今日も放課後SOS団はバンド練習の為に鶴屋邸に向かう。昨日と少々違うのは、俺とハルヒ、長門のメンバーの中に古泉が含まれていることだ。校門を出ようとしていた俺達を校門前で古泉が呼び止めた。
 奴は要領良く機関タクシーで先に鶴屋邸に向かっていたと思っていたのだが、俺達を待っていた。古泉は昨日のハルヒの「明日からはタクシーを使いましょう」という言葉をしっかりと覚えていたのだ。
 古泉が右手を上げると、タイミング良く黒塗りタクシーが俺達の前に停車した。こんな坂の上の辺鄙な学校に都合良くタクシーが現れるか? と思っていると、やはり見覚えのある車だった。こりゃ”新川タクシー”だ。俺は古泉を一瞥した。おいおいハルヒが新川さんに気付くとマズイんじゃないか?
 でも来てしまった物は仕方がない。古泉が無言で大丈夫と言わんばかりに乗車を勧める。降車するまでハルヒが気付かないことを祈って乗ることにしよう。ハルヒが運転席の後ろで、真ん中が長門、俺は一番左だ。古泉はこの前と同じように助手席に座った。
 走り出したタクシーの中で、ハルヒは「さすが古泉くん副団長のだけのことはあるわ」と、褒め称えて上機嫌だった。まるでVIPのように待つことなくタクシーが横付けされたのが余程嬉しかったようだ。お陰でハルヒは運転手の新川さんに気付くことなく、古泉は副団長としての評価を更に上げた。これでまた俺とは大差が付いてしまったよ。まあいいけどな。
 鶴屋邸に到着するとすぐに、土蔵に籠もってバンド練習が開始された。相変わらず長門のリードギターは冴えまくり、古泉のベースも確かだ。朝比奈さんは昨日長門から妙な物質を注入されてから指が勝手に動き、見事な伴奏を奏でている。
 その三人に引き換え、俺のドラムはリズムが乱れ、皆が日に日に上達していく中で、上手くなるどころか下手になっているように思える。自分で感じるんだから絶対に間違いない。そんなこと自慢していても仕方ないけどね。
 俺達と向き合って歌うハルヒの視線も俺にのみ注がれている。朝比奈さんの愛の視線なら喜んでお受けするが、ハルヒよ、余りこちらばかり見るんじゃない。ただでさえ緊張しているのに、益々身体が強張ってくるじゃないか。
 ハルヒの表情が苛ついているのが分かる。俺はその突き刺すような視線を痛いほど感じるが、今は無視する以外の術がない。ハルヒの顔が爆発する寸前の活火山のように険しくなってきた。こりゃもうまともにドラムを叩く状況じゃないぞ。背中を脂汗が滴り落ちる。誰か何とかしてくれ、俺は心の中で絶叫した。
 遂に我慢の域を越えたハルヒは「止め! 止め!」と、怒鳴って俺達の演奏を止めさせた。これで古泉の今夜のアルバイトは決定だ。仲介料を少しは寄こせよ。
「キョン! あんた本気で練習するつもりあるの」ハルヒが前へ歩み出ると憤然とした顔で俺を睨み付けた。やばい、こりゃマジで怒っているぞ。
 本気で練習するつもりはありありだ。でも人間には才能を越えることが出来ないのも確かなんだぜ。俺には元々ドラムの才能はないんだよと、言い訳を言うと、
「それは昨日も聞いた」と、ハルヒは益々怒気に満ちた顔で俺のネクタイを掴んだ。
 おい長門、助けてくれと、横目で合図を送ると、
 長門は無表情な黒い双眸で俺をただじっと見ている。駄目じゃん。
 おい古泉、何とかしろと、奴に視線を向けると、
 何かを考えるように顎に指を乗せて目を閉じている。おい、日光の猿じゃないんだから、目ぐらい開けてろよ。それともアルバイト決定でもう諦めているのか。
 朝比奈さんは・・・・・・と、期待せずに流し目すると、
 自分も叱られるのではと、慄然としている。思った通りこりゃ駄目だ。
 と、俺は役に立たないのか、わざと避けているのか分からない仲間に見切りを付けて、ハルヒの顔に視線を向けた。
