して禅秀敗軍箱根水呑に陣を取る。今川勢三嶋に陣をとり、先陣
  は葛山、同荒河治部大輔、大森式部大輔、今川門族瀬名陸奥守、足柄を越て曽我
  中村を攻おとし小田原に陣を取る。朝比奈、三浦、北條、小鹿、箱根山をこえ、
  伊豆山衆徒並びに土肥、土屋、中村、岡崎を攻おとし、同小田原国府津前川に陣
  を取る。
 

応永24年(1417年)

1月10日[鎌倉大草紙]
  満隆御所、同持仲、右衛門佐、禅秀俗名氏憲、子息伊豫守憲方、その弟五郎憲春、
  寶性院快尊僧都、武州守護代兵庫助氏春を初として悉く自害して失にけり。
1月17日[鎌倉大草紙]
  持氏御所鎌倉へ還御なり。その後江戸豊嶋を初忠節の人々、禅秀一類の没収の地
  を分給。大森には土肥土屋が跡を給はり小田原に移り、箱根別当は僧正に申なさ
  る。
 

正長2年(1429年)
  相模国守護(三浦時高)書下
   正続院領下厚木郷稲荷社鳥居木曳き人夫の事
  諸役免除の證文申し上げらるるは、催促を閣かるべきの由に候なり。仍って執達
  件の如し。
    正長二年三月二十一日 民部の丞
               右馬の允
  園田参河の守殿
 

永享9年(1437年)持氏滅亡

7月27日[関東合戦記]
  一色宮内大輔直兼三浦へ退く。憲直、直兼は今度讒者の張本たるによりて皆鎌倉
  を追出さる。
 

永享10年(1438年)

8月14日[鎌倉合戦記]
  (前略)憲實聞て我野心なしといへ共、死して後各御所の武士と合戦に及ばば、
  我御敵となりたるに同じ。然らば暫く鎌倉を立のくべし。但河村は分国豆州の境
  なり。若君元服の事に付て我に同心の輩定めてこれあるべきに、兵乱を招くに似
  たり。上州に赴くべしとて、既に首途す。
8月15日[鎌倉合戦記]
  持氏これを聞て先使を遣し子細を相尋ぬべきか。その義に及ばず討手を遣すべき
  かと沙汰有しが、その夜遂に一色宮内大輔直兼、同刑部少輔時家先手の両大将と
  して、御旗を玉はりて夜半ばかりに鎌倉を出陣す。
8月16日[鎌倉合戦記]
  未刻、持氏動座して武州高安寺に御陣を定めらる。
8月28日[関東合戦記]
  持氏本意を遂べきとの企て、京都将軍家の鬱憤のみならず、既に叡慮にも背けり。
  その綸旨に曰く、
   綸言せられて称く、従三位源朝臣持氏累年朝恩を忽緒し、近日擅兵を興す。啻
   に忠節を関東に失うのみならず、剰えこれ鄙の輩を上国致す。天誅遁るべから
   ず。帝命また容るべくや。早く当に虎豹の武臣に課し犲狼の賊徒を払わしむも
   のなり。綸言斯の如し。この旨を以て洩れ入らしめ給うべし。仍って執達件の
   如し。
     永享十年八月二十八日 左少弁資任奉
   謹上 三條少将殿

*[鎌倉合戦記]
  今度鎌倉の御留守の警固は、先例にまかせ、三浦介時高に仰付らる。時高近年窮
  困し、無人に候間御免なるべき由申といへ共、急度仰らるるに依て鎌倉に残留警
  固す。昔右大将家の時、三浦大助他に異なる忠に因て、御賞翫自余に混せさるの
  由子孫迄に置文ある所に、近年その甲斐なく不肖の身と成て、面目を失ふ事多し。
  この折節京都より使来りて、持氏は京都将軍と不和にて、勅命をも背けり。三浦
  介早く関東同心の思をあらため、京都へ対し忠勤を抽ずべき御教書成るによりて、
  忽鎌倉の警固を心をひるがへし、

