「キョン!」
 秋のうららかな陽射しの中で、気持ち良い眠りに誘われていた俺は、突然後ろから発せられた悲鳴と共に、いきなり襟首を掴まれて後ろへとなぎ倒された。
 大体授業中に居眠りをしていたのは俺だから、教師から注意を受けるのは止むを得ないだろう。しかし何故こいつに襟首などを掴まれて、気分の良い夢から目覚めさせられなければならないのだ。夢の中ではちょうど朝比奈さんとのどかな田園でランチをしている真っ最中だったのに、こんな鮮麗な夢から無理矢理目覚めさせられるとは・・・・・・。何でこいつの席の前に俺は座っているのだ。全く神様を恨みたくなるよ。
「今新しい曲を考えていたのよ。これどう?」
 俺の目の前に瞳を煌々と輝かせた涼宮ハルヒが、ノートに書いた歌詞を突き付ける。こいつの神々しいまでの笑顔の裏には、このまま地球を氷河期に覆わさせんとする程の不気味さが潜んでいるようだった。
 ハルヒがようやく襟首から手を離してくれたお陰で俺は立ち上がり、机の角で打ち付けた鈍痛を感じる後頭部から手を離すと、ハルヒの興奮を抑えるようにこいつの両肩に手を置いた。
「まあハルヒ落ち着け。お前がこの授業が退屈なのは良く分かる。かくなる俺も居眠りをしていた程だからな。でも一往授業中であることを考慮してやって、この話の続きは放課後にしないか」
 俺は出来るだけ冷静な口調で説得した。しかし、
「お前ら、俺の授業が退屈だと!」
 会話を聞いた頭の禿げた古文の教師は一人いきり立ち、頭から湯気を立ち昇らせている。もっとも周りの連中は俺達の奇矯な行動にただ戸惑うか、呆れるかの二者択一で何の反応も示せないだけだが・・・・・・。隣で口をぽっかり開いている谷口の阿保な表情が、それを如実に物語っていた。
「うん、分かった。その間に別の曲を考えておく・・・・・・」
 珍しくハルヒは反論一つせずに、素直に俺の意見に従った。放課後にこの何倍も愚痴を聞かされるのだろうが、今はこの状況を沈静化させるのが一番重要だ。
「先生、話は終わりましたので、授業を続けて下さい」俺は教師に何事もなかったような落ち着いた態度を取るとそう告げた。
「お、お、お前ら・・・・・・」にも関わらず怒り心頭な禿げ教師は顔を真っ赤にして拳を握りしめている。俺もあんたみたいにハルヒに向かって怒りたいよ。
 俺はハルヒに座るように合図をしてから席に着いた。やれやれこりゃまた担任の岡部から呼び出しが来るな。ああ、今は嘆息を洩らすしかない。

 何故涼宮ハルヒが俺の席の後ろに座り、古文の授業中に作詞などをしていたのか? それを説明するには昨年の文化祭まで時間を遡る必要がある。朝比奈さんならTPDDとやらを使ってすぐにでもその時間へ俺を遡航させただろうが、そんな未来の神器を使わなくとも、俺の頭はあの出来事を鮮明に記憶している。それほど脳の長期記憶回路に深く刻み込まれた事件だった。
 ハルヒは北高祭に向けてSOS団製作の自主製作映画を撮影し、文化祭当日映画研との合同上映会を済ませると、その有り余ったエネルギーを早速別の活動に注ぎ込むことにした。かくなる俺は徹夜のビデオ編集でヘトヘトとなった身体を労るように、講堂で開催されている生徒会主催の音楽演奏会とやらを鑑賞していた。勿論下手糞な素人演奏を楽しむわけではなく、ただそこに観客席が用意されていて、ゆっくりと腰を掛けて休息することが出来たからである。
 しばらく目を閉じてウトウトしていた俺はある人物の登場でその眠気を奪われることになる。そうその人物が涼宮ハルヒだったのだ。
 何故かバニーガール衣装でステージに現れたハルヒは、その悩殺衣装に茫然自失とする観客をよそに、これまた何故か魔女衣装にエレキギターを抱える長門有希を脇に携えていた。その異様さは面識のないドラムとベースというリズム隊の女子が、制服姿なのが不釣り合いに見えるほどだった。
 そんな疑問も演奏が始まった途端瞬時に消え去った。長門の超絶的ギターとハルヒのプロ並の歌唱力。長門はともかく、ハルヒにこんな才能があるとは信じられなかった。でも少し考えれば、あいつはプロ並のピッチャーの直球をいとも簡単にクリーンヒットにしてしまえる程だから、こんなことは御茶の子さいさいだったのかも知れない。いずれにしてもステージで朗々と歌い上げるあの時のハルヒの姿は俺の脳裏に深く刻み込まれることとなった。
