古文書や日記など信憑性の高いものから、合戦記や伝承などの真実性の
乏しいものまで、雑多に掲載してみます。内容の是非に付いては読まれ
る方々の判断にお任せします。
1、続左丞抄(国史大系27)
寛和三年(西暦987年、平将門の乱の粗50年後)に出された太政官符で、この
中に平忠光の名が見える。忠光に付いて「源平闘諍録」には「将門の乱に依って常
陸国信太の嶋に配流せらる。赦免の後は、船に乗って三浦に着き、青雲介の娘に嫁
し、三浦郡・安房国を押領す。三浦の先祖是なり」とある。年代的に無理があると
も思われる。また系図も様々存在し不明な点が多い。
2、陸奥話記[一名陸奥物語](続群書類従)
江戸文化年間に成立した「三浦古尋録(三浦氏古城跡)」に
往昔後冷泉院永承年中奥州の朝敵安倍貞任、宗任征伐の時、鎮守府将軍左馬助頼
義公に随い、奥州に在って血戦す。武功に依って康平癸卯六年長門守平大夫為通
この三浦郡を領し衣笠に居城す。(為通は忠通の子)
とある。陸奥話記の中には三浦氏は現われないが、源氏、関東武士団の原点ともな
る合戦であろう。頼朝の奥州泰衡征伐もこの戦いを意識して行われている。
3、平家物語(長門本)
北面は上古にはなかりけり。白河院の御時はじめ置かれ、衛府どもあまた候けり。
為俊(三浦為次の弟)、盛重わらはべより千じゅ丸、今犬丸とてきりものにて有け
り。千手丸は三浦、後には駿河の守、今犬丸は周防国の住人、後には肥後のかみ、
(後略)
(尊卑分脈 良門孫)
為俊 白河院御寵童今犬丸是なり。童形の時北面に候ず。初めの例なり。直奏
を聴され夜の御殿に召さる。但し実子に非ず、勅命に依って猶子と為す。
(実は小舎人童云々)
盛重 千寿丸 周防国の住人、童形の時北面に候ず。白河院の御寵童。元服の
後近習。(天治の頃、相模守藤原盛重)
陸奥話記より25年後、頼義の子義家(八幡太郎)による清原氏征伐の合戦記であ
る。これにより奥州藤原氏の基礎が出来る。この中に関東武士として為次の名が見
える。為次は為通の子で平太郎と号す。
[三浦古尋録(三浦氏古城跡)]
子息平太郎為次白川院永保年中奥州武衡、家衡征伐の時、八幡太郎義家公に随
い東征す。(中略)その合戦に三浦平太郎為次武功有るに依って、その賞とし
て為次息三浦太郎義の字を賜り三浦太郎義次と云。
5、天養記(神奈川県史)
天養2年(西暦1145年)大庭御厨に対する源義朝の狼藉を訴えた大神宮の解状
に対して出された宣旨である。この中に吉次(為次嫡男)、吉明(吉次嫡男)の名
が見える。吉次は三浦庄司であった事、また源義朝との強い結び付きが伺える。
久寿2年(西暦1155年)近衛院を悩ました金毛九尾の狐退治の勅命が上総介、
三浦介に下り、那須野原において退治するという話である。この感賞に依って義
明は三浦大介を呼ばれるようになる。
7、平治物語
(侍賢門の戦の事)
(前略)義朝たのむ所のつはものどもには、嫡子悪源太義平十九歳、次男中宮大夫進
朝長十六歳、三男兵衛佐頼朝十二歳、義朝が舎弟三郎先生義章、同十郎義盛、伯父陸
奥六郎義隆、信濃源氏平賀四郎義信、郎等には鎌田兵衛正清、三浦介二郎義澄、山内
首藤刑部丞俊通、子息滝口俊綱、長井齋藤別当実盛、信濃国の住人片切小八郎大夫景
重、上総介広常、近江国の住人佐々木源三秀義、これらをはじめとして、その勢二百
余騎にはすぎざりけり。
(六波羅合戦の事)
悪源太、川はせわたして父と一手と成って六波羅へ向てぞかけたりける。これをかぎ
りと見えければ、伴輩たれたれぞ。悪源太義平、中宮大夫進、右兵衛佐、三郎先生、
十郎蔵人義盛、陸奥六郎、平賀四郎、鎌田兵衛、後藤兵衛、子息新兵衛、三浦荒次郎、
片桐小八郎、上総介八郎、佐々木三郎、平山武者所、長井齋藤別当実盛を始として二
十余騎、六波羅へをしよせ一二の垣楯うちやぶりておめひてかけ入、さんざんに戦けり。
8、平家物語(長門本)
(前略)盛長に出向ひて、廻文披見して申けるは、故左馬頭殿御末は、皆絶はて給ひ
ぬるにやと思ひたれば、義明が世にも御末出来給はん事、只身一人の悦なり。子孫皆
来るべしとて集りける。嫡子椙下太郎義宗は、長寛二年秋の軍に、あはの国長狭城を
攻るとて、大事の手負て、三浦に帰りて、百日に満じけるに、二十九(三十九)にて
死にけり。(義宗は和田義盛の父)
9、吾妻鏡(北條本、吉川本)
吾妻鏡は、治承4年(1180)4月の頼朝挙兵から、文永3年(1266)7月の
前将軍宗尊親王の帰京までの87年間にわたる鎌倉幕府の事跡を編年日記体に記録し
た史書です。鎌倉幕府や鎌倉武士団、京都朝廷との関係、天変地異に至るまで當時の
ことを知る上で貴重な資料となっています。合せて藤原兼実の日記「玉葉」、藤原定
家の日記「名月記」、藤原道家の日記「玉蘂」、葉室定嗣の日記「葉黄記」、その他
「愚管抄」、「承久記」、「平家物語」などを挿入して見ました。
10、鎌倉年代記(続史料大成)
鎌倉年代記は一名「北條九代記(続群書類従)」と呼ばれ、寿永元年より元弘元年ま
での年代記で、成立は後醍醐天皇の元弘元年(1331)ごろと云われています。
ここでは、吾妻鏡(文永四年)以後、中先代の乱(建武二年)迄を記述しますが、
不足の部分には武家年代記等を使用しました。合せて藤原公衡の日記「公衡公記」、
小路兼仲の日記「勘仲記」、伏見、花園の天皇宸記、その他古文書、「五代帝王物語」
「梅松論」「神明鏡」「保暦間記」などを挿入しました。
11、鎌倉以後の三浦氏
建武3年以後、三浦氏本流滅亡までを「梅松論」、「鎌倉大草紙」、「北條記」、
その他、並びに相州古文書を使用して記載したいと思います。