「何目が泳いでいるのよ」ハルヒは俺の顔に益々近づき、睨みを利かす。
「いや、その・・・・・・」こいつに気持ちを見透かさせられると焦るしかない。
「キョンあんたねえ、ドラムの大切さが分かってるの?」
 不満やるかたない鋭利なハルヒの視線が俺を貫く。分かっているって、俺だって下手糞なドラムの曲なんか聞きたくないからなあ。
「分かってんなら、どうして練習してこないの」言い訳を許さない脅しの口調だ。
 俺は昨日の長門と古泉との会話を話してみた。長門が俺にはベースが向いているといった意見だ。未だ俺には何故俺がチエロを弾けるのか理解出来ないが、長門がそういうのなら、それは尊重する必要があると思う。何故なら長門の助言程頼もしい物はないし、確実だからだ。
 古泉もそうなれば自分がドラムを担当することはやぶさかではないと言っている。そうなれば今更俺が不得意な楽器を練習するまでもないだろうと、自分の都合を最優先にしてハルヒに話してやった。
「人のせいにしない!」ピシャリとハルヒが言い返し、ネクタイを横に放り投げた。
 思った通りのリアクションだった。こんな言い訳がこいつに通用しないことは一年半付き合ってきた俺が一番良く分かっている。でもこの状況下ではそう言わざる得ないところが辛い。
「今日はせっかくバンド名も考えてきたのに何よ」ハルヒは憮然とした顔付きをした。
「バンド名?」何だそれは? 
「聞きたい?」勿体ぶって言うハルヒの顔が近づく。
 聞きたいって、お前の顔には”既に聞きなさい!”と書いてあるぞ。例え拒否をして耳栓をしたところで、お前なら外科手術をして俺の脳みそに一生消えない入れ墨をしてしまうんだろう。そうなるのは堪らんから、この耳でしっかり聞いてやるよ。
「スナック(SNAK)よ」声高々、ハルヒは誇らしげに宣言した。
 SOS団の名前を聞いた時以上の衝撃だった。笑うというより呆れた。どうも我が団長は命名に関しての才能は欠落しているようだ。
「何なんだ、その菓子みたいな冴えん名前は、バンド名とは到底思えん」俺が馬鹿にすると、
「涼宮のS,長門のN、朝比奈のA、そして古泉のKでSNAKよ」と解説しやがった。
 適当に団員のイニシャルを繋いだだけのバンド名だ。そこでもやっぱりお前のが一番頭に来るんだな。でも俺には妙な違和感があった。それが何かと分かるのに三秒もあれば充分だ。おいお前、俺のイニシャルはどこに入っているんだ。
「あんたの名前・・・・・・?」ハルヒは何か問題でもあったのかと言いたげに首を傾げると、しばらく考え、思い付いたように「ああそうだったわね。取りあえずKの隅に入れておくわ」と、さも面倒臭そうに言ってくれた。
 Kの隅って、俺って申し訳程度の存在ですか・・・・・・。それにキョンのKって俺の名字じゃないし! 何か腑に落ちない気もするが諦めた方が良さそうだ。俺が皆と比べて半人前以下なのは、疑いのない事実なのだから。
「もうそんなことはどうでも良いのよ。ねえキョン、文化祭まで十日ないのよ。こんな状態であんたどうするつもり? まともに一曲も演奏出来てないのよ」ハルヒは不満を露わにして額に皺を作り、再び俺に詰め寄った。
 ハルヒの焦りが俺にジンジン伝わる。間違いなくこのバンド最大の欠点は俺だ。俺にハルヒの要求する演奏が出来れば全ては解決する。そうすればあのいけ好かない生徒会長の鼻を明かせられる。何よりもそれをハルヒが一番望んでいる。
 ハルヒお前の気持ちは良く分かる。出来れば俺もあの生徒会長をギャフンと言わせてやりたい。でもなあ悲しいことに今の俺にはこれが限界なんだ。お前のように非凡な才能は俺にはないんだよ。
「まあ、まあ、涼宮さん。一度彼にベースを演奏させるのも悪くないと思いますよ」
 と、期せずして俺達の間に割り込んできたのは古泉だった。過去ほとんど傍観を決め込んでいた奴が、助け船を出すとは予想外だった。古泉もこのまま放っておくと、世界が一直線に破滅に向かうと悟ったようだ。
