今日から放課後SOS団のメンバーが集合する場所は部室ではなく鶴屋邸になった。学校から鶴屋邸までは一駅あるので、俺はハルヒと長門と共に下校し電車に乗る。これが朝比奈さんと一緒なら小躍りしたい気分だが、相手がハルヒとなると気分がトーンダウンする。
 当然だが朝比奈さんは鶴屋さんと一緒に下校していた。古泉はどうしているか知らないが、奴のことだから要領良く、機関専用タクシーでも手配しているのだろう。
「あんた、浮かない顔してるわね」
 モヤモヤした気分で学校前の坂道を下る俺の心中を悟ったのかハルヒが訊いてきた。
「いやそんなことない」俺は適当にはぐらかした。
「あんた有希と二人だけで帰りたいの?」
 ハルヒは俺達の後を無言で付いてくる長門の方を振り返り、一瞥した。
 出来ればその方が何倍も良い。でもそんなことをここで言えるわけないだろう。後で何十倍にもなって返ってくること位俺にでも分かるからな。
「ところでキョン、あんたちゃんと練習してきた?」
「ああ、雑誌を叩いて練習したさ。でも余り期待しないでくれよ。俺は生まれつきリズム感悪いんだからな」
「そんなことは分かっているわよ。だから努力するのよ」
 不満顔のハルヒとはその後も余り語らずに電車に乗った。俺とハルヒが並んで吊革を持って突っ立っている前の席に長門は座りながら、相変わらず分厚い本を読んでいる。こいつは僅かな時間でも座ると読書せずにいられないようだ。それが長門の癖なんだろうが、授業中は一体どうしているんだ? 疑問が湧く。一度長門と同じクラスになって観察してみたい気がする。
 電車を降りて郊外へ向かって歩くと、昨年の今頃朝比奈さんを放り込んだ薄汚い池が見えてきた。あのお方のことだから、ここを通る度にそれを思い出して、恐怖と寒さに震えるのだろう。酷いトラウマになっていないといいが・・・・・・。
 緩やかな坂道を登っていくと、昨日見た立派な門構えが近づいてくる。その前でこれまた見覚えのある顔が微笑んで、手を振っている。あんなわざとらしい爽やかな笑顔を振りまくのは古泉一樹以外あり得ない。あいつはやはり機関タクシーを利用していたらしく、疲れた様子一つ見せていない。
「やっぱり遠いわね。明日からはタクシーを使いましょう。古泉くんも入れれば一人頭は電車賃よりも安く済むかも知れないわ」
 ハルヒも坂道を登るのに疲れたらしく、古泉の顔を見るとそう言った。
「待ったか?」爽やかな笑みを絶やさない古泉に訊いてみた。
「いいえ、僕も今来たばかりですから」当たり障りのない答えが返ってきた。
 ハルヒを先頭に三人で鶴屋邸の門を潜る。門に鍵すら掛かっていないのは物騒な気がしたが、きっと邸の隅々まで監視出来る防犯カメラが、あちこちに仕込まれているのだろう。
 昨日通った土蔵までの道程を歩いていると、日本庭園が見渡せる縁側に鶴屋さんと朝比奈さんが仲良く腰掛けて、コーヒーなどを嗜んでいる姿が見えた。その前で俺達も立ち止まり、庭園の方を振り向くと、沈む夕陽に手入れされた形の良い松の木が、錦鯉の泳ぐ池に長い影を落としていた。
 ここから眺める庭は格別だ。起伏のある小山に植えられた庭木や庭石の数々、その間を緩やかに流れ落ちる滝の音の心地良さ。バンド練習など止めて、俺もこの縁側で朝比奈さんの淹れてくれたお茶を飲みながら優雅な時を過ごしたい。でもそれが叶わないことは俺自身が一番良く分かっているけれどな。
「みくるちゃん、お茶なんか飲んでる余裕あるの。ちゃんと練習してきた?」
 閻魔大王の嫌みな言葉が響き、朝比奈さんがビクッと跳ね上がる。ほらこの女がいる限り、俺達に安らかな時を過ごすことは許されないのだ。
「ハルにゃん達もコーヒー飲んでく?」
「そうしたいんですが、練習の時間がなくなりますので」
 鶴屋さんの有り難い申し出をハルヒはあっさりと断り、朝比奈さんの手首をぎゅっと握った。可愛そうに朝比奈さんは怯えた子犬のような顔をしている。
「じゃ、頑張ってね。夜ご飯準備して待ってるからっ」
 鶴屋さんは重々しい足取りで去りゆく俺達を、顔に笑みを滲ませながら手を振った。

