ネルフ本部の格納庫には、三体のエヴァンゲリオンが今も整備され、突然の出陣に備えている。しかし生物体の指示通り、綾波レイと碇シンジがこの世界から平行宇宙へ送り込まれてから神人は現れず、エヴァンゲリオンが出動する機会は失われていた。
 誰もがもう神人は現れず、平穏な時間が永遠に続く物と信じていた。政府内でも維持に莫大な費用の掛かるエヴァンゲリオンは、もう処分しても構わないのではないかという意見まで出ていた。
 誰もが平和な世界を望んでいたが、一人だけこの状況を苦々しく思う者がいた。それは現在唯一のエヴァパイロットとして待機している”惣流アスカ・ラングレー”だ。今年高校二年生になった彼女は、エヴァに乗ることを自らの存在意義であると思い込んでいる。長く続く平和な時の中で、エヴァの価値は薄れ、アスカの存在も失われつつあった。エヴァで戦いたい、それは彼女の唯一の望みだった。


 第三東京市の地下に存在するジオフロントは、直径6キロ、深さ約1キロに及ぶ広大な半球形の空間で、有事の際は地上の建物をその中に引き込み、格納することが出来る。地上からは二十四枚の特殊装甲板で覆われ、外敵の侵入を防いでいる。
 ジオフロントの空間に、クフ王のピラミッドのような三角錐形の特務機関ネルフの本部施設が存在する。そこには数百人の職員が働く中枢司令部があり、その下には地下7キロにも及ぶ大深度地下施設セントラルドグマがあり、三体のエヴァンゲリオンもそこに格納されている。
 ネルフの施設内にはエヴァンゲリオン製造の為に作られた実験研究設備が多数存在する。”人口進化研究室三号分室”かつて綾波レイが生み出されたこの場所は、ネルフの施設内でもっとも秘密に満ち、限られた者しか入室を許されない特別な場所でもある。その秘密施設に今綾波レイがいる。彼女は今日とても貴重な資料を入手してこの世界に帰還した。
 レイは仄暗い部屋の中で手術台に横たわっていた。身体を白い無菌布で覆われ、頭が器具で固定されている。開瞼器が彼女の左目を大きく開かせ、そこにレーザー光線が照射される。まるで視力矯正のレーシック手術のようだが、手術の意図はそれとは全く別である。
 この手術は手術用ロボットが担当している。ブームマイクのような自在に稼働するアームの先に、レーザーメスを初めとした様々な器具が装着され、手術順に応じて回転し、細かな作業を手際良くこなしていく。
 手術を受けるレイは、全身麻酔を掛けられたように微動だにしない。そんなの彼女の眼球から角膜が切除され、慎重に”SH01DATA”とラベルの貼られた無菌シャーレに入れられる。続いてアームがES培養技術から製造された角膜をピンセットで掴むと、切除痕に移植した。
 レーザー溶着を行い、手術は滞りなく終了した。外で手術の様子を確認していた赤木リツコが部屋に入ってくる。リツコはネルフ技術開発部技術局第一課に所属し、エヴァンゲリオンの開発責任者で、生物学に長けた学者でもある。他のネルフ隊員と違い、制服は白衣を纏っている。
「レイ、良く頑張ったわね」リツコが優しく声を掛けた。
「大丈夫」レイが答える。
 レイの頭を固定していた器具が自動で緩み、彼女は上体を起こした。すぐリツコが患部を確認する。
「良く出来てるわ」そう言うとリツコは、手術マシンの先端に付いたカメラに視線を移した。
 ロボットはまんざらでもなさそうにアームを少し下げた。まるで会釈をするように。
「まだ強い光は禁物よ」
 リツコはレイの患部にガーゼを当てると、包帯を頭の上部の周囲に巻き付け、右目以外を覆い隠した。
「二、三日はこのままでいて」
「はい」リツコの指示をレイは素直に受け入れた。
 レイの角膜には貴重なデータが記録されている。リツコはその角膜を傷付けぬように切除し、新しい角膜を移植することを碇ゲンドウから命じられていた。しかしその角膜にどのようなデータが記録されているのかをリツコは教えられていない。でもゲンドウが直接命令する程だ、相当重要なデータであることは想像に難しくない。リツコは”SH01”のシャーレをクーラーボックス内に丁寧に収めた。
 