「でも時間がないわ。大丈夫なの?」
 ハルヒの顔に珍しく不安の色が滲んで見える。でも意外だった、この自信満々なハルヒが動揺するとはね。
「ベースに関してなら僕が彼に手ほどきをすれば良いわけで、ドラムに関しては僕が練習すればいいだけです」
 やけに自信有げに言うじゃないか。格好良いぞ古泉。
「でも大丈夫? キョンは物覚えが悪いから古泉くん苦労するわよ」
 何という言い草だ。自分でも自覚しているだけに人に言われると妙に腹が立つ。
「分かってます。僕もその辺りは心得ていますから」
 おいおい古泉、お前それどういう意味だ。
「そうねえ、古泉くんがそういうなら任せたわ」
 ハルヒは他に何か言いたげな表情を抑えて、素直に古泉の提案に乗った。俺が説明しても相手にしないのに、こいつの言うことならこんなにもあっさりと応じるのかよ。どうも気に入らん。
「それじゃ今日はこれ以上練習しても仕方がないわね。晩ご飯にでもする?」
 こいつは喰うことしか考えていないのか。それに俺達が練習を早く切り上げても、そう都合良く晩飯の用意が出来ているわけないだろう。少しは相手のことを考えろよ。
「確かにそうね。あたし鶴屋さんところに行ってくるから、それまでみんなは自習よ。真面目にしないと死刑だからね」
 ハルヒが鶴屋さんのところへ何をしに行くのか知らないが、まさか食事の手伝いということはあるまい。例えそんなことをしても、どうせつまみ食いばかりで迷惑になるに違いない。どうせならここでじっとしていて欲しかったが、その願いも空しく、ハルヒは鼻歌を口ずさみ、スキップしながら蔵を出て行ってしまった。
 ハルヒの後ろ姿を見送り、土蔵の扉が閉じられると俺は長嘆息をした。恥ずかしながら今日は古泉に助けられた。後で礼を言うぞ。
「マズイですね」
 俺が安堵していると、隣で古泉が困り顔をして頭を掻いた。
「何故だ? お前のお陰でハルヒも元気一杯で飯の準備に行ったじゃないか」
「あなたは本当にそう思いますか?」
 そうに決まっているじゃないか。それ以外あり得ん。お前は心配し過ぎるんだよ。
「そうですね。確かに僕は心配性かも知れません。でもこんな能力を身に付けてしまったからには、そうならざる得ないんですよ」
 まあハルヒがフラストレーションを溜め込んで閉鎖空間とやらが発生したら、夜中に叩き起こされるのは古泉だからなあ。それだけに毎晩冷や冷やしているんだろう。それを考えると気の毒な気もする。俺が例の件以降、長門の感情に敏感になっているのと同様に、こいつはハルヒの感情変化に過敏に反応してしまうのだろう。
「それじゃ何が不安なんだ?」俺は単刀直入に尋ねた。
「考えて見て下さい。今まで涼宮さんが僕達を残して練習を放棄したことがありますか」
「腹が減っただけじゃないのか。あいつは大食漢だからなあ」
「いえ、ああ見えても涼宮さんは常識の分かる方です。お腹が減った位で練習を放棄はしません。我慢するはずです」
 そうかよ。それじゃ昼休みに俺の弁当を勝手に喰っちまうのは常識かね。俺はそうは思わんぞ。空の弁当箱だけ押し付けられてみろよ。虚しいぞ。
「それはあなたと涼宮さんとの信頼関係の上に成り立っている行為です」
「おいおい、都合の悪い時だけ信頼関係はないだろう」俺は少々憤慨していた。
「涼宮さんはあなたの弁当なら食べても、あなたは許してくれると思っているのです。他の人の弁当には絶対に手を付けないはずです」
 そうかい良く分かったよ。でも食い物の恨みは後々怖いぞ。
「涼宮さんはあなたがドラムからベースに変更して、本当に巧く演奏が出来るのか不安なんですよ」
「あいつがそんな心配をするとは思えんな」
「いえ、怖くて仕方がないんだと思います。だからここから逃げ出したんです」