 俺達が土蔵に入ると、ハルヒが分厚い扉を大きな音をさせて閉じた。今からハルヒの独裁的な苛めが始まると思うと、生きた心地がしない。朝比奈さんなんか既に血の気が退いている。
 この蔵の中じゃどんなに凄惨な行為が行われても、叫び声は外には全く聞こない。その間も長門はずっと無口なままだろうし、古泉は傍観者を決め付けるに違いない。
 結局この中で朝比奈さんを守れるのは俺しかいない。それが分かっているのか、朝比奈さんが縋るような憂いのある目で俺を見つめている。それを喜んで良いのか? 負担と考えた方が良いのか? でも安心して下さい、朝比奈さん。死ぬ時は一緒ですよ。
 黙々とそれぞれが準備を始めている。嵐の前の静けさというのが実に相応しい雰囲気だ。長門はギターチューナーなど使わずに耳だけで音を合わせているし、古泉は真剣にチューナーの針に合わせてペグを回して調律している。朝比奈さんは何をして良いのか分からない様子でただオドオドしている。
 俺はというとただドラムセットの前に座って皆を眺めていること位しか出来ない。こんなところで轟音のようなドラムの音を出したら、間違いなくハルヒにドヤされる。分かっていることは慎むのが正しい。何もしないでもこれから罵声を受けるのは確実なのだから。
「さあみんな準備はいい?」
 そういうハルヒ、お前は準備出来ているのか? 音合わせなど何もしていないじゃないか。俺の心配などお構いなく、ハルヒは俺達を見張れるようにマイクの方向を変えた。こいつと向き合いながら演奏するのは気が引ける。可愛そうに朝比奈さんなんか蛇に睨まれたカエル状態で、額から冷や汗を滲ませているぞ。
「それじゃ始めるわよ。キョン、カウント!」
 やれやれ、気は進まないが言われた通り俺はスティックを三回打ってから、ドラムでリズムを刻み始めた。目の覚めるような長門のギターはまるでCDを再生するように全く同じ演奏だ。ピッキングハーモニクスの音色さえいつも同じ音を出すんだから、こいつは有機生命体ロボットであることをここでも証明している。
 古泉はポール・マッカートニーばりの歌うベースラインを弾き続ける。昨日より指が走っているようだ。さては昨夜はしっかり練習したきたな。
 朝比奈さんは昨日とちっとも変わらない。コードも間違えるし、キーボードの音色のチェンジなんかトチってばかりだ。こりゃTバック確定だな。
 かくなる俺も相変わらず8ビートを淡々と叩き続けるのみ。それ以外は無理、絶対に無理。リズムをキープするだけで精一杯。これで俺もTバック決定か・・・・・・。
 何とか最初の演奏が終わった。その出来はハルヒの今にも噴火しそうな表情をみれば誰の目にも分かる。こりゃ大量の溶岩を捲き散らして大爆発するのは時間の問題だ。やべ・・・・・・。
「もう一回やる」
 ハルヒが苛立ちを抑えているのは良く分かる。以前のこいつならとっくに怒鳴り散らしていたはずだが、最近は少しだけ耐えるということを学んだようだ。それでも結局最後には爆発するのだから結果は同じだ。要は早いか遅いかしかない。
 二度目の演奏が終わってやはりハルヒは爆発した。どちらかというと変に耐えているより、こちらの方がずっとこいつらしい。
「こら、キョン! あんた本当に練習してきたの?」ハルヒは俺を指差して叱り飛ばした。
 はい、はい、やっぱり最初は俺ですか?
「言った通り、雑誌を叩いて練習したさ」俺はあっさりと答えた。
「雑誌なんかじゃなくて、本物で練習しなさい!」
 ハルヒは口を尖らせて怒っているが、俺は「出来てたらやってるさ」と、開き直った。大体こんなでかい物を毎日家へ持って帰れるかよ。それにこんな楽器は家じゃ叩けないだろう。
「やりなさい!」予想通りハルヒは大噴火を起こし、顔を真っ赤にしながら烈火の如く怒鳴った。
「滅茶言うなよ。それならさっさと俺を諦めてリズムボックスでも使ったらどうだ」
 良い提案だと自分でも思った。俺がそう言った途端、ハルヒは口をぽっかり開いたまま固まった。何だお前もそれが良いとやっと気付いたのか?