 ネルフの最高司令官、碇ゲンドウの部屋は、ピラミッド型のネルフ本部の最頂部に近く、四方を偏向ガラスに囲まれている。天井と床には幾何学模様が描かれ、その広い部屋の面積に対して、机が一つ置かれているだけだ。
 その机にゲンドウは顔の前で両手を組んでじっと座っている。窓際には、ゲンドウに背中を向けて外の景色を見る、ネルフの副司令官冬月コウゾウの姿があった。四十歳代のゲンドウに対して、冬月は老練な顔付きをしている。
 ゲンドウは背中を丸め「レイ」と、ぐぐもったような低い声を発した。声が部屋の空気を震わせ、天井に反射する。
 ゲンドウの視線は、彼の机の前の席に置かれた椅子に姿勢を正しながら座る、セーラー服姿の綾波レイの幼い顔に一心に注がれている。彼女の顔は手術後の痛々しい包帯が、まだ顔の半分を覆い隠したままだ。
「はい」と、背筋を伸ばしたレイの少女らしい甲高く澄み切った無垢な声が、その口元から発せられた。
「SH01の状況はどうだ?」外の白い光が、ゲンドウの丸い眼鏡に反射して輝き、目の動きを確認することが出来ない。
「今のところ特別な不確定要素はなく至って平穏です」
 レイは無表情なロボットのように、まるで感情のない口調でゲンドウに返事をした。緊張からか開かれた赤い双眸が僅かに下を向いた。
「そうか」表情を変えないゲンドウは、意志表示のように親指で顎髭を撫でつけた。
「貴重なデータを良く運んでくれたな」
「はい、問題ありませんでした」
「良くやってくれた。これからも監視を続けてくれ。問題が起こりそうならすぐに連絡をくれ」
「はい・・・・・・」
 ゲンドウは「悪いな」と、初めて感情の籠もった声を出した。
「いいえ、私の仕事はSH01を観察して入手した情報を報告することですから」
 レイは平坦な口調で、当たり前のように自分に与えられた命令を反復した。使命感を失わない彼女の言葉を聞いたゲンドウの口元が思わず緩んだ。
「下がっていい」
 レイが椅子を下げてゆっくりと立ち上がり、ゲンドウに軽くお辞儀をした。
 レイと入れ換わるように部屋の隅で息を潜めていた冬月コウゾウが、ゲンドウの脇に立った。皺の刻まれた顔が、ゲンドウの顔の脇にヌッと現れる。
「新たな神。死海文書通りの展開になってきたな」全ての会話を聞いていた冬月が言った。
「ああ」ゲンドウが頷く。
「でも、碇。自分の息子のことは聞かなかったな」冬月は尋ねた。
「何故そんなことを訊く? 俺はシンジを元々息子だとは思っていない」
「やれやれ碇、お前の息子に対する感情は、他人の私では理解出来んよ」
「今のシンジには両親の記憶などない」
「そんなことはないだろう。子供は産まれた時から母親の記憶はある物だ」
 冬月の言葉に何の反応も見せず、ゲンドウはじっと部屋の奥の虚空を眺め続けた。

 ネルフ施設のあるジオフロントから綾波レイは地上に出た。明るく照り付ける太陽の下、アスファルトの歩道を歩いていく。車が彼女の脇を通り抜けていく。道行く人も彼女に何ら関心を示すことはない。
 レイが辿り着いたのは古びたコンクリート製のアパートだった。402号室のドアを開ける。カーテンが閉められたままの薄暗い室内、コンクリート剥き出し壁、パイプベッド、机の上のビーカー、壁の鏡に向かうと、レイは顔の包帯を解き、床に落とした。
 シャワールームに立ち込める湯気の中で、レイの裸体が揺れている。彼女の身体を伝う温水がこの数日の疲れを洗い流していく。
 レイはその後リツコの指示通り、三日三晩一度も目覚めることなく、この部屋で眠り続けた。その甲斐があり、彼女の左目は完全に回復した。まさに恐るべき治癒力といえるだろう。
「大した物ね、これだけ完璧に直るなんて」
 診察室でリツコがレイの左目を覗き込みながら観察して感嘆した。
「と、いうことはレイは元の世界へ戻せるわけ?」壁に背中を付けて立つ葛城ミサトが尋ねた。
「ええ、大丈夫よ」
「それなら早く戻した方が良いわね。任務に空白が空くとマズイわ」ミサトがリツコに指示をした。