10月3日[鎌倉合戦記]
  時高鎌倉を立のき、三浦へ帰り。
10月17日[鎌倉合戦記]
  鎌倉へ進発し、大蔵、犬懸等千間放火す。鎌倉中足の立所もなく、二階堂一家も
  三浦介に降参す。

11月朔日[関東合戦記]
  三浦介時高大将として、二階堂一家、上杉持朝が被官等を相かたらひ、大蔵の御
  所へ押寄せ、若君大御所を扇谷へ具足し奉る。篠田河内守、同出羽守、名塚右衛
  門尉、河津三郎以下殿中にて討死す。その外鎌倉中の家並びに寺社堂塔多く焼亡
  す。三浦介が家臣保田豊後守これを静めん為に鎌倉を警固す。かかる所に、憲實
  が家老長尾尾張入道芳傳、持氏に供奉仕り鎌倉へ赴く。永安寺へ入らんとする時、
  路次にて三浦の家人保田豊後守以下、八幡宮の前に馳ふさがり、芳傳供奉何事ぞ
  やと怒りて、既に合戦に及ばんとす。これによりて持氏御馬を返し浄智寺へ入奉
  給ふ。芳傳豊後守へいかが申遣しけるにや。やがて赤橋の辺を引退しかば、持氏
  永安寺へ移り入る。
11月4日[関東合戦記]
  金沢称名寺へ移りて、
11月5日[関東合戦記]
  落餝、法名道継、道号楊山と号す。
11月7日[関東合戦記]
  長尾芳傳大将として、讒人等を退治す。一色直兼父子三人、上杉憲直父子三人、
  並びに浅羽下総守皆自害す。
 

永享11年(1339年)

2月10日[関東合戦記]
  持朝、胤直永安寺長春院へ参向し、御自害をすすめ申す。伺候の人々討出てみな
  死す。持氏、満貞、両御所自害あり。大御所の御頸をば金子入道これを斬る。小
  御所の御頸をば原太郎兄弟これを討つ。京都よりの大将上杉中務が下知にて、各
  々京へ遣す。
2月28日[関東合戦記]
  若君報国寺にて自害なり。
 

永享12年(1440年)

4月20日[鎌倉大草紙]
  鎌倉の警固には三浦介時高はせ参る。

5月朔日[鎌倉大草紙]
  上杉中務少輔持房、京都の御旗を帯てかまくらへ下向す。
 

康正2年(1456年)

*[鎌倉大草紙]
  関東八州所々にて合戦止時なく、をのづから修羅道の岐と成る。人民耕作をいとな
  む事あたはず。飢饉して餓死にをよぶもの数をしらず。上総国へは武田入道打入て、
  廰南の城、まりが谷の城両所を取立、父子これに楯籠て国中を押領す。房州の里見
  これに力をえて、十村の城よりおこりて国境へ勢を出し所々を押領す。上杉方にも
  三浦介義同は三浦より起て、相州岡崎の城を取近郷を押領す。大森安楽齋入道父子
  は竹の下より起て小田原の城をとり立近郷を押領す。
 

長禄元年(1457年)

10月[鎌倉大草紙]
  成氏も相州下河邊古河の城ふしむ出来して古河へ御うつりありける。

12月24日[鎌倉大草紙]
  京都公方の御子を一人関東の主として御下向ありて関東の公方と定。禅僧にて天龍寺
  に御座有けるを、十二月十九日二十三歳にて俗に返し申、左馬頭政知と付。今日伊豆
  国迄御下着有り。鎌倉には御所もなく、伊豆の北條に堀越といふ所に、かりに屋形を
  たて伊豆国を知行せらる。
 

文明3年(1471年)

3月[鎌倉大草紙]
  両上杉は堀越の味方にて成氏と合戦。武州総州の成氏の味方の者ども、箱根山を打越、
  三嶋へ発向して政知をせめんとす。(中略)成氏方千葉、小山、結城等残少なに打な
  され古河へ帰城しける。

