今日も放課後に馬鹿でかい騒音を文芸部なる一部室から発生させていると、遂にあの男がやって来た。突然扉を開けてその姿を覗かせた男、それは誰あろう生徒会長さまであった。いつかの俺の悪い予感が見事に的中してしまったわけだ。テストの山勘は全く当たらないのに、こういうのは実に良く当たる。
 前触れもなく現れた生徒会長のご登場に、俺達のチンドン屋演奏はぴたりと止み、よせばいいのにハルヒの奴は生徒会長を睨み付けると「来たわね。悪代官」と、対敵心剥き出しで罵りやがった。こいつ全然分かっちゃいねえ。
 二人の間に火花がバチバチと飛び散るのを俺は見た。ふと視線を生徒会長の後ろへ向けると、社長秘書のように微妙な距離をおいて穏やかに微笑みながら立っている喜緑さんの姿があった。彼女の視線の先を辿ると、これまた無言で真っ黒な双眸を見開いたまま、その姿を凝視する長門がいた。こちらの二人は無言のままだが、長門の無表情さの中には、何やら滾った感情が渦巻いているのが、俺には感じられる。今ここでとんでもない非常事態が発生しているようだ。きっとこの部室の中には、目に見えないドロドロとした妖気が渦巻いているんだろうなあ。
 俺は古泉の方へ目配せをしながら”お前は何を企んでいるんだ?”と、無言の確認をしたのだが、古泉はいつもの笑顔で両手を広げながら”僕は知りません”と、視線で返してきやがった。お前の企みじゃなきゃ、この状況は一体誰が作り出したんだ?
「ここは文芸部のはずだが、何故君達はここでこんな物を演奏しているのかね」
 SOS団なる得体の知れない存在を知らぬ者なら、十人中十人が尋ねるであろう実に正しい質問である。当然ながら生徒会長さまも、そのことをお尋ねになられた。
「見りゃわかるでしょう。バンド演奏よ」
 ハルヒはさも当たり前のように前髪を後ろへ撫でながら答えた。無理に感情を抑えているのが分かる。
「君達の発する騒音で活動を阻害されていると、周りの文化部の部員から苦情が出ていてね」生徒会長は威厳を演出するように眼鏡をぐっと押し上げた。
「は、はあん。さては貧民どもの申し出を聞き入れて、自分の株を上げようって魂胆ね」
 ハルヒは生徒会長の腹を探るような不審な視線を投げ掛けているが、俺には彼がここに来るまでの状況が、まるで隠し撮りのビデオを再生しているかのように見てとれた。

 俺の想像はこうだ。多分それほど大きく外れてはいまい。
 文芸部の外では、連日の俺達のチンドン屋演奏の騒音に耐えかねた他クラブの部員達が、何とか演奏を止めさせようと画策していた。しかし騒音の出所が涼宮ハルヒである限り、奴らが千人束になって文句を言おうが、こいつが聞き入れるわけがない。それどころか返り討ちにあうのがオチだ。事実コンピ研の部長などは見事に返り討ちに遭い、ノートパソコンを四台もせしめられたのだから。
 彼等はハルヒに対抗出来る唯一の存在を知っていた。人によるとそれは俺だという説もあるが、断じてないと言い切っておこう。今回その対象は生徒会長さまだ。
 生徒会室へ彼等は大挙して押し掛け、大蔵大臣に予算を求める地方議員のように、頭を下げ続けて陳情をした。古泉に躍らさせられていただけの不良生徒会長も、これだけのクラブ員に苦情を申し立てられては無視するわけにもいくまい。それに話を聞いている内に彼等が哀れに思えてきた。ましてやその原因が涼宮ハルヒであるのなら彼にとって相手に不足はない。
 彼の正義感に火を点けてしまった。古泉に後ろから操られているのではなく、彼自身に正義感が芽生え、本物の生徒会長としての使命感に燃えてしまった。
 生徒会長は「任しておけ」と力強く言い残すと席を立ち、職員室の隣の部屋を出た。後ろに喜緑さんを携えて。
 校舎と部室棟への渡り廊下を歩いていると、建物を揺るがすような騒音が聞こえてくる。彼等の苦情が間違いではない酷い騒音だ。部室棟へ足を踏み入れると、工事現場の削岩機が十台同時に作動しているような轟音に耳を塞いだ。これはどうしても止めねばならない。彼の正義感が益々強くなった。
 そして文芸部の前まで来てドアノブを回し、扉を開けて覗かせたのが最初に俺達が見た生徒会長さまの有り難いお顔だ。きっと扉を開ける前に丁寧なノックをしたのだろうが、この轟音の中でそんな微音が聞こえるはずもない。

「部室棟の部員達から騒音に対しての苦情が出ている。この部室からすぐに楽器を持ち去りたまえ」凛とした態度で生徒会長は俺達に言い渡した。
「何言ってのよ、あんたにそんな権限なんかないわよ!」顔を膨れらせながらハルヒは大声で怒鳴り散らした。
 やっぱり分かっちゃいねえ、その権限がこいつにはあるんだよ。こいつは生徒会長さまなんだから。
「私が認めないことを、この学園内で行うことは許さない」
 威厳のある言葉には違いないし、誰が聞いても正論だが、それはハルヒの烈火に油を注ぐに充分だった。