「うん、もう!」ハルヒは苦虫を噛んだような顔して怒りを堪えて、
「みくるちゃん、あなたそれで練習してきたの!」と、矛先を朝比奈さんに向けた。
 朝比奈さんは”ひい”っと言ったきり顔を引き攣らせて震え出した。マズイぞ、ハルヒのことだ無理矢理スカートを剥ぎ取ってTバックを穿かすに違いない。これは何とか阻止せねば・・・・・・。
「おい、ハルヒ。俺と朝比奈さんは、お前や長門みたいに練習なしに演奏出来る程器用じゃないんだぞ」俺は無駄と分かりながらも抵抗を試みた。
「あんたって人は分かってないのね」何かハルヒの目が据わっている。
「でもそうだろう」
「あんたは知らないだけよ」
 俺もこの一年半で随分ハルヒのことを学んだつもりだ。でもまだ知らないことが他にあるのか? まさか家へ帰ってから、首の後ろのソケットにコネクターをかまして、データをインストールしてるなんてことはないよな。長門ならやりそうだが、さすがにハルヒもそこまでは出来まい。
「あたしはねえ、人の見てないところで頑張っているのよ。楽器は小さい頃から習ってたし、運動も毎日走って身体を鍛えて、そうやって一生懸命努力して積み重ねてきたの。だから練習なしで演奏なんて出来るわけないのよ」
 努力だとか、一生懸命という言葉程、ハルヒに似合わない物はない。それにこいつは都合が悪くなったら自分の好きな世界へ作り変えられるんじゃないのか?
「まあいいわ。ねえ有希、みくるちゃんに少し教えてあげてもらえる」
「分かった」
 素直に長門は頷くと、肩からギターを降ろして朝比奈さんのところへやって来た。長門が苦手な朝比奈さんは尚もビクついている。大丈夫ですよ。長門はあなたに危害は加えませんって、俺が保証します。
「こうやって弾く」長門はそう言うと、音色をピアノに切り換えた。そして無表情に突っ立ったまま鍵盤を弾き始めた。側で見ているとまるでロボットみたいだが、ハルヒの書いた曲に、ショパンのピアノコンチェルトのようなアレンジがなされ、長門の左右の指が主旋律と伴奏を奏でて、信じられない程滑らかに鍵盤の上を走っていく。感情の籠もった壮麗な演奏に、聞いている俺達は身も心も引き込まれていく。

 何なんだ。この美しい旋律は・・・・・・。俺は聞き惚れた。そして感動した。

 ちょっと待て長門。そんなの譜面のどこにも書いてないぞ。ひょっとしてこれはお前が自分の意志で弾いているのか? お前に人の心を揺さぶるようなことが出来るか? それって感情のある人間じゃないと無理なことじゃないのか?
 朝比奈さんの練習には全く役に立たない高名なピアニストにも匹敵する名演奏だった。弾き終わった後、あのハルヒでさえ感動で言葉が出てこない程だ。まさか中河の時のように、俺達も情報統合思念体の中の叡智と膨大な知識を見て、茫然自失しているだけなのか? 違う、俺には分かる。これは長門自身の感情が俺達を感動させたんだ。
「さすが有希ね。楽器なら何でも万能だわ」
 長門の演奏を聴いた後のハルヒはさっきの苛立った様子はどこへやら、穏健な表情になっている。どうも長門が音楽を使ってハルヒの昂ぶる気持ちを沈静化したようだ。 
 長門は何事もなかったように音色を元のストリングスに戻して、朝比奈さんが弾くパートを演奏し始めた。それも正確だが、今聞いた魔法のような旋律とは比較にならない。朝比奈さんは頷きながら長門の指運びをオドオドしながら真似ている。
「あああたし歌い疲れたから水分補給するわ」と、ハルヒが冷蔵庫を開けて俺達から目を離した隙に、長門は朝比奈さんの右手を取って手首に噛みついた。
 ”ひええ・・・・・・”突然のことで朝比奈さんは恐怖の悲鳴を上げることも出来ない。見ていた俺も驚いたさ。でもその光景には見覚えがある。長門がナノ何とかを注入する時に行う仕草だ。今も何か変な物質を朝比奈さんの体内に注入したのだろう。でも本当に身体は大丈夫か? これまでにも朝比奈さんは相当色々な物を注入されているぞ。
 ハルヒは全然気付かない様子で、冷蔵庫の前でペットボトル入りのスポーツドリンクをゴクゴク飲んでいる。半分ほど飲み干すと、冷蔵庫にペットボトルを戻した。