 問題はこのライブ演奏でハルヒの音楽熱、いや人前で演奏をするという快楽に火が点いてしまったことだ。元々目立つことが大好きな奴だ。当然のようにハルヒはSOS団として翌年の文化祭のステージに立つことを思い付いた。部員の演奏能力など全く無視してあいつは自分の欲望の為だけにライブをやろうと考えたのだ。でも俺にとってはこれ以上迷惑なことはない。何故なら俺は全くの楽器音痴なのだ。小学、中学校時代、俺の音楽の成績はアヒルの行進だし、身の程を知って高校では音楽を専攻していない。しかしハルヒにとってそんなことは何の関係もない。あいつは是が非でもSOS団としてステージに立つ魂胆なのだ。
 でも何故文化部として生徒会から認められていない謎の団が文化祭のステージに立てるかというと、生徒会主催による演奏会は生徒会のオーディションに受かれば、北高の生徒であれば誰でも文化祭で演奏出来るという、実に有り難い生徒会規約があるからだ。お陰でそのオーディションに受かる為に、俺達はハルヒ先導の下、日夜練習に励んでいるわけである。規約で文化祭での楽器演奏は音楽部、もしくはまともな文化部に限るとしていただければ良かったのに、こんな下らん文言を作った奴に文句の一つでも言いたい気分だ。
 ハルヒは思い立った三秒後には軽音部へ乗り込み、言葉巧みに部員を欺して楽器を調達した。またいつぞのコンピ研の時のようなことをしでかすのではと俺は冷や冷やしたが、今回は実にスムーズに楽器を手に入れることに成功した。有り難いことに昨年の代理演奏をした時のメンバーがまだ軽音楽部にいたことも事が穏便に進んだ大きな要因だ。
 それからハルヒの独断と偏見で、俺はドラムを叩くことにされた。古泉がベース、朝比奈さんがキーボード、リードギターは長門で、サイドギターとボーカルがハルヒだ。長門とハルヒの演奏は昨年の文化祭の時に確認済みだが、古泉が実に上手く演奏するのには驚かされた。奴はハルヒから譜面を渡された翌日には完璧に演奏をしてみせた。やはりこいつは超能力でも使っているんじゃないか? 
 それに引き換え俺ときたら全然ドラムを叩くことが出来ない。大体両手両足で別々のリズムを刻むことなど、まともな地球人の俺に出来るわけがない。
 朝比奈さんはここでも運動神経ゼロ振りを見事に発揮してくれている。ぎこちなく指が鍵盤を撫でるのだが、全て一拍遅れ、いや一小節遅れといった方が良いか・・・・・・。この人はいつも実に頼りになるお方だ。
 オーディションは一曲だが、ハルヒはライブで五曲も演奏するつもりだ。五曲・・・・・・。聞いた瞬間に目眩がした。俺のこの演奏で五曲もリズムをキープ出来るわけないだろう。一曲にしておけ、一曲が限界だ。でもハルヒの思い付きを覆すことが不可能なことは誰よりも俺自身が良く分かっている。何てこった、俺のこの頭痛が退くことは文化祭が終わるまでないんだろうなあ。
 放課後の文芸部ではこんな珍騒バンドの練習がこの一週間連日行われているわけだが、文芸部の部室でこんな騒々しいことをしても良いもんかね。これじゃ軽音部と何んら変わらないじゃないか。もっとも軽音部は本棟の中の音楽室を使っているので、さほど音が大きく洩れることはない。しかし薄壁の旧館文化棟などは音が洩れるなどという生易しい物ではなく、ドラムやベースの低音が建物全体を震わせて、今にも崩れてしまいそうだ。
 全く迷惑千万できっと他のクラブの活動に相当の支障をきたしていることだろう。彼等も近く訪れる文化祭に向かって着々と計画を遂行しようとしているはずなのに、文化部でもないSOS団などという得体の知れない文芸部のパラサイト連中に、その活動を阻害されては堪らない。
 いつかこの部室に怒り心頭な連中が大挙して押し掛けてくるのではと、俺は内心穏やかではないのだが、今のところその気配はない。それが出来ないのは彼等が畏怖する存在がここにいるからだ。それは目の前で団長なる腕章を付けて腕を組み、苦虫を噛んだような顔で俺を見下ろしている、この涼宮ハルヒという女に間違いない。
「キョン! 何でこんな簡単なことが出来ないよ。あんたのせいで演奏が台無しでしょ」
 ハルヒが目を三角につり上げて俺に罵声を浴びせかける。今日はこれで何回目の罵倒だ? もう数える気にもなれない。
「素人の俺がこんな難しいリズムを刻めるわけないだろう」俺はもう開き直ってハルヒに詰め寄る。気に入らないならリズムボックスにでもやらせればいいだろう。