5月[鎌倉大草紙]
  長尾景信大勢を引率して古河城へ向。城中の兵共沼田、高、三浦の者ども馳出、爰を
  先途と防けれども、長尾大勢入替責ければ、
6月24日[鎌倉大草紙]
  遂に落城して成氏千葉をさしておちたまふ。
 

文明9年(1477年)

3月18日[鎌倉大草紙]
  太田左衛門入道下知として扇谷より勢をつかはし、溝呂木の城を責落す。同日小磯の
  要害を責らる。一日防戦ひ夜に入ければ、越後の五郎四郎かなはずして城をわたし降
  参す。それより小澤の城へ押寄攻けれども城難所にて落し難し。河越の城には太田図
  書助資忠、上田上野介、松山衆を籠め、江戸の城には上杉刑部少輔朝昌、三浦介義同、
  千葉次郎自胤等を籠らる。
 

明応3年(1494年)

10月5日[北條記]
  上杉修理大夫定政重病に犯れ終に空く成給。またその比、三浦介時高入道と子息新介
  義同と不和の合戦ありて、父時高忽に討れにけり。

*[北條記]
  その故如何にと問に、先年永享の乱に、時高、公方持氏を滅し申。その軍功他に異な
  りとて、恩賞有し程に、富貴は日来に越たり。然れども男子を持たずして、既に三浦
  家絶なんとす。これに依って、一門ならばとて、上杉修理進高政の息男を養子にして
  義同と名付て、一跡を守らんとす。彼の義同、器量双なく才覚人に越ければ、郎等共
  を初め三浦の一門これを持賞ける処に、時高、晩年に及て実子一人出来しを、時高夫
  婦大に悦び、これを養立て家督を継せ、猶子新介義同を追出さばやと思ければ、折付
  触て面目なく当りけれ共、義同は少も色に出さず。いよいよ孝行しおとなしやかにあ
  たりけれ。家老の面々、この條然るべからずと時高を諫しかども用いずして、後には
  近辺に召仕侍に申付、義同を討つべき由下知しければ、義同述懐して髪髻を切て三浦
  を忍出て、相州西郡諏訪原の総世寺と云会下ちへ引籠て、会下僧の姿に成にける。時
  高の作法義を背けりと、爪弾をして多く以て三浦を退き、義同入道の後を尋て、総世
  寺へこそ籠けれ。去程に義同が勢、程無く大勢に成と聞えければ、義同の実母は大森
  實頼の女にて、小田原の大森式部とも、箱根別当とも親き一同なれば、この人々より
  加勢合力有しかば、義同威勢を振ひ、三浦へ取て返し、父時高が籠りける新井の城へ
  押寄、
 

明応9年(1500年)

9月23日[北條記]
  夜討にこそはしたりける。城中には敵寄べしとは思もかけず、弓断して居たりければ、
  寄手案内なれば易々と乱て、鬨の声を揚ける程に、こは如何と周章す。中村式部少輔
  とて、相模国梅澤の住人成しが、走廻りてこれを見て、こは如何に父に向て弓を引事、
  八道の罪人ぞや。汝等が武運頓て盡べしと罵り切て出討死す。その間に三浦介一族若
  党、皆自害して滅にけり。この時高、主君を傾奉り、その大賞に誇りしかども、彼御
  罰当り、我子に討れて亡ける。されば昔より今に至るまで、主に対して不義有し者、
  必滅る事疑なし。されば今の新介義同も、行末如何あらんと。皆人申沙汰しけるに、
  果して滅ひ失にけり。
 

文亀2年(1502年)

8月[三崎本瑞寺々録]
  僕庵(本瑞寺文賢和尚弟子)十八歳の時、兄弟のさいそくにより止むなく軍役に向か
  う。北條氏茂と大いに馬入川原にて戦い、敵数多討取り、敵将朝比奈五郎右衛門友政
  と戦い、馬入にて河上に戦い、刀をすてて無手と組、川中にて浮きつ沈みつ、しばら
  く河中にしずみ、しばしが程見えざりしが、ややあって友政の首を討取、水上におど
  り出し、ありさま不敵の武者法師と敵味方わめきけり。氏茂も軍をまとめて小田原に
  逃げ帰る。