「あいつに怖い物があるとは信じられん」
「涼宮さんは思ったより繊細な人なんですよ。その繊細さを隠す為にああやって強がっているのかも知れません」
「お前の分析は大したもんだよ。ハルヒ専属の精神科医にでもなればいい」
 皮肉を言ったつもりだったが、古泉は表情すら変えずに、
「だからあなたには何があってもミスのない演奏をしていただかないと困るんです」と、また俺に振ってきた。
「それよりお前、自分のドラムは大丈夫なのか?」
「僕には優れた教師がいるので、別に心配はしていません」
「大した自信だな。この中で一番度胸が据わっているのは古泉、お前かも知れないぞ」
「それは光栄ですね」古泉はいつものニヤけた顔で白い歯を覗かせた。
 それから俺は古泉からベースギターとやらを渡してもらい、初めてそれを演奏することになった。サンバースト・カラーのフェンダー・プレシジョン・ベース、ずっしりとした重さがある。でも何故か手にした瞬間に妙な懐かしさを覚えるのは何故だ。何なんだろうこの感覚は、これが既視感って奴か?
「頼みますよ。あなたの演奏に世界の未来が掛かっているのですから」
 古泉はまた大袈裟なことを言い、俺にベースギターを教えてくれた。こうやって最初からレクチャーしてもらえると実に助かる。良くは分からないが、フレットの位置一つひとつに音程が付いている。それを覚えることから始める。そうするとコードが変わった時に素早く移動が出来るらしい。
「12フレットまでの音を一弦目から全部覚えて下さい。12フレット目からはそれの繰り返しになりますから」
 古泉に一曲分のコードの位置を教えてもらったが、そう簡単に覚えられるものではない。十二音×四弦分で四十八音もあるんだ、凡人の俺がそんな物全部覚えられるものか。見かねた古泉が鞄からノートを取り出して一枚破ると、そこに線を引き、音を記入していく。すらすらと書いていくところをみると、こいつは全部暗記しているようだ。古泉は書き終わると、譜面立ての上にノートの切れ端を置いた。
「E・F・F#・G・G#・A・A#・B・C・C#・D・D#の順で、十二フレット目からからは同じです。しっかりと覚えて下さいね」
 古泉は真剣な眼差しで俺を教育しようとする。学校の授業中なら居眠りをしたくなるはずだが、今回ばかりは俺も本気にならざる得ない。
 譜面とにらめっこで、たどたどしくルート音だけを弾いていく。それぐらいなら何とか覚えられそうだ。しばらく練習してから一度一曲を通しで弾いて見ることにした。ハルヒがいないので、ボーカルのメロディを長門がギターで弾き、ドラムの音はキーボードに付いているドラムマシンを使う。朝比奈さんはそれに合わせてストリングスの伴奏を奏でていく。本人が意識せずに指が動くなんて本当に羨ましい。
 俺は頼りなく一音ずつ丁寧に弦を爪弾いた。ルート音だけだが何とか一曲最後まで演奏が出来た。思った以上に出来るじゃん俺。初めて九九を覚えられた小学生のような喜びが湧いてくる。でもベースギターは右手の指で弦をはじいて音を出すので、しばらく弾いていると指先が痛くて堪らない。押さえる左の指先も徐々に痛みを感じ出す。両指にジンとした痛みを感じながら演奏を続けた。
「しばらくすると指の皮が剥けて強くなってきます。それまで毎日練習して下さい」
 古泉は簡単に言ってくれる。でもこいつもこの苦行を同じように耐えてきたんだ。それを考えると奴を見る目も少し変わってきた。よし頑張ってやるぞ。こんなこともSOS団にいなければ出来ない経験なんだから。
 時間を忘れて練習に没頭した。ドラムをやっていた時には味わえなかった充実感を感じる。あなたはチエロをやっていたからベースが弾ける。そう長門が言っていたのが本当のように思えた。
「凄い、ちゃんと練習してる」