「何言ってるのよ、この悪代官野郎! 認めないとはどういうことよ。このあたしがやることに文句付けるわけ」
 言わんこっちゃない。ハルヒは益々熱り立って今にも全宇宙を作り変えない勢いだ。
「ここでの練習は許可しない。明日中にこの楽器をここから全て運び出すように。もしそれが出来なければ、強制的に排除する」
 怖い物知らずというのはこういうことなのか。生徒会長さまは権限を十二分に行使し、ハルヒに向かって実に有り難いお言葉を掛けると、ニヤリと薄ら笑いを浮かべて、眼鏡をぐっと押し上げた。
 もしここで長門がいつかの文芸部廃止のような状況に追い込まれていたら、この威厳ぶる生徒会長程度をこの宇宙から消し去ることぐらい容易いことだ。皆の記憶からこいつの存在を消去して、最初からいなかったことにするか、または朝倉の時のように砂粒のような煌めく光に変えてしまうか。どちらにしても長門なら二桁の足し算を解くより簡単にやってのけるだろう。でもその感情を抑えているのが喜緑さんの視線にあったのは確かだ。喜緑さんはニコニコと微笑んでいるが、この二人の間には暗黙のルールが存在していて、長門の暴走を喜緑さんが抑えているように思えて仕方ない。
「もしも君達が文化祭の生徒会オーディションに受かれば、私も君達を止める必要はない。でも合格出来るかな。文化祭のステージに立ちたいという連中は君達以外に幾らでもいる。我々の審査は厳しいぞ」と、生徒会長は不敵な笑みを浮かべた。その心の内を明かすように、キラリと眼鏡が光ったような気がした。
「見てなさいよ。あたし達はあんたらのオーディションとやらを一番で通ってみせるから」
 両脇に手を付き、自信信満々の態度でハルヒは言い放った。
「さっきの演奏でかい? あんな物は音楽ではないただの騒音だ。まあせいぜい練習して我々を驚かせてくれたまえ。でもどこでやるかは知らんがね」
 捨て台詞を残して意気揚々とした後ろ姿を見せ、生徒会長さまは文芸部を後にした。閉じられた扉に黒い焦げ痕が付く程、ハルヒは怒った表情で扉を睨み付けている。
 こりゃ触らぬ神に祟りなしだ。俺が遠巻きにしているのが正解だろうと警戒していると、ハルヒの顔は百八十度回転して、その鬼神のような顔を俺に突き付けてきた。
「キョン! 何とかしなさい!」
 なんで俺だよ?
「何とかしろといっても・・・・・・」
「あんたの演奏が酷いからあんな奴に馬鹿にされるのよ。あんたがしっかりすればいいの」
 何という言い草だろう。確かに俺の演奏は酷い物だ。でもそれを命じたのはお前だろ。俺は喉元まで出掛かった言葉を飲み込んだ。こんなことをハルヒ相手に言ったところで、逆ギレされるに決まっている。今は大人しく罵声を受けるに限る。
 俺が大人しくハルヒの怒りに耐えていると、「もう!」と、ハルヒは机を両手で強く叩いて、部室を早足に出て行った。俺は助かったと安堵したのだが、そうじゃない奴が後ろから視線を投げ掛けていた。振り返ると、
「マズイですね・・・・・・」と、顎に手をやりながら古泉が眉間に皺を寄せていた。
「おい古泉、さっきの生徒会長の行動はお前が仕込んだんじゃないのか?」
 ハルヒがいなくなったのを見計らって俺は古泉に尋ねた。
「全く想定外でしたよ。彼がここに乗り込んでくるとは・・・・・・」
 想定外じゃないだろう。あんな騒音を撒き散らせていたんだ。いつかこうなることは誰でも想像出来るだろう。しかし古泉の弱った表情を見ていると、本当にこいつはそれを考えていなかったように思える。それじゃ誰の計画なんだ? 俺は長門の方を見た。
「私達の考えでもない。ただ喜緑江美里はこの状況を好意的な事例と受け取っている」いつも通りの長門の平坦な口調だった。
「それは朝倉涼子がやろうとしたように、ハルヒを刺激して出方を見るということか?」
「それに近いかも知れない」
「と、言うことは生徒会長を焚きつけたのは喜緑さんということですか?」珍しく古泉が長門に尋ねた。
「そうではない。会長が動いたのは文化棟の部員の不満によって。喜緑江美里はただそれを利用しているだけ」
「自然と状況が動き出したということですね」古泉は一人で納得している。おい、俺にも詳しく教えろよ。
「しかしこの件で涼宮さんの精神が不安定にならねばいいのですが、そうなると僕は今夜徹夜ですよ」
 それは大変だな、と言いかけて止めた。古泉は本当に不安そうな顔をしていたからだ。朝比奈さんも同様で、表情の動かない長門も多分同じかも知れない。この状況で俺だけ他人の様な振りをするのは憚れる。
「この状況を変えられるのは、あなただけなのですよ」
 古泉はその不安な顔を俺に向けてとんでもないことを口にした。お前は宇宙人や未来人より、ただの人間の俺にそんな任務を押し付けようとしているか?