*[豆相記]
  爰に三浦荒次郎と早雲と挑み戦う。歳を歴て未だ雌雄を決せず。毎歳六七月三浦より
  小田原に攻め入る。而るに退去の時、必ず馬生河辺に風んで士卒泳遊して、汗馬に水
  して帰ること数度に及ぶ。早雲槊を横たえ兵を隠して出でず。三浦の士卒益々懈たる。
  翌年また三浦師攻め来たり郷党を焚き田圃を荒らすと雖も、早雲鋭卒を出さず。故に
  三浦師彼の河に於いて宴安甚だし。これに於いて早雲脱兎を以て三浦甲を襲う。三浦
  甲愕然として矛戟を捨て弓矢を忘れて四維に敗北す。
 

永正元年(1504年)

*[三崎本瑞寺々録]
  上杉顕定のさいそくにより、僕庵は武州立河原にて早雲と戦い、北條の大将笠原新左
  衛門氏勝をうちとる。

9月6日[相州古文書]
  宗瑞(伊勢長氏)禁制
    禁制 江ノ嶋
  右、当手軍勢甲乙人等、乱妨狼藉の事、堅く停止せしめをはんぬ。もし違犯の族有ら
  ば、速やかに罪科に処すべきものなり。
    永正元年甲子九月六日 宗瑞、伊勢長氏
 

永正5年(1508年)

*[三崎本瑞寺々録]
  三浦道寸任官して、従四位下陸奥守入道道寸と号す。
 

永正(7)年

12月10日[相州古文書]
   上杉建芳(朝良)感状
  昨日九、鴨澤(足柄上郡)の要害の際に於いて、父和泉の守討ち死し、□□□候。心
  底推察に及び候。定めて奥州(三浦道寸)より御感有るべく候。この方の事、一人疎
  かの儀に有るべからず候。恐々謹言。
    十二月十日      建芳
  武源五郎殿

   三浦道寸(義同)感状
  去る九日上中村に於いて、父和泉の守打ち死に、誠に不敏に候。忠節に於いて比類無
  き候。謹言
    十二月十日      道寸
  武源五郎殿
12月23三日[相州古文書]
   足利政氏感状
  上杉治部少輔入道(建芳)、去る九日中村要害に向かい相動き候の処に、凶徒と出会
  い候の間、城涯に於いて一戦を遂げ勝利を得る。宗徒たる者数輩を討ち捕らえ候や。
  目出たき候。殊に父陸奥入道(道寸)同心し候か。感心し候。家人武和泉の守と号す
  る輩討ち死に、誠に不敏に思し召し候。巨細は政助(篠田)申し遣わすべき候。謹言。
    十二月二十三日    政氏
  三浦弾正少弼(義意)殿
 

永正9年(1512年)

8月7日[相州古文書]
   氏名未詳感状
  伊勢新九郎入道(長氏)動き、岡崎に在城を致し、走り廻るの條神妙に候。謹言。
    (永正九年)八月七日 (花押)
  武左京の亮殿
8月12日[伊東文書(伊東文書)]
   (早雲感状)
  八月十二日、卯の刻、岡崎台の合戦に於いて、忠節比類無し。後日に於いて、褒
  美せしむべきものなり。仍って件の如し。
    (永正九年)八月十二日 早雲(氏綱)
  伊東(祐遠)どのへ
8月13日[北條記]
  小田原の早雲、如何にもして三浦を責落し、相州平均に治はやと思はれければ、
  伊豆相模の勢を催し岡崎へ押寄たり。三浦介、佐保田豊後守以下切て出合戦す。
  敵味方の鬨、大山も崩て海に入、坤軸も折て沈むかと覚るばかりの有様なり。三
  鱗の旗と中白の旗入交り、十文字に割て透り、巴の字に追廻し、東西南北に馳違
  て戦しが、運や盡けん。さしも大剛の三浦介、散々に打破られ、一二の木戸も責
  破られ、詰の城に籠けり。心は飽まで進めども、家の子郎等等走寄、一先落て重
  て兵を催し、この欝念を遂ぐべしとて、城の搦手より落て、同国の住吉の城に落
  行ける。また住吉をも落されて、三浦の城へ落行く。度々人衆を集め合戦に及し
  かども、一陣破ぬれば残党全せず。終に打勝事なく、口惜や思けん。遙に有て鎌
  倉へ出陣しけるを、早雲聞も入ず押寄て責給へば、散々に懸負、三浦へ引返す。
  小田原勢、追懸々々責ければ、三浦陸奥守父子新井の城に楯籠る。