「久し振りに帰って来たのに、少しはゆっくりさせてあげたいわね」リツコが気の毒そうに呟いた。
「私達に遊んでいる暇はないのよ」
 葛城ミサトはネルフ本部の戦術作戦部作戦局第一課所属、階級は三佐だ。男勝りで勝ち気な性格。しかし外観は正反対にすらりとした脆い女性の容姿をしている。性格も外観のようなら彼女は大変モテた女性になれただろう。いつも精悍な赤い軍服を纏わねばならないこの世界の環境が、彼女を強い女性にならざる得なくしているのかも知れない。
 人口進化研究室内の最重要機密マシン、”異次元電送移動装置”それは異次元層を通過させる為に、有機体を素粒子レベルまで分解する装置で、地球外知的生命体が指示した設計図に基づいて製作された。
 エリアの中央に人が収まる大きさの透明な円筒状のガラス容器が据え付けられていて、容器には高電圧を発生させる為のコードと、分解後に次元外へ照射する為のコード等が無数に張り巡らされている。
 地上には直径五十メートルを超える巨大なパラボラアンテナが、空へ向けて設置されている。このアンテナを使って素粒子を宇宙へ放出するのだ。
 この装置は高出力の電力を使用して超高熱の状態になる為、安全を考慮して設備全体が分厚いコンクリートの壁に囲まれている。コントロールルームを隔てる正面のガラスも、分厚い強化ガラス製で、熱と明るさから遮断される。まるで核融合炉を巨大にしたようなとても重々しい設備だ。
 ピンク色の液体が満たされた実験室内のガラス容器の中に、膝を抱えて眠る全裸のレイの身体がゆらゆらと浮かんでいる。下部からの照明に照らし出される彼女の姿は、母なる子宮に宿る胎児のように無垢な存在に見える。
「電圧は最大で十三秒間照射するわ」
 コントロールルームの強化ガラスの窓からレイの姿を覗く赤木リツコの声が部屋に響く。コントロールルーム内には、オペレーターとしてリツコの部下である伊吹マヤと、ミサトの部下の日向マコトがこの作業を手伝っている。二人はせわしなく複雑な機器を操作しながら画面を注視している。
 ガラス越しにレイの浮かぶ容器を見る白衣姿のリツコの隣に、ミサトが現れた。彼女はこの実験に立ち会うのが初めてで、目の当たりにする奇妙な装置に不安を隠せない。こんな物で人間を量子化することなど本当に出来るのだろうか? ミサトは心配そうに顔を曇らせ、胎児形状で眠るレイの姿をじっと見つめた。
「レイも任務とはいえ、こんな危険なことを良くやるわ」ぽつりとミサトが呟いた。
「あの子は碇司令の命令なら何でもきくのよ」リツコが答えた。
「そうじゃないと思う、きっとシンジくんの為よ」
「そうね。そうかも知れないわ」リツコが小さく頷いた。
「電力量100%、いつでも転送可能です」オペレーターのマコトが準備が整ったことを伝える。
「マヤ、偏光フィルターに切り換えてから開始して」リツコがマヤに指示した。
「はい、先輩」
 マヤが卓上に林立するレバーの中から一際目立つ、車のAT状の赤色のレバーを操作すると、作業室エリアとコントロールルームを隔てるガラスが真っ暗になった。
 マコトが「異次元電送移動開始します」という声と共に起動ボタンを押した。レイの入った円筒形の容器内に凄まじい閃光が走り、稲妻が螺旋状に駆け上がっていく。
 凄まじい轟音と振動が実験室エリアの壁を震わしている。しかし轟音も振動も、防音の行き届いたマンションの部屋のように、コントロールルームには何も伝わらない。
「プラズマエネルギー、50%、60%、70%・・・・・・」マコトが画面の数字を読み上げる。数値が上がると容器は目映い光に包み込まれて、中の様子は全く見えなくなった。
「こんなに照射して大丈夫なの?」
 目の前の荒々しい状況に、ミサトが不安げな表情を浮かべて声を震わせた。
「もう何度も試しているの。あなたの心配には及ばないわ」どんな状況でもリツコはとても冷静だ。
「プラズマエネルギー100%照射、十三、十二、十一、十、九・・・・・・」マヤが時間を読み上げると、閃光は益々激しくなり、容器内は真っ白な閃光に包まれている。
「順調?」心配顔のミサトがマコトの脇にやって来て尋ねた。