「さっき涼宮さんはあなたに何とかしろと言いました。涼宮さんはあなたならこの困難を打破してもらえると期待しているのです」
「それは期待し過ぎてもんじゃないか」
「いいえ、涼宮さんはそう願っています。あなたには期待に応えていただかないと困るのです」
「そんなことを言われても俺には何の力もないぞ」俺には困惑し、否定する以外なかった。
「まずは練習場所を確保することです。明日中にここから楽器を運び出さないと、あの生徒会長のことです、間違いなく処分してしまうでしょう」
「なあ古泉、お前の機関とやらの組織は、タダで借りられるスタジオを持ってないのか?」
「そんな物の一つや二つ幾らでもあります。また新川や森をそこのオーナーにしてしまうこと位は簡単です」
「じゃそうしろよ」
「駄目なんです。そうすると僕が手を回したことが涼宮さんにバレてしまいます。あくまでもこの件はあなたが解決しなければならないんです」
「なんでそんなややここしいことになるんだ。お前が解決しようが、俺が何かをしようが、結果は同じだろう。それにあの生徒会長を選出したのはお前だろうが」俺は古泉に責任を押し付けようとした。
「確かにあの方を選んだのは僕です。それは素直に認めます。でも涼宮さんはこの状況をある意味楽しんでいるのです。涼宮さんはあなたの活躍に期待しているんですよ」
 こいつによるとこの状況は俺が何とかしないといけないらしい。でもなんでそういうことになるのか全く理解出来ないぞ。さてはこいつ、俺がジタバタして藻掻き苦しむのを見て楽しもうって魂胆か? そんな趣味がお前にはあったのか? 俺は責任を転化して爽やかな笑顔を取り戻した古泉の顔を苦々しく眺めた。
 どうすっかな・・・・・・。と、悩む俺の頭の中にある言葉が舞い降りてきた。
 ”生徒会とケンカするんだったらあたしも参加させとくれ!”
 それはいつか聞いた鶴屋さんの心強いお言葉だった。

 翌日俺は登校すると教室へ向かうより先に、朝比奈さんと鶴屋さんのクラスへ向かった。状況は朝比奈さんが前もって話してくれていたようで、練習場所の確保は滞りなく進んだ。
「練習場所なんか、ウチの空いてる土蔵の一つでも使えばいいよ。遂にSOS団も生徒会と対決する気になったか、よしよし良い傾向だ」と、鶴屋さんは生徒会長を今にでも叩き潰しそうなやる気のある雰囲気を全身に醸し出して、一人で嬉しそうに頷いている。これはマズイ、鶴屋家と生徒会の全面戦争だけは何がなんでも回避しなければ。多分俺の作り笑顔は相当引き攣っていたに違いない。
 鶴屋さんとの交渉が済んでから俺は教室に向かった。窓際最後部の席にはいつものように仏頂面したハルヒが既に座っている。俺は鞄を机に引っかけると椅子に腰掛け、顔を後ろへ向けるとハルヒに話し掛けた。
「練習場所は確保した」俺は自信満々の表情でハルヒに言った。
「は? 何言ってんのよ」ハルヒは不機嫌な顔を俺に向けて尋ねた。
「バンドの練習場所だ」
「そんなの部室でいいじゃない」
「お前は昨日の会長の話を聞いていなかったのか」
「勿論聞いてたわよ」
「なら部室が使えないのは分かっただろう」
「敵の要求を聞いていたら、戦う前に負けを認めたも同然よ」
 ハルヒらしい考え方だった。売られたケンカはハルヒのやり方で買う。それがこいつの論法だ。でも今回は説得をする必要があろう。生徒会長との戦いだけならハルヒの言うことにも従っても良い。しかし事の発端は我々が部室で騒音を撒き散らし、他の文化部に多大なる迷惑を掛けているからだ。他の部員の為にもここは部室棟から離れる必要がある。そうしないと今度は生徒会だけの問題では済まなくなるぞ。
 俺はハルヒを刺激しないように言葉を選びながら慎重に説得を試みた。あの部室棟は老朽化が進んでいて重低音を出すと建物が崩れるとか、音響特性が悪いからろくな練習にならないとか、苦し紛れに滅茶苦茶な理由を作った。
 ところがそんな俺の説得に対してハルヒは「いいわよ、あんたの考えなら任せるわ」と、意外なことに素直に応じてくれた。構えて必死になっていた俺は拍子抜けした。
「あたしねえ、昨夜あんまり寝付けなかったのよ・・・・・・」ハルヒはぽつりと呟くと、ぼんやりと窓の外へ視線を走らせた。
 嫌な予感がした・・・・・・。