「さて練習始めるわよ」ハルヒはあっという間に元気回復だ。あのスポーツドリンクにも長門のナノ何とかが入っているのか? こりゃ売り出せば大ヒット間違いなしだぜ。
 三回目の演奏で奇跡が起こった。俺のドラムは相変わらずだが、朝比奈さんのキーボードは全く遅れず、ミスをせず、完璧な演奏をして見せた。何がどうなったのか俺には分からないが、長門に噛みつかれた後、朝比奈さんは別人のように演奏が巧くなった。
「いや、みくるちゃん凄いじゃない」
「あ、ありがとうございます」
 満点の笑顔で褒めるハルヒに対して、朝比奈さんの顔からは戸惑いが消えず、落ち着きもない。朝比奈さん、もっと喜んで良いんですよ。ハルヒが人を褒めるなんてことは滅多にないんですから。
「後はキョンだけね」やっぱり最後は俺かよ。
 ハルヒが再び冷蔵庫のスポーツドリンクを飲んでいる時、俺達は朝比奈さんの周りに集まった。何が起こっているのかを知る良いチャンスだ。
「何だか分かりませんが、音に合わせて指が勝手に動くんです」朝比奈さんは声を潜めながら奇怪な魔法に掛かったように怯えている。
「朝比奈みくるの体表面に、音圧を生体量子波に変換し、電子回路に作用させる物質を発生させた。効果は94時間」
 俺がまた得体の知れない物を注入したもんだと心配していると、古泉は「なるほどそれで音に合わせて指が動くわけですね」と、感心して頷いている。そして、
「それは直接電子回路にのみ効果があるんですか?」と、尋ねた。
「そう」長門は答えた。
「なあ長門、物は相談だが、朝比奈さんに注入した物質を俺にも入れてくれないか」俺は長門の耳元で囁き頼んだ。
「それは無理ですよ。長門さんの注入した物質は電子回路にのみ作用する物で、アコースティック楽器のドラムには効果がありません」と、古泉は説明してくれたが、俺が訊いているのは長門なんだ。こいつならドラムにも効果のある、ナノ何とかを持っているかも知れないだろう。
「ない」長門は愛想のないさっぱりした回答をしてくれた。おいおい、もうちょっと考えてくれよ。
「指先だけで演奏するキーボードは動きが少ないが、ドラムは動作が大き過ぎる。力場の存在を涼宮ハルヒに知られる可能性がある」
 長門にしては分かりやすい説明だな。確かにそうだ。変な物を使っているとハルヒが気付くかも知れないって、おいおい、今までも相当滅茶苦茶なことをして来たじゃないか。あいつはそれでも全然気が付いていないんだぞ。
「そこ、無駄口しない」と、俺はハルヒに叱られた。
 はいはい、分かりました、黙りますよ。
 長門の音楽療法が余程効いたのか、その後の練習中のハルヒは上機嫌だった。俺のドラムだけはまだまだだが・・・・・・。
「今日の練習はこれぐらいにしましょう」
 三時間は練習をしただろうか。下手なドラムでもこれだけ叩くとヘトヘトで身体のあちこちが痛い。ハルヒも相当の声量で歌っていたはずなのに、声が枯れるどころか元気一杯だ。あいつの飲んでいたスポーツドリンクには、長門印のナノパワーが絶対に入っているに違いない。俺も明日は一度飲んでみるとしよう。
「さあ、それじゃみんなで一緒に晩ご飯にしましょう」嬉しそうにハルヒは笑顔で言った。
 お前の目的はやっぱそっちか・・・・・・。

 今夜の鶴屋邸の晩ご飯も豪勢だった。昨夜の会席料理と違い、今日は肉料理だった。目の前に焼かれたばかりの分厚いステーキが置かれて、湯気と肉の香ばしい臭いが立ち昇っている。この時間になると腹が減って仕方がない。
「今日は神戸牛のステーキにしてもらったよん。私もみんなと一緒に食べたいから今日は晩ご飯我慢していたよ」大島紬の和服姿の鶴屋さんはご機嫌そうだ。
 スープとサラダ、ご飯などがずらりと並び、見ているだけで腹の虫が激しく蠢く。早く抑えてやらないと口から飛び出しそうだ。
「いただきます!」皆で合唱して手を合わせると、空腹を堪えてきた胃袋に高級な神戸牛を放り込む。うまい! 俺の脳があらん限りの声で絶叫する。こんな柔らく、ジューシーな肉を食べるのは生まれて初めてだ。
 俺が感動しながら正面に座る長門を見ると、肉を食べずにサラダをフォークでつついて口に運んでいる。
