六箇郡の司安倍の頼良と云う者有り。これ同忠良が子なり。父祖忠頼は東夷の酋長、威
風大いに振るいて村落皆服す。六郡に横行し、人民を劫略し、子孫滋蔓し、漸く衣川の外
に出づ。賦貢を輸らず、徭役を勤むること無し。代々驕奢にして、誰人か敢えてこれを制
すること能わず。
永承の頃、太守藤原の朝臣登任数千の兵を発してこれを攻む。出羽の秋田の城の介平の
朝臣重成を前鋒として、太守夫士を率いて後を為す。頼良諸部の俘囚を以てこれを拒み、
大いに鬼切部に戦う。太守の軍敗績し死者甚だ多し。これに於いて朝廷議有りて追討将軍
を撰ぶ。衆議の帰する所独り源の朝臣頼義に在り。頼義は河内の守頼信朝臣の子なり。性
沈毅にして武略多く、最も将帥の器たり。
長元の間、平の忠常坂東の姦雄として暴逆を事と為す。頼信朝臣追討使として平の忠常
を討つ。並びに嫡子軍旅に在るの間、勇決群を抜き才気を世に被る。坂東の武士楽属する
の者多し。素小一條院の判官代たり。院畋猟を好み野中に赴く所に、麋鹿狐兎常に頼義の
獲る所たり。好んで弱弓を持つ。而るに発つ所の矢羽を飲まざると云うこと莫し。縦え猛
獣と雖も弦に応じ必ず薨ず。その射芸の巧み人に軼ること斯くの如し。上野の守平の直方
朝臣その騎射に感じ、竊に相語らいて云く、僕不肖と雖も苟も名将の後胤たり。偏に武芸
を貴ぶ。而るに未だ曽って控絃の巧み卿の如き能者を見ず。請う一女を以て箕箒妾と為せ
と。則ち彼女を納れ妻として三男二女を生ましむ。長子義家、仲子義綱等なり。判官代の
労に因りて相模の守と為る。俗に武勇を好み民多く帰服し、頼義朝臣の威風大いに行わる。
拒捍の類皆奴僕の如し。而して士を愛し施しを好む。会坂以東の弓馬の士大半は門客と為
す。任終わりて上洛す。数年を経るの間忽ち朝選に応じ、征伐将帥の任を専す。拝して陸
奥の守として鎮守府将軍を兼ね、頼良を討たしむ。天下素より才能を知り、その採択に服
す。
境に入り任に着くの初めに俄に天下大赦有り。頼良大いに喜び、名を改め頼時(太守の
名に同じきこと、禁しめ有るが故なり)と称し身を委せて帰服す。境内両清にて一任無事
なり。任終わるの年、府務を行わんが為に鎮守府に入る。数十日経廻するの間、頼時首を
傾けて給仕し、駿馬金寶の類を悉く幕下に献ず。兼ねて士卒を給わりて国府に帰るの道阿
久利河の辺に、夜人有りて竊に語る。権の守藤原の朝臣説貞の子光貞、元貞等野宿するに
人馬を殺傷せらると。将軍光貞を召して嫌疑人を問う。答えて曰く、頼時が長男貞任、先
年光貞が妹を娉らんと欲す。而るにその家族賤にしてこれを許さざるを以て貞任深く耻と
為す。これを推すに貞任の為す所か。この外に他の仇無しと。爰に将軍怒りて貞任を召し
これを罪せんと欲す。
頼時その子姪に語りて曰く、人倫世に在らば皆妻子たるなり。貞任愚かと雖も父子愛棄
忘に克たず。一旦誅に伏さば吾何を忍ばんや。関を閉ざして聴かざるにしかず。もし来り
て我を攻めんか。吾が衆これを拒み戦うに未だ以て憂いと為さず。縦え戦い利せずとも吾
が儕死またすべからざるやと。その左右の皆曰く、公言これなり。請う、一丸泥を以て衣
川の関を封ぜば、誰か敢えて破る者有らんと。遂に道を閉ざし通さず。将軍いよいよ瞋り、
大いに軍兵を発す。坂東の猛士雲集雨来し、歩騎数万、輜人戦具重疉し野を蔽う。国内震