 授業中のハルヒは気味が悪いほど静かだった。こいつは授業中一度はシャーペンで俺の背中を突っ付いてくるのだが、今日はそれすらなかった。振り向くとハルヒは机に伏っしてスヤスヤと寝息を立てている。一限目から六限目までずっと。しかし良く教師に見つからないものだ。こいつは身を消す魔術でも使っているのか? 本当に使っていたとしても俺は不思議に思わない。これまでこいつの普通じゃない力を身を持って体験してきたからな。でも俺には今こいつが静かに寝ているのが逆にとても不気味だった。ハルヒが大人しくしている時は、何か陰謀を画策している時か、力を溜め込んでいる時だと知っているからだ。
 放課後すぐにハルヒは朝比奈さんと一緒に鶴屋家の蔵の片付けに行ってしまった。部室の楽器運びは残った俺と古泉、長門の仕事になった。仕事内容はいつものクジ引きではなく、ハルヒが一方的にそう決めてしまった。裏にどんな魂胆があるのか知らないが、それは有る意味とても助かった。昨夜のことを二人から詳しく聞くことが出来たからだ。
「予想通り昨夜は徹夜でしたよ」古泉はウンザリしたような疲れ切った表情を浮かべた。
「昨夜、にい、さん、まる、ご(二十三時○五分)に、小規模な閉鎖空間の発生を確認」
 長門がいつもの窓際の定位置でパイプ椅子に座り、分厚いアメリカのミステリー小説を読みながら感情のない口調で言った。こいつはバンド練習がないと、いつもと変わらぬ風景に溶け込んでいる。最近ちょっと見なかった情景で、既に懐かしささえ覚えた。
「やはり長門さんも確認していたのですか」
 おいおい、お前らだけで盛り上がるな、俺も仲間に入れろ。俺はドラム用の丸椅子を引き出して座った。見ると古泉はギターアンプの上に腰掛けている。
「いえ、昨夜涼宮さんが閉鎖空間を発生させたんです。また僕は神人退治に狩り出されましたよ」
 俺の脳裏に古泉が赤い玉となって巨大な怪物に向かって飛んでいく姿が想起された。そりゃまあご苦労さんなこった。また高額のバイト代になったことだろう。何しろ世界を救うという、この上なくご立派な仕事だからな。俺がハルヒに小間使いされるのとはわけが違う。
「そんなことはありません。あなたは直接神と対峙しているのですから、僕のように神モドキ相手の仕事とは比較にならないですよ」
 褒められているのか、馬鹿にされているのか、良く分からない説明だ。まあどちらでも良いが、俺にもバイト料は認められないものかね。
「あなたさえ良ければ、歩合の良い仕事を紹介しますよ」
「ああ、その時は頼むよ。ところで古泉この楽器をお前どうやって鶴屋邸まで運ぶつもりだ?」
 俺は部室内の楽器に目を向けた。ギターにアンプ、ドラムセットまで含めれば結構な量になる。こんな物を長い坂道を下って電車に乗り、鶴屋邸まで徒歩で運ぶなんて不可能だ。しかしグズグズしていると昨日のように生徒会長が現れて、有無を言わず処分してしまうだろう。俺が不安がっているのに古泉は悠々をして微笑んでいる。やっぱり昨日の生徒会長の行動は、お前の仕業だったんじゃないか? そう疑いの目を向けていると、古泉のズボンに入れた携帯がバイブ音を響かせた。
「お、ちょっと失礼」古泉はポケットから携帯を取り出すと耳に押し付けて、何やら話しながら部室を出て行った。部室には俺と長門だけになった。長門は気にせずミステリー小説に視線を落としている。見ると原書だ。
「英語は理解出来るのか?」
 そう長門に尋ねてすぐ愚問であることに気が付いた。地球外の異星人語すら訳せる奴だ、こいつにとって日本語や英語、いやシュメール語であっても大した違いはないのだろう。当然のように長門は2ミリ程、顎を下げて頷いた。
「なあ長門、お前今もエラー情報が蓄積されているのか?」俺は気になっていたことを訊いてみた。
「以前程ではないが、確実に蓄積されている」
「そうか、もしおかしくなりそうなら出来るだけ早く教えてくれよ」
「可能であればそうする」
 そうしてくれと俺は心の中で呟いた。一人読書をする長門を見ていると、とても気の毒に思える。一人でハルヒの我が儘に付き合い、俺の命まで助けてくれ、多分俺の想像も付かないような大問題さえもこっそりと処理しているに違いない。小柄な女子高生が背負うには余りにも大き過ぎる任務をこいつは任されているのだ。
 また長門がトチ狂って情報思念体とやらに処分され、俺達の前から消えてしまったら、俺はきっと寂しくて堪らないだろうから・・・・・・。
「来ました、準備して下さい」古泉がそう言いながら部室に戻って来た。準備って何だ? 俺が不思議がっていると、良く街で見掛ける運送屋のユニホームを着た二人連れが部室に入ってきた。