 蔵の扉を開けたハルヒが俺達を見て驚嘆の声を上げた。お前だろ練習しないと死刑だと言ったのは・・・・・・。腕時計を見ると、ハルヒが出て行ってからもう二時間も過ぎていた。こんなにも長い時間、真剣に練習をしていたとは我ながら驚きだ。
「晩ご飯の準備が出来たわよ!」ハルヒは笑顔で目を輝かせて叫んだ。
 早々に練習を打ち上げて後始末をする。今日はソフトケースに収めたベースギターを俺が背負って帰ることになった。演奏を忘れないように今夜は自宅で自主練習だ。
 今日も日本庭園の間を抜けて、鶴屋家の日本間へ向かう。部屋に入り、テーブルの上一杯に並べられた料理の数々に度肝を抜かされた。鯛や平目の活きづくり、鮪や鰹の刺身の盛り合わせ。伊勢海老や鮑の刺身、松茸の釜飯等々。こりゃ一流旅館も真っ青な豪華料理だ。
「昨日有希が肉食べられないって言っていたから、今日はお魚にしてもらったの」ハルヒは料理を指差して言い、皆を席に着くように促した。
 いつもの席順で座っても何から手を付ければ良いのか迷う。そう思っていると鶴屋さんが襖を開けて部屋に入ってきた。今日は白い絣の着物を羽織っている。この人の雰囲気から和服はとても良く似合う。こんな高校生はそういるもんじゃない。
「今日の料理は、ほとんどハルにゃんが作ったんだよん」
 俺の箸が宙で止まった。朝比奈さんなんか目と口を開いたまま固まっている。多分長門の漆黒の瞳の奥もショートしているだろう。
 この料理をハルヒが作っただと、見れば見るほど信じられん。鯛も平目もまだ口をパクパクさせているし、伊勢海老の刺身の盛りつけ方なんかプロとしか思えん。
「いやウチの料理長も余りの手際の良さに目を丸くしていたもんねっ」
 ハルヒは鶴屋さんの褒め言葉に手を左右に振って否定しようとしている。
「ハルにゃんは生け簀から取り出した鯛を一発で絞めちゃったもんね。素人はなかなか出来ないよっ」
 料理長がいて、生け簀のある家もどうかと思うけれども、鶴屋さんの興奮振りからもハルヒは相当凄い腕前を見せつけたようだ。俺の脳裏にはハルヒが板前よろしく、鯛や平目を包丁を使って見事に捌く姿が浮かんだ。
「さあ早く食べてあげてよっ」
 鶴屋さんに勧められ、俺は鯛の活き作りを抓んで、わさび醤油に浸すと口に運んだ。弾力のある食感が素晴らしい。思わず”旨い”と叫んでしまった程だ。
「ハルにゃん、良いお嫁さんになれそうだよっ」
 恥ずかしそうに俯くハルヒと、対称的に微笑みながら俺を見る鶴屋さん。何か意味でもあるんですか? 思わずそう尋ねたくなった。でも言葉少なげに恥ずかしがるハルヒなんて、滅多に見られない貴重な物を見たような気がする。
 ハルヒが作ったという料理は本当に旨かった。味付け、盛りつけまで、これなら金を取って十分商売が出来るレベルだ。
 涼宮ハルヒというのは本当に大した奴で、何をやってもそつ無くこなしてしまう。でも何でこんな逸材が得体の知れない団なんか結成しているんだろうね。しかし俺にはハルヒに天賦の才能を与えた奴が悪いと思える。これじゃ全く才能の無駄遣いだ。
 皆が散々食い散らかした後、鶴屋さんが締めのデザートを頼みに行っている間に、俺はトイレを借りることにした。一人部屋を出てトイレへ向かう。このトイレも男女別々になっていて、便器も複数ある。用を足しながら、ここは一体どこの料亭だっけ? と完全に錯覚に陥ってしまった。
 トイレを出て渡り廊下を歩いていると、部屋の前に戻って来た鶴屋さんと鉢合わせした。鶴屋さんは思わせ振りな顔をして俺の手を取り、日本庭園の方を向かせた。俺は鶴屋さんと並んでじっと庭を眺めた。何でこんなことしているんだろう? この寂寥感が妙に気になる。
「キョンくん、ハルにゃんちょっと悩んでるみたいだにょろ」落ち着いた口調で鶴屋さんが言った。
 ハルヒが悩んでいるって?