え懼れ、饗応せざると云うこと莫し。
時に頼時の聟散位藤原の朝臣経清、平の永衡等皆舅に背き、私兵を以て将軍に従う。悉
く軍漸進し将に衣川に到るの間、永衡銀の冑を被る。人有りて将軍に説いて曰く、永衡は
前司登任朝臣の郎従として、當国に下向して厚く養顧を被り勢一郡を領す。而るに頼時が
女を娉りてより以後、太守に貳をなし、合戦の時頼時に與し旧王に属さず、不忠不義の者
なり。今外に帰服を示すと雖も、而して内に奸謀を挟む。恐らく陰にて使いを通じ、軍士
の動静、謀略の出ずる所を告げ示さんか。また着る所の冑は群と同ぜず。これ必ず合戦の
時、頼時の兵己を射らざる使いと為すなり。黄巾赤眉豈軍に別れざるの故か。早くこれを
斬り、その内応を断たんに如かざるか。将軍以て然りと為す。則ち兵を勒め、永衡及びそ
の随兵中の腹心に委ぬる者四人を収め、責めてその罪を以てこれを立ち斬る。
これに於いて経清等怖れ自ずと安からず。竊にその客に語りて曰く、前車の覆るは後車
の鑒なり。韓彭誅を被り黥布心を寒くす。今十郎(永衡、字は伊具の十郎)すでに没し、
吾また何れの日に死すを知らず。これをして如何にと。客が曰く、公赤心を露わし将軍と
事せんと欲せば、将軍必ず竟す。公讒口未だ聞かざるの前に叛走し安ずるに従うに若かず。
大夫独り忠功を為すの時、臍を噬むこと何ぞ益ならんと。経清が曰く、善かなと。則ち流
言を構え軍中を驚かして曰く、頼時軽騎を遣わし間道を出でて、将に国府を攻め将軍の妻
子を取ると。将軍麾下の内の客皆妻子は国府に在り。多く将軍に勧め国府に帰らしむ。将
軍衆の勧めに因りて、自ら驍騎数千人を将て日の夕に馳せ還る。而るに気仙の郡司金の為
時等を遣わし頼時を攻む。頼時舎弟の僧良昭等を以てこれを拒ましむ。為時頗る利有りと
雖も、後援無きに依りて一戦して退く。これに於いて経清等、大軍擾乱するの間を属り、
私兵八百余人を将て頼時に走る。
今年朝廷新司を補すと雖も、合戦の告げを聞き辞退し任に赴かず。これに因りて更に頼
義朝臣重任し、なお征伐を遂げしむ。今年の騒動にて国内飢饉なり。粮食を給せずして大
衆一散す。忽ち再会の出謀に逮ぶの間、漸く年序を送り、天喜五年の秋九月に、国解を進
して頼時誅伐のことを言上するの状に称く、
臣金の為時、下毛野の興重等奥地の俘囚に甘説を使い、官軍に與せしむ。これに於いて
艶屋、仁土呂志、宇曾利 合三都の夷人、安倍の富忠を首として兵を発し為時に従い将
る。而るに頼時この計りを聞き、自ら往き利害を陳ず。衆二千人に過ぎず。富忠伏兵を
設けこれを嶮岨に撃つ。大戦二日、頼時は流れ矢に中たる所たり。鳥海の柵に還りて死
す。但し余党未だ服さず。官爵を請い賜り、諸国の兵士を徴発す。兼ねて兵粮を納れ、
悉く余類を誅せんや。随って官符を賜り兵粮を召し軍兵を発さんと。但し群卿の議同ぜ
ず。
未だ勧賞行われざるの間、同年十一月に将軍兵千八百余人を率いて貞任を討たんと欲す。
貞任等、精兵四千余人を率いて、金の為行が河崎の柵を以て営として、黄海に拒戦す。時
に風雪甚だ励しく道路艱難す。官軍食無く人馬共に疲るる。賊類新羈の馬を馳せ疲足の軍
に敵す。唯客主の勢異なるに非ず。また寡衆の力別に有り。官軍大敗して死者数百人なり。