「これを運べば良いんですか?」運送屋の一人が尋ねた。
 その顔を見て俺は驚いた。帽子のツバを深く被っているが、その顔には見覚えがある。
「圭一さん?」その人は多丸圭一さんだった。もう一人の男を見ると、それは多丸裕さんだった。
「お二人揃ってこんなところで何を?」
「いえ、昨夜古泉に連絡をもらいまして・・・・・・」圭一さんは言葉を濁すと作り笑いをした。それは気付かれたのがマズかったかのような表情で、それ以上俺は詮索しなかった。
 二人は本物の運送屋のように手慣れた手付きで、あっという間に楽器を部室から運び去っていった。部室の窓から外を見ると、渡り廊下に横付けされた2トントラックに楽器を手際良く積み込んでいく。あの二人は本当に運送屋なんじゃないか? そう思える程自然に見えた。
「さて我々も行きましょうか」古泉の言葉で、長門が分厚いミステリー本をパタンと音をさせて閉じた。そしてロボットのような足取りでロッカーに向かうと、大切そうに一つだけ空いたスペースに滑り込ませた。
 俺は部室に鍵を掛けた。文化祭が終わるまで放課後にこの部室を訪れることはないだろう。思えばSOS団を結成してからこの部室を訪れない日はなかった。俺達の憩いの場として、この部室はいつも存在していた。暫しの別れと思うと妙に寂しさが募る。ううん、ちょっと感傷的過ぎか・・・・・・。

 北高の校門に俺達三人が辿り着くと、絶妙なタイミングで黒塗りのタクシーが横付けされた。さては俺達を待っていたのか? 古泉がにこやかに右手を上げたところを見ると、どうもそうらしい。俺は開いた後ろのドアからまず長門を乗り込ませる。俺はその隣に座り、古泉は助手席に座った。ドアが閉じられて車が発車する。向かっている先は俺にも分かる、これは鶴屋邸だ。いつぞのタクシーの運ちゃんは鶴屋さんの名前を口にしただけで、俺と朝比奈さんを迷うことなく連れて行ってくれたが、この運転手には行き先さえ告げていない。
 どういうことだ、まさか長門が念波でも使って伝えたのか? 俺が不思議がってルームミラー越しに運転手の目を見ると、相手も俺を確認していた。交わった視線の目元に見覚えがある。ある時は料理のうまい別荘の執事。またある時はWRCレベルのスーパードライバー。そしてこのタクシーも《神人》狩り見学に初めて行った時に乗った車だ。
「新川・・・・・さん(荒川さん?)」俺は運転手にそう言った。
「お久し振りです」ルームミラー越しに新川さんは軽く微笑んだ。
「この前はとても助かりました」俺は新川さんに、お辞儀をして会釈した。
 新川さんとは朝比奈さん誘拐事件以来だ。この方も我々SOS団のサブキャラとして今や重要な位置を占めつつある。そこにさっき出会ったダブル多丸氏も含めても良いだろう。
「新川さんも古泉に呼び出されのですか?」
「いいえ、昨夜森さんから連絡をもらいました」
 森さんとは森園生さんのことか。あの方はやはり古泉や新川さんの上司なのか? 冗談交じりにそんな質問を投げ掛けていたら、いつになく古泉が慌てていたのでおかしかった。新川さんは適当にはぐらかして結局回答は得られなかったが・・・・・・。
 そんな話をしている内に何の妨害工作もなく、俺達を乗せた車は無事鶴屋邸に到着した。思い起こせばこのタクシーに乗る時はいつも物騒な事件が起こっていた。神人狩りや、朝比奈さんの誘拐犯とのカーチェイス。だからこうやって何事もなく到着するのが不思議な気がする。
 まあそんなに頻繁に事件が起こっていては堪らない。今日ぐらいは平穏に過ごさせてくれ。タクシーを降りた俺はそう願ったが、すぐにそれが過ちであることを知らされた。
「遅い!」焼き肉の注文を三時間も待たされている空腹のプロレスラーの様な鬼神の顔をしてハルヒは俺を怒鳴った。
「そ、そうか。すまん、急いで来たつもりだったんだが」余りの形相に俺は丁寧に謝ることしか出来なかった。
「あたしとみくるちゃんで掃除してたのよ。あんたが遅いからもう終わちゃったじゃない。でもまあいいわ、帰りの喫茶店はあんたの奢りだからね」
 また俺かよ・・・・・・。俺の落ち込んだ様子を見て古泉が耳元で「やはり歩合の良いアルバイトを紹介しましょうか?」と、囁いた。俺は掌を振って拒否した。
「そこ、無駄口禁止!」ハルヒが俺達を睨み付けて指差した。全くどこまで元気な奴だ。