*[釈迦如来像胎内札銘]
  相州小坂(鎌倉)郡深澤郷崎村、霊松山大慶禅寺は、本願檀那長井光禄大夫覺華
  院殿成峰巖公大禅定門の建立なり。而るに佛源大禅師を拝請し、以て開山初祖と
  為すなり。五十六年前永正九壬申年、伊勢宗瑞(早雲庵と号す)当国に乱入し、
  万民離散す。当寺の僧衆また然り。大鐘・山門鐘、賊徒木佛を焼き熔破す。村裏
  ただ佛殿・総門存るのみ。(以下略)
   永禄十(丁卯)年十月十六日
   圓覺住持比丘百五十四世奇文叟禅才七十五歳誌焉
          大佛所信濃快圓法眼 敬白

*[三浦古尋録(秋谷村)]
  大崩この処は、高山崩て海に入、片岸に路有、一騎打ならでは何万騎向ふとも叶
  ひがたし。北條早雲永正の合戦の時、網代道寸この路にて敵兵を支て通さざりし
  と北條五代記に見えたり。

12月6日
 (宗瑞・氏綱連署制札案)
   本目四ヶ村制札
  一、当方家来は、諸事もし申す者有らば、この制札を見せられ、横合の義申す者を、
    この方へ同道有るべし。
  一、諸奉公の事、直に申し合わすべし。自他申す所の者は、その使いをこの方へ同
    道有るべきものなり。
   仍って件の如し。
    永正九年十二月六日  宗瑞・氏綱
   平子牛法師丸(房長)殿
 

永正10年(1513年)

4月17日[相州古文書]
  足利政氏感状
   智宗僧         政氏
  敵指し詰めるの時、三崎要害に於いて、戦功を励まし、疵を被るの條、神妙なり。
  いよいよ粉骨を抽んずるべ
  きの状件の如し。
    永正十年四月十七日  足利政氏
  智宗僧
 

永正11年(1514年)

12月26日[相州古文書]
  宗瑞(伊勢長氏)制札
    制札
  右、当寺(本覚寺)へ陣僧、飛脚、諸公事、堅く停止せしめをはんぬ。もし横合の
  義申し懸ける族これ有らば、速やかに罪科に処すべきものなり。仍って件の如し。
    永正十一年甲戌十二月二十六日 宗瑞、伊勢長氏
 

永正12年(1515年)

2月10日[相州古文書]
  伊勢長氏判物(折紙)
               花押(宗瑞、伊勢長氏)
  鎌倉三ヶ寺行堂の諸公事を免しをはんぬ。もし自今以後、懸け申す者これ有らば、
  交名を記し、申し上ぐべきものなり。仍って件の如し。
    永正十二年二月十日  花押(北條氏綱)

*[北條記]
  早雲三浦に押寄、向ひ城(古尋録網代村の項に、陣場ヶ原これは北條早雲陣取有し
  処と云)を取て三年まで食責に攻給ふ。上杉修理大夫朝興聞て、三浦落去せば難義
  たるべし。人衆を出し早雲を押払ひ、陸奥守に力を付んとて、相州中郡へ旗を出さ
  る。早雲これを聞き、人に先をせらるるに利無しとて、遮て中郡へ押寄。卯の刻よ
  り未の刻まで入替々々攻戦う。早雲入道、堅を破利を砕く。頃刻に変化し策を廻さ
  れければ、敵一度も終に利を得ず。上杉勢悉く敗北せしを追回て突臥切伏ける程に、
  一返も返さずして江戸を差て引て行く。三浦に籠る勢共、兵粮盡果て、この後詰を
  憑しに、上杉討負ぬと聞へければ、こは如何にと仰天す。
 