将軍の長男義家驍勇絶倫にして騎射神の如し。白刃を冒し重圍を突き、賊の左右に出で
て大鏃箭を以て頻りに賊師を射る。矢空しく発たれず。中たる所は必ず葬る。雷奔風飛、
神武命世。夷人靡き走り敢えて当たる者無し。夷人号を立て八幡太郎と曰う。漢の飛将軍
の号年同じに語るべからざるか。
将軍の従兵或いは以て散走し、或いは以て死傷す。残る所纔かに六騎有り。長男義家、
修理の少輔藤原の景通、大宅の光任、清原の貞廣、藤原の範季、同則明等なり。賊衆二百
余騎、左右に翼を張り圍み攻むる。飛ぶ矢雨の如し。将軍の馬流れ矢に中たり薨る。景通
馬を得てこれを援く。義家の馬また矢に中たって死す。則明賊の馬を奪いこれを援く。此
の如きの間殆ど脱れ得難し。而るに義家頻りに魁師を射殺す。また光任等数騎殊に死して
戦う。賊類行かんとして漸く引き退く。
これの時官軍中に散位佐伯の経範と云う者有り。相模の国の人なり。将軍厚くこれを遇
す。軍敗るるの時、圍みすでに解け、纔に出でて将軍の処を知らず。軍卒に問うに、軍卒
答えて曰く、将軍は賊の圍む所たり。従兵数騎に過ぎず。これを推すに脱れ難きかと。経
範が曰く、我将軍と事してすでに三十年を経る。老僕の年すでに耳順に及び、将軍の齢ま
た懸車に逼る。今覆滅の時に当たって、何ぞ命を同ぜざらんや。地下に相従うはこれ吾が
志なりと。還って賊の圍中に入る。その随兵両三騎また曰く、公すでに将軍と命を同じく
し節に死す。吾等豈独り生きるを得んや。陪臣と云うと雖も、節を慕うことこれ一つなり。
共に賊軍に入る。戦い甚だしく賊に捷ち十余人を殺す。而るに□□□□□□殺死□□如林、
皆賊の前に歿す。
藤原の景季は景通の長子なり。年二十余、性言語少なく、騎射を善くす。合戦の時死を
視て帰すが如し。賊陣に馳せ入り梟師を殺し出づ。此の如きこと七八度、而るに馬蹶き、
賊の為に得らるる所に、賊徒その武勇を惜しむと雖も、将軍の親兵たるを悪み遂にこれを
斬る。散位和気の致輔、紀の為清等、皆万死に入り一生を顧みず、悉く将軍の為に命を棄
つ。その士の死力を得ること皆この類なり。
また藤原の茂頼は将軍の腹心なり。驍勇にして善戦す。軍敗るるの後、数日将軍の在る
所を知らず。すでに賊に没すと謂う。悲泣して曰く、吾彼の骸骨を求め、方にこれを葬ら
んと欲す。但し兵革の衝く所、僧侶に非ざれば入り求むること能わず。方に鬢髪を剃り遺
骸を拾うのみと。則ち忽ち出家して僧と為り戦場を指して行く。道に将軍に遇い、且つは
悦び且つは悲しむ。相従いて還り来る。出家劇急に似たりと雖も、忠節なお感に足る。
また散位平の国妙は出羽の国人なり。驍勇にして善戦し常に寡を以て衆を敗る。未だ曽
って敗北せず。俗に号して平の不負(字を平大夫と曰う。故に能を加え不負と云う)と曰
う。将軍これを招きて前師と為さしむ。而るに馬倒れ、賊の為に擒となる所に、賊師経清
は国妙の外甥なり。故を以て免され得る。武士なお以て恥と為すか。
同年十二月の国解に曰く、
諸国の兵粮兵士、徴発の名有りと雖も到来の実無し。當国の人民悉く他国に越え兵役に
従わず。先ず出羽の国に移送するの処に、守源の朝臣兼長乱越の心無し。裁許を蒙らず
んば、何ぞ討撃を遂げんと。
これに於いて朝家兼長朝臣の任を止め、源の齊頼を以て出羽の守として、共に貞任を撃た