 鶴屋邸の怖ろしく立派な造りの門を潜ると、ハルヒはまるで我が家のように軽快に歩き始めた。長門も遠慮なくそれに続く。古泉は運転席から顔を覗かせる新川さんと何やら話をしている。おい、おい、ハルヒに見られたらまた怒鳴られるぞ。
 冷や冷やしていると、すぐに新川さんは窓から手を差し出して振り、車を発車させた。新川さん、暫しのお別れですね。俺は頼りになるタクシードライバーに名残惜しそうに深くお辞儀をした。
 俺と古泉は広大な日本庭園に目を丸くしながら、早足で駆けてやっと玄関に辿り着いた。呼吸が荒くなる程の距離がある。広い家も良いが限度があるぞ。これじゃ毎朝新聞を取りに行くのも一仕事だ。もっとも鶴屋さんちはお手伝いさんが、新聞を部屋まで届けてくれるんだろうが・・・・・・。
 玄関から邸宅に入るものと思っていると、ハルヒは素通りしてまだ奥まで歩いていく。おいおい人の家だぞ、お前はどこまで行く気だ?
 焦る俺を尻目にハルヒは構わず歩いていく。朝比奈さんを匿ってもらった離れの前を通過して邸宅をほぼ一周する程歩くと、ようやく目の前に大きな土蔵が出現した。黒い平瓦、板張り、白い漆喰には鏝絵まで描かれている。
「この幽玄な佇まい、趣があるとはこれを指して言うのでしょう」古泉が感嘆している風に大袈裟に両手を開いて言ってみせた。
 古泉よ、その感情のない台詞、いつか聞いたことがあるぞ。
 土蔵の扉が開かれていて中を覗くと、我が家一軒分より遙かに広いスペースが出現した。中ではダブル多丸氏が部室から運んだ楽器を既に運び終えている。確か古泉は鶴屋家を”機関”のスポンサーの一つだと教えてくれた。そうするとこの二人も鶴屋さんとは顔見知りなんだろうか?
 土蔵の中で朝比奈さんと共に楽器に雑巾掛けをしていた鶴屋さんが、俺達に気付いて扉のところまで出てきてくれた。
「これはウチの房右衛門ちゃんが建てた土蔵だよっ」
 鶴屋房右衛門って、あのオーパーツの地図を残した鶴屋さんのご先祖さんのことか。確か元禄時代を生きた方だったはずだが、そうするとこの蔵は三百年以上前の建物になるぞ。これだけでもう国宝級じゃないのか。こんなところでバンドの練習なんかして本当に良いのだろうか? 俺は急に心配になってきた。
「大丈夫、大丈夫、気にしないっ」俺の気持ちを察して鶴屋さんは元気そうに笑った。
 土蔵の中は綺麗に片付いていて、中はすっかり空になっている。
「この蔵は狭いから、ハルにゃん達が来る前に別の蔵へ全部運び出してもらったよん」
 荷物を運び出してもらった? 俺が鶴屋さんにここを貸してもらえるように頼んだのは今朝だ。それから誰が運び出したのだ? お手伝いさんか? 俺は奥で楽器のセッティングを行う二人の運送屋の姿を見た。黙々と作業を続けているが、この二人が俺達の部室に現れる前に、前もってここの物を運び出していたというのか。
 バレンタインのお宝探しの時のように鶴屋家にはお宝が沢山残されている。もしそんな物がハルヒの目に触れることでもあったら練習どころではなくなってしまう。得体の知れない地図でも探し出せばこいつは練習など即刻中断して、宝探しを命じるだろう。それ以外にも、一千年前のチタニウム合金製の宇宙人の形をした土偶が出てこないとも限らない。この土蔵内にある余分な物を片付けてしまうことは正しい判断だろう。
 俺が古泉の方へ尋ねるように視線を投げると、奴は無言で俺を見て肩をすぼめ、手を広げニヤけてやがる、何て顔だ気持ち悪い。それが答えか? なら正解だな。
 ダブル多丸さんは仕事を終えると、伝票に鶴屋さんの受取署名なんかもらっている。どこまで芸が細かいんだ。おかしくて笑えてくるぞ。二人は蔵を出て行く時、古泉を一瞥した。古泉の顎が軽く下がり、互いが合図を送っているのが確認出来た。
「さあ、準備万端。そこの人練習を始めるわよ」ハルヒが扉の両脇で立っている俺達を指差した。
「この蔵の壁は50センチはあるから、どんなに大きい音を出しても外には洩れないからね。ガンガンやっちゃって」
 鶴屋さん、そんなにハルヒを盛り上げるような台詞は言わないで下さいよ。こいつはただでさえ時限爆弾なんですから。
「みんな聞いた。ガンガンいくわよ」
 ほら、益々その気になっちまいやがった・・・・・・。
「エアコンも、冷蔵庫もあるからね。好きに使っちゃって」
 築三百年の土蔵に穴を空けてエアコンが取り付けられている。それに大型冷蔵庫まで。何という用意周到さなんだろう。でも本当に大丈夫なのか、こんなことしちゃって?