「長門お前ステーキ食べないのか?」俺は不思議がって訊いてみた。
「食べない」
「は?」こんな旨い物を喰わないとは俄に信じられない。
「あれ、長門っちは肉駄目だったけ?」
 鶴屋さんの問いに長門は素直に頷いた。
「それじゃ何が良いんだ?」長門に好物なんかあるんだろうか? 俺は妙な興味が湧いてきた。
「ニンニクラーメン、チャーシュー抜き」
 何だそりゃ? そんな物がこの極上ステーキより良いのか? さすが、対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェースだ。嗜好が分からん。
「分かったよん。すぐに作ってもらうから待っててね」
 鶴屋さんは容易そうに言うと、襖を開けて女中さんを呼んだ。女中さんが飛んできて、鶴屋さんの注文を頷きながら聞いている。
 そんな物がすぐに出来る物かねと、俺が疑問に思っていると、本当にあっという間に長門御用達のニンニンクラーメンチャーシュ抜きが運ばれてきた。ここはラーメン屋だったのか? 一瞬頭が混乱した。
「それじゃ有希のはいらないわね」と、団長さまが長門のステーキ皿をかっ取って、ガツガツと食べ出した。
 ステーキを奪われた長門はというと、運ばれてきたラーメンの麺をちまちまと啜っている。そんなにのんびりと食べてるとスープが冷めて、麺が伸びちまうぞ。
「今日のみくるちゃんには驚いたわ。あんなに上手に演奏出来るんだから、あなたはやれば出来る子なのよね」
 ハルヒが朝比奈さんが褒めることなど滅多にないので、朝比奈さんはどんな顔をしていいのか弱っている。長門に変な魔法を掛けられて手に入れた能力だ。戸惑うのも無理はない。
「それに引き換え、キョンときたら最低ね」
 やっぱりそう来るわけか・・・・・・。でも俺には長門の魔法は効かないらしいから仕方ないさ。
「キョン、今夜はしっかり練習してくるのよ」そう言うと、ハルヒは長門から取り上げたステーキを口に放り込んだ。
 はいはい、分かりましたよ、団長さま。

 星空の下、SOS団一行が鶴屋邸から駅までの緩やかな坂道を歩いていく。腹一杯になり、幸せを全身に感じる。先頭を切って朝比奈さんと並んで歩くハルヒも満足そうだ。
「今夜は僕のアルバイトも休めそうです」古泉が俺に言った。
「そうか。そりゃ良かったな」
「でも問題はあなたのドラムですよ」
「そんなことを言っても下手なのは仕方ないだろう」
「それでは困るんです。涼宮さんの機嫌もそう長くは続きませんよ。いずれあなたのドラムに切れて爆発するでしょう」
「爆発しても仕方ないさ。その時はお前の出番だろう」
「開き直られても困ります。あなたのドラムの腕が世界を救うんですから、もっと自覚を持って練習をしていただかないと困ります」
「もう無理だ。諦めてくれ」
「そう簡単に言わないで下さい」
「あなたはベースなら演奏出来る」後ろを歩く長門が突然妙なことを言い出した。俺と古泉は振り返った。長門は真っ直ぐに俺達を見ている。
 はい、長門さん。あなたは一体何を言っておられるのですか? 俺は目を点にして長門を見つめた。こいつの目には、俺の顔に?マークが幾つも浮かんでいるのが見えただろう。
「あなたはチエロの演奏が出来るから、少し練習をすればベースの演奏も出来る」
 長門の言うことはさっぱり分からない。何で俺がチエロの演奏が出来るんだ。そんな物に俺は触れたことすらないんだぞ。
「良い考えかも知れません」古泉が顎に指先を触れて考え込むような仕草をしてそう言った。
「おいおい、簡単に言うなよ」
「長門さんがそう仰られるんです。一度僕とパートを代えてみましょうか?」古泉が提案した。
「俺は別に良いが、古泉お前はドラムを叩けるのか?」
「さあ、やったことはありませんが、我々の組織にはプロのドラマーもいますので、特訓してもらいますよ。大変ですが、そうしないと世界が終わってしまうんですから、仕方ありません」やれやれという表情を古泉は浮かべた。
 長門が俺にベースを弾けと言うんだ。まあそれも悪くはないだろう。どうせ今のままじゃどれだけ練習しても先は見えているからな。でもそれは明日考えることにして、今夜くらいはゆっくりと休ませてもらうよ。