「古泉くんだってこんなに上手に弾けるのに、あなたに出来ないわけがないでしょ」
 古泉はお褒めの言葉が嬉しいのか、にこやかに微笑みながら両手を広げている。
 ああ、俺にも超能力者や、対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースの一万分の一でいいから能力が欲しい物だ。今日ばかりはそう嘆かずにはいられない。

 散々な演奏内容でハルヒは怒って一人先に帰ってしまった。あの様子じゃ明日は朝から背中に穴が開く程、ハルヒのアンガーな視光線を受けるんだろうなあ。困ったもんだ。
「なあ古泉」
「何ですか?」古泉がいつもの笑みを称えて答える。
「お前、どうしてこんなにベースが上手いんだ。昔からやっていたのか?」
「いえ、全然。我々の組織にはプロのベーシストがいるんですよ。かなり有名な人で、譜面をいただいた日は、その方に徹夜で特訓してもらったんですよ」
「そんなのがいるんなら、俺にドラムのプロを紹介してもらえないか?」
「それは無理ですね。機関には超能力のある者しか接触出来ませんので」
 ああ、そうかい、どうせ最初から俺はお呼びじゃないのね。
「なあ長門、お前はドラムも叩けるのか?」部屋の脇で読書中の長門に尋ねてみた。
「叩ける」
 愛想無く長門はすっと椅子から立ち上がり、俺の脇に来ると「代わって」と言った。
 長門はスティックを受け取るとドラムの前に座り、いきなり激しく叩き始めた。メトロノームのように正確なリズム、リフも完璧だ。余りにも素晴らしい長門の演奏に皆が驚愕の表情で茫然としている。さすがだよ長門・・・・・・。
 演奏が終わって長門はドラムの前から立ち上がるとスティックを俺に返し、そして何事もない様子で再び椅子に座ると、読みかけの海外SFの原書を開いて視線を落とした。
「なあ長門、物は相談だが、俺にドラムを教えてくれないか?」
「無理」長門は本から1ミリも目を逸らさずにそう言った。
「何でだ?」
「私は人に物を教えるようにプログラムされていない」
「は・・・・・・」
 素っ気ない長門の回答に、どうせ俺には味方になってくれる人はいないのだなと、その時悟った。
「悪い、戸締まりだけはしていってくれ」
 結局一人で努力するしかないことを悟り、俺は肩を落としながら一人部室を後にした。

 俺がどうしてこんなことをしなければならんのだ。何でハルヒの思い付きと我欲に付き合わなければならんのだ。ベッドの上で膝を抱えながらその間に読みかけの月刊少年エースを置いてドラムスティックでリズムを取ってみる。
 いつぞ買ったか忘れたSーDATのステレオイヤホンから聞こえて来るのは、ハルヒ自作の曲だ。しかしあいつは何でも出来る奴だ。こればかりは本当に感心せざる得ない。この曲もコンピ研から掠め取ったパソコンの中に入っていた音楽作成ソフトを使い、オタマジャクシを並べて作った曲だ。端で見ていた限り、適当に作っていたようにしか思えなかったが、どうしてこんなまともな曲になるんだ? 全くもって信じられん。
 でも意地悪な程、難しいリズムが構成してある。変拍子というのか、キング・クリムゾンか、イエス、はてはストラヴィンスキーの楽曲のような複雑怪奇なリズム構成だ。素人の俺にこんなもん叩けるわけないだろう。
 俺が腹立たしくしていると、突然部屋のドアが開いて「シャミセンいる?」と、言いながら妹が俺の部屋に走り込んできた。人の悩みなど全く受けない笑顔を振り捲いている。そして俺の枕の上で高鼾を掻く、太った雄の三毛猫を抱き上げた。
「おいおい、そいつまだ寝てるんだぞ」
「大丈夫」
 俺の忠告を無視して、妹は俺の目の前に両手で抱えたシャミセンを突き出した。三毛猫は可愛そうにまだ目をトロンとさせている。
「おいおい、そいつまだ寝惚けてるぞ。余り無茶をするなよ」
「はい、分かりましたです」
 妹はあっけらかんと言うと、シャミセンを抱いたまま駆け足で部屋を出て行った。急いで閉めたのかまだドアが閉まりきっていない。やれやれと俺は立ち上がるとドアを最後まで閉めた。
 ベッドに戻ると、長門から借りたSF小説より遙かに面白い、少年エースをスティックで叩き始めた。しかしもうちょっと簡単なリズムに出来なかったのか。思うのはそればかりだ。
 俺の悩みが明けることはなかった。