 心配してても仕方がない。ウチの団長さまはもうやる気満々でギターを抱え、ピックを握った腕をグルグルと振り回している。
「じゃ頑張ってねっ」鶴屋さんは意味有げな不気味な笑みを浮かべながら、土蔵の分厚い扉を閉めた。
 あなたがそんな顔をすると、本当に何かありそうじゃないですか・・・・・・。
 俺の不安を助長するように土蔵の扉が重低音を響かせて閉じられた。閉じた瞬間、外の喧噪が見事なまでに消し去られ、この世にはこの五人しかいないのではないかと思えた。
「さあ早く準備について」皆をけしかけるようにハルヒが命令した。
 ハルヒの次の蛮声を聞く前に俺は大慌てでドラムの前に座った。古泉もまごまごしながら、ベースギターを肩に掛けている。
 ふと土蔵の中を見上げると、天井には巨大な装飾シャンデリアが吊されていた。中世風のガラス製シャンデリアは、不思議と古風な日本の土蔵に似合っている。生まれた時代が近いアンティーク物は、例え作られた国が違っていても相性が良さそうだ。きっとこのシャンデリアも謂われがあり、とんでもない値段の付くような代物なんだろうなあ。
「さあ行くわよ」
 ハルヒの号令と共に演奏が始まった。出だしの部分は長門の白いSGスタンダードモデルから奏でられる。エディ・ヴァンヘイレンばりのタッピングを駆使したギターテクニックは間近で見ると圧巻だ。本当にこいつは器用としかいいようがない。でも長門余り派手にやり過ぎるなよ。文化祭の後、よそのバンドから誘いが来ると、またややこしくなるからな。
 俺のドラムはただの8ビートを刻むのに必死で、とてもじゃないがリフを入れるなんて無理、付いていくのがやっとだ。隣の朝比奈さんは、譜面を見ながらコードを押さえるのに懸命で、演奏を楽しむなどという余裕は全然なさそうだ。
 その中でも古泉は縦横無尽に指先がフレットを行き来し、中々のベースラインを刻んでいる。その生カラオケをバックに歌うハルヒの声はいつもながら素晴らしい。こいつは歌手になりたいとは思わないのか? そうすればどこかのプロダクションにそのまま預けて面倒みてもらうのに・・・・・・。
 しかしこの音の良さはどうだろう。部室での練習では建物が軋み、壁に音が響きまくっていたが、ここでは土壁が音を吸収してくれて、建物はビクともしない。この音響特性はスタジオとして理想的かも知れない。
「まあまあね。でもキョンとみくるちゃんは全然駄目ね」
 演奏を評価するハルヒの言葉に、どんなきつい罰が与えられるのかと朝比奈さんはビクついている。怯える朝比奈さんの顔はとてもチャーミングだが、ハルヒのことだ本当に何を命じるか分からない。また酷い衣装でも着せようと言い出すんじゃないだろうなあ。
「みくるちゃん、明日までにちゃんと弾けるようになってきてね」
 まるで鳩を襲う寸前の猫のような形相でハルヒは朝比奈さんを睨んでいる。
「わ、分かりました。が、頑張ります」可愛そうに朝比奈さんは声を震わせながら答えた。
「明日までにちゃんと弾けないとTバック水着を着て演奏してもらうから」
 な、何、こいつなんてことを言うんだ。そりゃ一度はその格好の朝比奈さんも拝みたいものだが、そんなことをしたらこの気弱なお方のことだ、その場でショック死しかねない。
「キョンあんたもよ。二人揃ってTバックだからね!」
 こいつのセクハラ好きには付いていけない。それならお前が着ろと反論したら、こいつは喜んで着てしまいそうだから、文句を言うのは止めておこう。
「今日は引っ越しで疲れたから、これで解散。明日は本格的に練習するからね」
 ハルヒの一方的な散会宣言で、本日の練習は終了した。

 玄関でお礼を言ったハルヒに「もうみんな帰っちゃうのっ」と、鶴屋さんは名残惜しそうな顔をした。
「引っ越しで疲れましたので」ハルヒは珍しく窶れたような顔をした。こいつにも疲れるということがあったのか。