「ええ、でも見て下さい。十万ワットです。これだけの電力量はこのネルフの施設でなきゃ絶対に手に入りませんよ」
「ええ、そうね。エヴァ様々だわ」
「三、二、一、停止!」カウントダウンするマヤの声で一瞬として閃光は消え、偏光ガラスの向こうの分室の様子が何も見えなくなった。
「フィルターを解除して」リツコが指示すると、マヤがレバーを元の位置に戻した。すると、透明さを取り戻した偏光ガラスの向こうに見える円筒形容器の中にレイの姿は無かった。
「何故こんなことが出来るの?」
 まるでイリュージョンの魔術のように、目の前からレイが消え去った事実を見せつけられてミサトは動揺し、その場に立ち尽くした。
「対有機生命体の位置を確認して」リツコがマヤの方を見た。
「進行角二十三.六度で、ワームホールに侵入しています」マヤが答える。
 陸上の巨大パラボラアンテナは木星の方角を指し、その先へ向けて量子化された綾波レイの身体を一瞬で発信していた。
「成功ね」リツコが初めて口元に笑みを浮かべた。
「対有機生命体って何? もうレイとは呼ばないの?」ミサトがリツコに尋ねた。
「そう、綾波レイの身体は量子レベルに分解されて、今はただの電波と化しているわ。目標点で再構築されて再び生命体に戻るの。ほら知ってる? 昔テレビのSFドラマであったでしょう、電送とかいうのが。この装置を使うとあれが現実に行えるのよ。ミサトには”ドラえもん”の方が分かりやすかったかな? 見た通り手軽にというわけじゃないけれども」
「でもレイの身体はどこへ行ったの?」
「五次元空間内のいち三次元空間のどこかよ」
「五次元って?」ミサトは首を傾げた。
「二○世紀末に提唱された理論よ。あなたも物理の授業で習ったでしょう?」
「物理は余り得意じゃなくて」ミサトはバツが悪そうに頭を掻いた。
「困った人ね。それで良く三佐にまで昇級出来たわね」
「それは関係ないでしょう」馬鹿にしたような皮肉の籠もったリツコの言葉に、ミサトはむっと膨れた。
「この宇宙には私達の生きる三次元空間と、それに時間の流れを加えた四次元空間が存在するのよ。それは知っているわね」仕方なくリツコは説明をし始めた。
「ええ・・・・・・」それ位のことならミサトにも理解出来る。
「そういった空間が宇宙には無限に存在し、それを包括した空間が五次元なのよ」
「それって私達の見ている宇宙が全てじゃないということ?」
「そう、私達の知っている宇宙は一つではなく無限にあるの。マルチバースという考えね」
「マルチバース? やっぱり全然分からないわ」ミサトは苦笑しながら頭を掻いた。
「本来重力の力ってこんなに弱くないはずなのよ。当時の科学者はそれは量子が別の次元空間に洩れていると考えたの。アルプス山脈の地下に建造された巨大陽子加速器で陽子を衝突させる実験を行って、その飛び散った量子の破片を回収したら一部が消えていたの。つまりこの世から別の空間に移動したわけ。それによって宇宙は五次元で構築されていることが実証されたのよ」
「でも本当に五次元空間が存在したとしても、そこには無限に宇宙があるのでしょう。レイはその中のどの宇宙へ行ったのよ」ミサトは疑問を口にした。
「それは私達にも分からない」
「分からないって、あなた何無責任なこと言ってるのよ」急にミサトは憤慨して声を荒げた。
「私達はこの任務の本当の意味を教えられていないの」
 リツコの言う通りだ。この任務はトップシークレットに属し、情報は開示されていない。本当のことはネルフのトップ数人しか知らない。だからミサトもどうしてレイを別次元に転送しなければならないのか、その理由を何も知らされていなかった。
 この任務は腑に落ちないことが多過ぎる。神人のこと、この装置のこと、SH01のこと・・・・・・等々。しかしどれだけ疑問を抱いても自分は命令を遂行するしかない。
 レイは一体どこへ消えてしまったのだ? その世界で彼女は元気に暮らせているのか? ミサトの不安は消えず、ガラス越しの殺風景な実験室エリアに残る無人のガラス容器を無言でじっと眺め続けた。