しむ。齊頼不次の恩賞を蒙りながら全く征伐の心無し。諸国の軍兵兵粮また以て来たらず。
如きの間重ねて攻むること能わず。貞任等益々諸郡に横行し人民を劫略す。経清数百の甲
士を率いて衣川の関を出でて、諸郡に放ち使わし、官物を徴納し命じて曰く、白符を用ゆ
べし。赤符を用ゆべからずと。(白符は経清私の徴符なり。捺印せざる故に白符と曰うな
り。赤符は国符なり。国印有るが故に赤符と曰うなり)
将軍これを制すること能わず。而るに常に甘言を以て出羽山北の俘囚主清原の眞人光頼、
舎弟武則等を説く。官軍に与力せしむること、光頼等猶予し未だ決せず。将軍常に奇珍を
贈るを以て、光頼、武則等漸く以て許諾す。
康平五年春、頼義朝臣任を終ゆるに依って、更に高階朝臣経重に拝し陸奥の国守と為す。
鞭を揚げ進発し、境に入り任に着するの後何ぞ無く帰洛す。これ国内の人民皆前司の指ギ
に随うが故なり。朝議紛紜するの間、頼義朝臣頻りに兵を光頼並びに舎弟武則等に求む。
これに於いて武則同年秋七月を以て、子弟万余人の兵を率いて陸奥の国に越え来る。将軍
大いに喜び、三千余人を率いて、七月二十六日を以て国を発つ。
八月九日に栗原郡営岡(昔田村麿将軍蝦夷を征するの日、ここに於いて軍士を支え整う。
それより以来号して営塹と曰う跡なお存ずなり)に到る。武則眞人先にこの処に軍し邂逅
して相遇う。互いに心懐を陳べ、各々共に涙を拭い、悲喜交至す。
同十六日に諸陣を定む。押領使清原の武貞(武則が子なり)一陣たり。橘の貞頼(武則
が甥なり。字は志万の太郎)二陣たり。吉彦の秀武(武則が甥また聟なり。字は荒川の太
郎)三陣たり。橘の頼貞(貞頼が弟なり。字は新方の二郎)四陣たり。頼義朝臣五陣たり。
五陣中をまた三陣に分かつ(一陣は将軍、一陣は武則眞人、一陣は国内の官人等なり)。
吉美候武忠(字は班目の四郎)六陣たり。清原の武道(字は貝澤の三郎)七陣たり。これ
に於いて武則遙かに皇城を拝し、天地に誓いて言く、臣既に子弟を発し将軍の命に応ず。
志節を立つるに在り。身を殺すを顧みず。もし苟も死せざれば、必ず空しく生きざらん。
八幡三所臣の中丹を照らせ。もし身命を惜しみ死力を致さざれば、必ず神鏑に中たり先に
死せんや。合軍臂を懐き一時に激怒す。今日鳩有りて軍上を飛ぶ。将軍以下悉くこれを拝
す。
則ち松山道より南磐井郡中山の大風澤に赴く。翌日同郡萩の馬場に到る。小松の柵を去
ること五町有余なり。件の柵はこれ宗任が叔父の僧良昭の柵なり。日次宜しからず、並び
に晩景に及ぶに依って攻撃する心無し。而るに武貞、頼貞等先ず地勢を見んが為に近くに
到るの間、歩兵火を放ち柵外の宿廬を焼く。これに於いて城内奮呼し矢石を乱発す。官軍
相応じ、争って先登を求む。将軍武則に命じて曰く、明日の議に俄に背き当時の戦いすで
に発る。但し兵機発るを待ち必ずしも日時を撰ばず。故に宋の武帝往亡を避けずして功あ
り。好んで兵機を見るに、早晩に随うべきかと。武則が曰く、官軍の怒りなお水火の如し。
この鋒当たるべからず。兵を用ゆるの機この時に過ぎずと。則ち騎兵を以て要害を圍み、
歩卒を以て城の柵を。。。。。件の柵の東南は深流碧潭を帯し、西北は壁立の青巖を負い、