「あたしには分かるんだっ。今日も厨房へ入ってくるなり、無言で黙々と料理を作っていたからねっ。ハルにゃんの言葉少ない時は、不安が募っている証だよ」
 古泉と同じようなことを鶴屋さんも仰った。俺にはそんな風に全然見えないんですが。
「キョンくん、このバンド演奏絶対に成功させるんだよ。あたしそれまでうんと協力すっからさっ」何という心強いお言葉だろう。鶴屋さんの加勢は千人力に匹敵する。
「ありがとうございます」俺は素直にお礼を言った。
「いいって、でもキョンくん忘れたら駄目だにょろ。君の肩に人類の未来が掛かっているんだからねっ」この愛すべき先輩は天真な笑みでそう言った。
 でも鶴屋さん、人類の未来は俺の肩には重過ぎるんですが・・・・・・。俺はそう思わずにはいられなかった。
 笑顔を取り戻した鶴屋さんと一緒に俺は部屋へ入った。席に着いて、悩んでいるというハルヒの方へ視線をやった。確かにいつもより言葉少なげで、何か憂慮しているように見えなくもない。もっとも鶴屋さんにああ言われたから、そう見えるだけかも知れないが・・・・・・。
 運ばれてきたデザートのメロンと、バニラアイスを食べている邪気のないハルヒの笑顔を見ていると、やはり気のせいだと思えてきた。

 夜も更けてから俺達は鶴屋邸を後にした。駅までの緩やかな下り坂をハルヒと朝比奈さんが先頭を歩いている。その後ろはベースギターを背負った俺と古泉だ。一番後ろを黙々と長門が付いてくる。これがここ数日の俺達の集団帰宅風景だ。
 肌寒くなった秋夜の中、ハルヒは朝比奈さんと他愛のないお喋りを続け、その後ろの三人は見えない不安感に苛まれている。まるでいつ発生するか知れない大地震に怯え続けているように。
「お前は今でもハルヒが怖がっていると思っているのか?」俺は古泉に尋ねた。
「ええ、その気持ちは変わっていませんよ」表情はどこまでも爽やかさを保っているが、古泉の目は笑っていなかった。
「俺にはそんな風に見えないがな」
 俺は鶴屋さんの言った、ハルヒが悩んでいるという言葉を思い出し、頭の中で反芻していた。
「あなたは自分がどうして生まれてきたのとか、自分の存在意義といったことを知りたいとは思いませんか?」古泉が急にとんでもないことを訊いてきた。
「やけに小難しい質問だな」
 いきなりこんな哲学的な質問を受けて簡単に答えられる訳がない。もし答えられる人間がいれば逆に訊きたいぐらいだ。でもこの質問の意図は一体なんだ? 俺の頭の出来でも調査しているつもりなのか?
「僕は知りたいと思います。何故自分が三年前こんな能力が身に付いたのか? そして今何故この愉快な仲間達と共に過ごしているのか。全てに何らかの理由があるような気がしてならないんです」
 古泉はそう言うと、そっと夜空の星に視線を向けた。「そしてこの世界が一つである理由もありません」と、付け加えた。
 まるで宇宙の真理でも知っているかのような口振りだ。俺は以前古泉が人間原理という言葉を引き合いに出した時のことを思い出した。あの時は新興宗教の誘い文句のような話で、俺は即座に否定した。だが今のこいつの台詞は、ハルヒがこの不安から複数の世界を大宇宙に作り出そうとしているかのようにも聞こえる。
 もしそうだとしたら、俺達の住んでいる世界以外の世界が宇宙に点在し、その中にはあの閉鎖空間と完全に入れ換わってしまった物もあるのではないかと、俺はふと考えた。《神人》とやらが闊歩して全てを破壊し続け、人々が逃げまどう恐怖の世界が・・・・・・。
 そう思うと夜空を見上げずにはいられない。この宇宙の中で俺達の住む世界はずっとまともなのかも知れない。今夜はやけに星が沢山見えるような気がした。