永正13年(1516年)

*[秋田藩採集家蔵文書]
  (上杉建芳書状写)
  不断と雖も御床敷候。遠路と云い不自由の間、節々啓さしめず候。その方の事、色
  々その聞こえ候。然りと雖も、逐日御本意の様に候か。大慶に候。然るべく候。御
  伝聞仰す所に候。去る年七月三崎落居、道寸父子城中に於いて討ち死に、定めて痛
  敷く思し召し候。然れば当国に於いて、早雲庵に対して一戦を遂ぐべき覚悟に候処、
  一向その以後敵打出候わず。この春中、相州の調義相催し候。彼の僧その方暫く堪
  忍せしむべき分に候。折々は御詞を副えられ候わば、祝着たるべく候。
  恐々敬白。
   (永正十四年)三月三日        建芳(花押)
     普門寺侍司
  竹隠軒御堅固に候や。承り度候。紹蔵主床敷候。仍って和尚御出世候や。遠境の事
  に候間、詳びらかならざり候。毎篇免許に預かるべく候。
7月21日[三嶋文書]
  (宗瑞判物)
  今度度々の合戦に大利を得るに依って、指刀を奉納する所、仍って件の如し。
   永正十三年(丙子)七月二十一日  宗瑞
 

永正15年(1518年)[13年の誤り?]

7月11日[北條記]
  城中の兵ども、大森越後守、佐保田河内守、陸奥守の前に来て申けるは、敵既に後
  詰の軍に討勝て押寄候。味方数月の軍に矢種盡兵滅して候へば、近日落去有ぬと覚
  候。然らば忍で城を落、上総へ御渡り、荒次郎の舅真里谷殿を頼み、軍勢を催し三
  浦へ帰り、この城を取るべき謀り数多あり。二年の間をば過ぐべからずと申ければ、
  陸奥守これを聞申けるは、事新申様に似たれ共、当家は三浦大介義明、頼朝卿に忠
  を盡して討死せし後、累代この所の主として、一つ大名諸国の守護九十三人、門葉
  百司五百人、日本に誰かは知ぬ。然処に中比、元弘の乱に三浦介時継入道、時行に
  與して初て逆心を起し、勢田にて生捕られ、六條河原にて討れ、その子高念殿の逆
  心に同して討れて、既に衰へ勢鮮く成行けれ共、相州には肩を双る人なし。然後、
  父時高不義の振舞して、持氏を亡し申す。その忠賞に寄り、また大名と成しかども、
  その御罰にや、五郎を追出し給ひしに、五郎等勢を催して、この城を責来て時高を
  亡し申ける。その報忽来て所こそ多きに父の失しこの城にて、義同また失なんとす。
  これ天命に非や。運既に盡ぬる上は、仮令落行たり共、微運の我等何程か遁べき、
  犬死せんより命の限りの戦して、弓箭の義を専にすべし。運の通塞も運の吉凶も謂
  べき所に非ず。一足も引まじと。終夜最後の酒盛し、辰の刻に打て出、小田原の先
  陣を二町ばかり追立て切まくり、枕を双て討死す。三浦前陸奥守従四位下平朝臣義
  同、子息弾正少弼従五位下平義意並びに家親、大森越後守、佐保田河内守、同彦四
  郎、三須三河守以下百余輩の屍は巨巷の庭に散り、血は長城の窟に満つ。されば今
  に至迄、その怨霊共この所に留て、日々曇り雨暗き夜は、叫喚求食の声して、野人
  村老の毛孔を塞てけり。

*[北條記]
  早雲は三崎に城を取立て、房州の敵を防ぎ給。義同の勢所々より召出されて、この
  城の在番す。大将には横井越前守を置給。小林六左衛門を初として、與力三十騎、
  手勢八十騎、三浦組十騎、その外雑兵合二百余騎、彼の横井越前守に相随う。