歩騎共に泥む。然れども兵士深江是則す。大伴の員季等敢死の者二十余人を引率して、劔
を以て岸を鑿ち、鋒に杖して巖を登り、柵の下を斬り壊し城内に乱れ入り、力を合わせ攻
撃す。城中攪乱し賊衆潰敗す。宗任八百騎を将て、城外に戦いを挑む。前陣頗る疲れこれ
を敗ること能わず。茲に因って五陣の軍士、平の眞平、菅原の行基、源の眞清、刑部千富、
大原の信助、清原の貞廉、藤原の兼成、橘の孝忠、源の親季、藤原の朝臣時経、丸子の宿
祢弘政、藤原の光貞、佐伯の元方、平の経貞、紀の季武、安部の師方等を召し、合わせ加
えてこれを攻む。皆これ将軍麾下の坂東の精兵なり。万死に入り一生を忘れ、遂に宗任の
軍を敗る。また七陣陣頭の武道要害を支うの処に、宗任の精兵三十余騎遊兵として襲い来
る。武道迎え戦い殺傷殆ど盡くす。賊衆城を捨て逃げ走る。則ち火を放ちその柵を焼く。
射薨る所の賊徒六十余人、疵を被り逃ぐる者その員を知らず。官軍の死者十三人、疵を被
る者百五十人なり。士卒を休め干戈を整う。追って攻撃せず。また霖雨に遭い徒に数日を
送る。粮盡き食盡き軍中飢乏す。
磐井以南の郡々、宗任の訓に依って、官軍の輜重往反の人物を遮り奪う。件の姦類を追
捕せんが為に、兵士千余人を分かち、栗原郡に遣わす。また磐井郡仲村の地は陣を去るこ
と四十余里なり。田畠を耕作し民戸頗る饒る。則ち兵士三千余人を遣わし、また稲禾等を
苅らしめ、軍糧にし給う。此の如くの間、十八箇日を経て営中に留まる者六千五百余人な
り。貞任等この由を風聞し、その衆に語って曰く、聞く如きは官軍食乏しく、四方に糧を
求め、兵士四散し、営中数千に過ぎず。吾大衆を以て襲撃せば必ずこれを敗ると。則ち九
月五日を以て、精兵八千余人を率いて地を動かし襲来す。玄甲雲の如く、白刃日に耀く。
これに於いて武則眞人進んで将軍に賀して曰く、貞任謀りを失う。将に賊首を梟すと。将
軍曰く、彼の官軍分散して弧営に兵少なし。忽ちに大衆来襲す。これ必ず謀りが勝るか。
而るに子謀りを失うと曰う。その意如何にと。武則曰く、官軍は客兵たり。糧食常に乏し。
一旦鋒を争い雌雄を決せんと欲す。而るに賊衆もし嶮を守り進み戦わざれば、客兵常に疲
れ久しく攻むること能わず。或いは逃げ散る者有り。還って彼が為に討たるるべし。僕常
にこれを以て恐れと為す。而るに今貞任等進み来たって戦わんと欲す。これ天将軍を福す
るなり。また賊気黒く楼の如し。これ軍敗るるの兆しなり。官軍必ず勝ちを得んかと。将
軍曰く、子の言是なり。吾またこれを知ると。時に将軍武則に命じて曰く、昔勾践范蠡の
謀りを用い、会稽の恥を雪ぐことを得る。今老臣武則の忠に因って、朝威の厳を露さんと
欲す。今日の戦いに於いては身命を惜しむ莫れと。武則曰く、今将軍の為に命を棄つ。軽
きこと鴻毛の如し。寧ろ賊に向かって死すと雖も、敵に背いて生くるを得ずと。これに於
いて将軍陣を置くこと常山蛇勢の如し。士卒奮呼の声天地を動かす。両陣相対し鋒を交え
大いに戦う。午より酉に至るまで、義家、義綱等虎視鷹揚として将を斬り旗を抜く。貞任
等遂に以て敗北す。官軍勝ちに乗って北に追う。賊衆磐井川に到って、或いは迷い津を失
い、或いは高岸より墜ち、或いは深淵に溺る。暴虎馮河の類襲撃しこれを殺す。戦場より