「それじゃ夕ご飯でも食べていってよっ」と、鶴屋さんは俺達を引き留めようとした。
 確かに鶴屋家の夕食にはとても興味がある。この方が普段一体どんな物を食しているのか見てみたい気がする。まさか長門のように特大レトルトカレーということはあるまい。
「皆どうする?」ハルヒが背後に張り付いている俺達に尋ねた。
「申し訳ない気がするから」と、朝比奈さんは早くここを立ち去りたい表情を浮かべている。
「何言ってのよ、みくる。我が家で遠慮はいらないよ。長門っちは一人だからどうせ家へ帰っても同じでしょう」
 見ると長門は本当に遠慮なくコクリと頷いている。
「じゃ戴いていきましょうか?」ハルヒが朝比奈さんと長門に同意を求めた。
 おい、おい、俺と古泉の都合は訊かないのか? どうせ訊かれても答えは決まっているけどな。
 鶴屋さんの後に付いていくと、日本庭園を見渡せる渡り廊下を通って広間へ案内された。映画撮影の時に通された、鶴屋さんの自室の和室の広さにも驚いたが、この広大さはどうだろう、まるで旅館の大宴会場並の日本間だ。中央には座卓が置かれ、座布団が敷いてあり、既に準備は整っていた。
「さあ気楽に座って待っててよっ」
 鶴屋さんはそう言うと、襖を引いて部屋の外に出て行った。俺達がどこに座ろうかと考えていると、自然と奥からハルヒ、長門、朝比奈さん、向かいに古泉と俺が座った。何か部室の席と同じような気もするが、結局これが一番落ち着く席順なんだな。
 名のある掛け軸と、生け花のある床の間。数寄屋造りの慣れない日本間で正座しながら身体を持て余していると、襖がすっと開いて絣の着物を着た品の良さそうな女中さんが二人、料理を運んできた。お客をもてなすように畳に頭を付けてお辞儀をする様子は、高級料亭の趣きがする。益々恐縮してしまう。
 目の前に次々と並べられる料理は圧巻だ。海老、蟹、鮑、和牛のステーキ等、会席料理のフルコースで、器一つとっても織部や志野等名のある焼き物ばかり。余りの豪華さにハルヒも目を丸くしている。でもこんな物を鶴屋さんは毎日食しているのだろうか?
 何から手を付ければいいんだと、料理の前で迷っていると、長門が殻も剥かず伊勢海老を頭からバリバリと音をさせて囓っている。おいおい誰か喰い方を教えてやれよ。
「どう美味しい?」ニコニコしながら鶴屋さんが部屋に戻ってきた。座卓の上に並べられた料理を見て「何これ? 若い衆ばかりだからボリュームのある物にしてって言っておいたのに、これじゃ昨日の親父の晩飯と変わらないじゃん」と、不服そうな顔をした。そして「換えようか?」と、耳を疑うようなことを仰った。
 さすがのハルヒも恐れ多くて「いえ、いえ、これで充分です」と、断っていた。
「そう、それじゃ明日は洋食にしておくよっ」
 え、明日もあるの? 喜ぶべきだが、これを口にする前に恐怖の練習があることを考えると、嬉しいような怖いような、複雑な心境になってくる。
 伊勢海老の刺身を抓んで口に運ぶ、新鮮さを伝えるコリコリとした歯ごたえが堪らない。鮑も同じで、こんな旨い刺身を初めて喰った。多分今後も口にすることはあるまい。本当にどの料理も美味過ぎる。こんなもんを毎日食べていたら、外で飯を食べられなくなるんじゃないか。
 今日のハルヒは妙に上品で、背筋をスッと伸ばして少しずつ料理を口に運んでいる。長門が蟹の足を殻ごとかぶりつきそうになったのをハルヒは制止し、長門に身の取り出し方を伝授し始めた。長門は小さな子供のようにまごつきながらも、無言でハルヒの手元を見て真似をしている。朝比奈さんは実に手慣れた手付きで蟹の身を解している。この様子なら未来にもまだ甲殻類は存在しているようだ。
 美味しい物を食べると幸せになれるというのは本当だ。今はひとときの幸せを満喫しよう。こんな優雅な時間を過ごせることは、これから先余りないだろうから。