河の辺に至るまで、射殺する所の賊衆百余人、奪い取る所の馬三百余匹なり。
将軍武則に語って曰く、深夜暗しと雖も、賊気を慰めず。必ず追い攻むべし。今夜賊に
従う者、明日は必ず振うかと。武則精兵八百余人を以て、暗夜に尋ね追う。将軍営に還っ
て、且つは士卒を饗し、且つは兵甲を整う。親しく軍中を廻り疵傷者を療す。戦士感激し
皆言く、身は恩の為に使い、命は義に依って軽し。今将軍の為に死すと雖も恨まず。彼の
鬢を焼き癰を吮う。何ぞこれに加え得ると。而して武則籌策を運し、敢死の者五十人を分
かち、偸に西山より貞任が軍中に入り俄に火を挙げしむ。その火光を見て三方より声を揚
げて攻撃す。貞任等意ならずに出づ。営中攪乱し賊衆駭き騒ぐ。自互いに撃ち戦い死傷甚
だ多し。遂に高梨の宿並びに石坂の柵を棄て逃げ衣川の関に入る。歩騎迷惑し壑に投じ谷
に墜す。三十余町の程斃亡の人馬宛乱麻の如し。肝膽地を塗り膏膩野を潤す。
同六日午の時に、将軍高梨の宿に到り、即日に衣川の関を攻めんと欲す。件の関は素よ
り隘路嶮岨にて、コウ函の固めに過ぐ。一人嶮を拒み萬夫進むこと能わず。いよいよ樹を
斬り蹊を塞ぎ、岸を崩し路を断つ。加えて霖雨晴無きを以て、河水洪漲して溢る。然れど
も三人の押領使これを攻む。武貞は関道を攻め、頼貞は上津衣川道を攻め、武則は関の下
道を攻む。未の時より戌の時まで攻め戦うの間、官軍の死者九人、疵を被る者八十余人な
り。武則馬を下り、岸辺を廻り見て、兵士久清を召し命じて曰く、両岸に曲木有り。枝條
河の面を覆う。汝軽捷にして好く飛び超え、彼岸に伝い渡り、賊営に偸み入り、方にその
塁を焼くべし。賊営に火起こるを見て合軍驚き走る。吾必ず関を破らんと。久清云く、死
生命に随うと。則ち猿猴の跳梁の如く彼岸の曲木に着き、縄を牽き葛を纏い、三十余人の
兵士に牽かす。同じく越え渡るを得て、即ち藤原の業親(業親は字大籐内、宗任が腹心な
り)の柵に偸み到り、俄に火を放ちて焼く。貞任等業親の柵の焼亡を見て、大駭遁れ奔る。
遂に関に拒まず鳥海の柵に保じる。而して久清等が殺傷する所の者七十余人たるなり。
同七日関を破り膽澤郡白鳥村に到る。大麻生野及び瀬原の二柵を攻めこれを抜く。生虜
一人を得て申して云く、度々の合戦の場に、賊師の死者数十人、所謂散位平の孝忠、金の
師通、安倍の時任、同貞行、金の依方等なり。皆これ貞任、宗任の一族にて驍勇驃悍の精
兵なりと。
同十一日の鶏鳴に鳥海の柵を襲う。行程十余里なり。官軍未だ到らざるの前に、宗任、
経清等城を棄て走り厨川の柵に保じる。将軍鳥海の柵に入り暫く士卒を休む。柵中の一屋
に酒数十瓶を醸す。士卒争ってこれを飲まんと欲す。将軍制止て云く、恐らく賊類毒酒を
設け疲頓の軍を欺くかと。而るに雑人の中の一両人これを飲むに害無し。而る後合軍これ
を飲み、皆万歳を呼ぶ。将軍武則に語って曰く、頃年鳥海の柵の名を聞く。その體を見る
こと能わざるに、今日卿の忠節に因って初めてこれに入るを得たり。卿予の顔色を見るに
如何にと。武則曰く、足下宜しく王室たるべし。節を立て風を櫛けずり雨に沐す。甲冑に
蟻虱を生い、軍旅の役に苦しみ、すでに十余年。天地その忠を助け、軍士その志に感ず。
これを以て賊衆の潰走積水を決するが如し。愚臣鞭を擁し相従い、何ぞ殊なる功有らんや。
但し将軍の形容を見るに、白髪半黒に返る。もし厨川の柵を破り貞任の首を得れば、髭髪
悉黒し、形容肥満すかと。将軍曰く、卿子弟を率いて大軍を発し、堅を破り鋭を挫く。自
ら矢石に当たり、陣を破り城を抜く。宛に圓石を伝う如し。これに因って予節を遂げ得る。
卿功を譲ること無かれ。但し白髪黒に返らば、予の意これに然ずと。武則拝謝して、即ち
正任が居する所斯和郡黒澤尻の柵を襲い、これを抜く。射殺する所の賊徒三十二人、疵を
被り逃ぐる者その員を知らず。また鶴脛、比與鳥の二柵同じくこれを破る。
同十四日厨川の柵に向かう。十五日酉の刻に到着し、厨川、嫗戸の二柵を圍む。相去る
こと七八町ばかりなり。陣を結び翼を張り、終夜これを守る。件の柵は、西北に大澤、二
面を河に阻む。河岸三丈有余、壁立して途無し。その内に柵を築き自ら固む。柵上に楼櫓
を構え、鋭卒これに居す。河と柵との間にまた隍を掘り、隍の底に刃を倒立す。地上には
鐵を蒔く。また遠きは弩を発ちてこれを射る。近きは石を投げこれを打つ。適々柵の下に
到らば、沸湯を建てこれに沃ぎ、利刃を振るいこれを殺す。官軍到着するの時、楼上の兵
官軍を招きて曰く、戦者来焉すと。雑女数十人、楼に登り唱歌す。将軍これを悪む。
十六日卯の時より攻め戦う。終日通夜積弩を乱発し、矢石雨の如し。城中固守してこれ
を抜かれず。官軍の死者数百人。十七日の未の時に、将軍土卒に命じて曰く、各人村落に
入り、屋舎を壊し運び、これを城の隍に填むと。また人毎に萱草を苅り、これを河岸に積
めと。これに於いて壊し運び苅り積む。須叟山の如し。将軍馬を下り遙かに皇城を拝し誓
言す。昔の漢徳未だ衰えず、飛泉忽ち校尉の節に応ず。今天威惟新し、大風老臣の忠を助
くべし。伏して乞う八幡三所、風出でて火を吹き、彼の柵を焼べし。則ち自ら火を把て神
火と称しこれを投ず。この時鳩有りて軍陣の上を翔ぶ。将軍再拝す。暴風忽ち起こり、煙
焔飛ぶが如し。この先に官軍が射る所の矢柵面の楼頭に立ち、なお蓑毛の如し。飛焔風に
随い矢羽に着き、楼櫓の屋舎一時に火起こる。城中の男女数千人、同音に悲泣し賊徒潰乱
す。或いは身を碧漂に投じ、或いは首を白刃に刎ぬ。官軍水を渡り攻め戦う。この時賊中
の敢死の者数百人、甲を被り刃を振るい、圍を突きて出づる。死すを必し生くる心莫し。
官軍傷死する者多し。武則軍士に告げて曰く、圍を開き賊衆を出すべしと。軍士圍を開く。
賊徒忽ち外に赴く心有りて、戦わずして走る。官軍横より撃ちて悉くこれを殺す。これに
於いて経清を生虜る。将軍召見して責めて曰く、汝の先祖相伝して予の家僕たり。而るに
年来朝威を忽緒して旧主を蔑如す。大逆無道なり。今日白符を用い得るや否やと。経清首
を伏して言を克せず。将軍深くこれを悪み、故に鈍刀を以てその首を漸斬す。これ経清が
痛苦久しくせんと欲してなり。貞任劔を抜いて官軍を斬る。官軍鋒を以てこれを刺し、大
楯に載せ六人にてこれを舁き、将軍の前に置く。その長六尺有余、腰圍り七尺四寸、容貌
魁偉、皮膚肥白なり。将軍罪を責め、貞任一面に死す。また弟重任(字は北浦の六郎)を
斬る。但し宗任自ら深泥に投じ逃げ脱亡しをはんぬ。貞任の子童十三歳、名を千世童子と
曰う。容貌美麗、甲を被り柵外に出て、能戦い驍勇祖風有り。将軍哀燐しこれを宥めんと
欲す。武則進んで曰く、小義を思い巨害を忘る莫れと。将軍頷き遂に斬る(貞任年三十四
にて死去)。城中の美女数十人、皆綾羅を衣い、悉く金翆を粧い、烟に交わり悲泣す。こ
れを出て各々軍士に賜る。但し柵破るるの時、則任の妻独り三歳の男を抱き、夫に語って
言く、君没し将るに、妾独り生くるを得ず。請いて君前に先に死すと。則ち児を抱きなが
ら自ら深淵に投じて死す。一烈女と謂うべきか。その後幾ばくならずして、貞任が伯父安
倍の為元(字を赤村の介)、貞任が弟家任降参す。また数日を経て宗任等九人帰降す。
同十二月十七日の国解に云く、斬り獲る賊徒は安倍の貞任、同重任、藤原の経清、散位
平の孝忠、藤原の重久、散位物部の惟正、藤原の経光、同正綱、同正元。帰降する者は安
倍の宗任、弟家任、則任(出家帰降)、散位安倍の為元、金の為行、同則行、同経永、藤
原の業親、同頼久、同遠久等なり。この外貞任の家族遺類有る無し。但し正任一人未だ出
来せず。僧良昭すでに出羽の国に至り、守源の齋頼の為に擒わるる所なり。正任は初め出
羽の光頼が子字大鳥山の太郎頼遠が許に隠れ、後宗任が帰降の由を聞き、また出来しをは
んぬ。
合戦の間、義家射る毎に、甲士皆弦に応じて死す。後日武則義家に語って曰く、僕君の
弓勢を試みんと欲すと。義家が曰く、善と。これに於いて武則堅甲三領を重ね、これを樹
枝に懸く。義家一発にして甲三領を貫かしむ。武則大いに驚いて云く、これ神明の変化な
り。豈凡人の堪ゆる所か。宜しく武士の帰伏する所たるは此の如しと。義綱が驍勇騎射ま
たその兄に亜す。
同六年二月十六日、貞任、重任、経清が首三級を献ず。京都の壮観たり。車轂を撃ち、
人肩を摩る(子細は別紙に注するなり)。これより先首を献ずる使者、貞任の従者降人を
率すなり。櫛無きの由を称す。使者が曰く、汝等私用の櫛有り。それを以てこれを梳くべ
しと。擔夫則ち櫛を出しこれを梳く。涙を垂れ鳴咽して曰く、吾が主存生の時、これを仰
ぐに高天の如し。豈図らん吾が垢の櫛を以て忝なくもその髪を梳くからんや。悲哀忍ぶべ
からずと。衆人皆涙を落とす。擔夫と雖も忠義人を感ぜしむるに足るなり。
同二十五日、除目の間勲功を賞す。頼義朝臣拝し、正四位の下伊豫の守と為す。太郎義
家は従五位の下出羽の守と為す。次郎義綱は左衛門の尉と為す。武則は従五位の下鎮守府
将軍と為す。首を献ずる使者藤原の秀俊は右馬の允と為す。物部の長頼は陸奥の大目と為
す。勲賞の新たか、天下の栄えたり。
戎狄強大にして、中国制すること能わず。故漢高平城の圍に困り、呂后不遜の詞を忍ぶ。
我が朝上古は屡々大軍を発し、国中多く戎を責むると雖も、大敗無し。坂面伝母礼麿降い
を請け、普く六郡の諸戎を服し、独り万代の嘉名を施す。即ちこれ北天の化身、希代の名
将なり。その後二百余歳、或いは猛将一戦の功を立て、或いは謀臣六奇の計を吐く。而る
にただ一部一落を服し、未だ曽って兵威を耀かし偏に諸戎を誅すること有らず。而るに頼
義朝臣自ら矢石に当たり、戎人の鋒を折る。豈名世の殊功に非ずや。彼の郢支単干を斬り、
南越王首を梟す。何ぞ以てこれに如かずや。今国解の文を衆口の語りに抄し、この一巻を
注す。但し少生千里の外、定めて訛謬多し。実を知る者これを正すのみ。