第三新東京市の地下空間ジオフロント内にあるネルフの司令本部は、今日も穏やかな空気が流れている。
 日向マコトは、本部中央作戦司令部作戦局のオペレーターとして働いている。上司は相も変わらず葛城ミサトで、階級も二尉から昇級していない。でも昇級の為に試験を受けるつもりは毛頭ない。彼にとって昇級することで、親しみあるこの部署を離れることになる方がずっと辛い。
 丸眼鏡の視界の先にミサトが赤木リツコと立ち話をしている様子が見てとれる。それもいつもの見慣れた光景だ。自分はあの人達と共にずっとここで働いて来た。出来ればこれからも一緒にいたいと望んでいる。
 いつ発生するとも限らない緊急事態を監視しているだけで、マコトの一日は過ぎていく。そんな日々ももう三年を過ぎた。誰もがこの退屈な時間に慣れ、緊張感を失いつつあった。
 使徒との戦い、あの頃は毎日が非常事態だった。いつ死ぬかも知れない雰囲気の中で皆が殺気立っていた。懐かしむことはあるが、絶対に戻りたくはない。出来ればこんな平穏な日々が永遠に続いて欲しいとマコトは願っていた。
 マコトの席の上に置かれているコンピューター・ディスプレイに変化が現れた。眼鏡越しの彼の目が、その異変に気付いたのは数秒後だった。レーダーの中に赤い点が現れ、徐々に大きくなっていく。それは久しく見ていない動きだ。
 まさか・・・・・・。マコトの身体が熱くなり、鼓動が高鳴る。
「芦ノ湖北、未確認移動物体発生!」反射的にマコトは叫んだ。
「何?」立ち話を止めたミサトがマコトの方を振り向いた。
「巨大な物体が移動しています」
「波長パターンを確認して!」素早くミサトが指示を出す。
「パターンはオレンジです。使徒ではありません」MAGIシステムより発せられる、情報をマコトが読み上げる。
「移動物体を捕捉しました。正面メインモニターに映像を転送します」
 伊吹マヤがコンピューターコンソールを操作すると、正面の巨大なモニターに物体の姿が映し出された。内部から青白く光る、人型のノッペリとした巨大な生物。高さは100メートルはあるだろうか。透明なゴムやゼリーのような柔らかさで輪郭さえはっきりしない。
「こ、これは・・・・・・」映像の生き物を見た瞬間、ミサトの顔が凍り付き言葉を失った。
「神人だわ。何故何の前触れもなく突然現れるの?」リツコは狼狽して、声を震わせた。
「すぐに全域に非常事態警報を発令して! 住民の避難を最優先に行うように」
 ミサトが指示を出すと、ネルフ司令本部に非常事態警報が発令された。コントロールルーム内に響き渡る警報音に隊員達が殺気立つ。
 碇ゲンドウが、司令室でモニターに映る神人の姿を、組んだ両手を顔の前にしたまま無言で見つめている。
「遂に現れたな」冬月コウゾウがゲンドウの耳元で囁いた。
 ゲンドウは頷くだけで、画面から全然目を離さない。驚く様子さえ見せず、この事態が前もって分かっていたかのように冷静な表情をしている。
「目標が本部方向へ移動してきます!」マコトの声が部屋に響く。
「マズイ!」ミサトが叫んだ。

『本日東海地方を中心とした関東中部全域に特別非常事態警報が発令されました。住人の方々は速やかに指定のシェルターに避難して下さい』
 第三新東京市の至る所で、街中に備え付けられた拡声器から避難を促すアナウンスが響き渡っている。街行く人達が皆足を止めてアナウンスに耳を傾け、非常事態を確認すると、平穏だった世界が急に慌ただしくなった。
 人々の顔から血の毛が伏せ、何千もの人々がシェルターの入口を探して右往左往している。一瞬でパニック状態となり、車は路上に乗り捨てられ、逃げるのに精一杯だ。足が縺れて倒れた老人の上を人が構わず踏みつけていく。親とはぐれた子供の泣き声が響く。まるで地獄絵図のような状況が展開されている。
 地上に立ち並ぶビル群がジオフロントの地下空間へと沈み込んでいく。第三新東京市の高層ビルは緊急時に備えて、地下へ格納される構造になっている。ジオフロント側から見ると、天井からビルが吊り下がっているように見える。
 緊急出動した戦略自衛隊の二機の戦闘用ヘリコプターが上空に現れ、神人に向けて数発のミサイルを発射した。巨大な神人に命中させるのは容易く、猛烈な爆発が起こって神人が炎に包まれた。この破壊力の中で生きられる生物などいないはずのに、炎が消えると神人はかすり傷一つ負わず歩き続けている。
 神人は立ち止まり、機銃攻撃をするヘリに向けて長い腕を突き出した。一機のヘリに拳がまともに当たり、バラバラに砕け散っていく。振り回した腕が別のヘリを真っ二つにへし折る。あっという間に二機のヘリコプターは破壊されて落下し、爆発炎上した。
 第三新東京市への侵入を阻止する為に、山腹に楯のように一列並んだ二十台のMLRSと呼ばれる車両式ロケット発射装置から、大量のロケット弾が神人へ向けて一斉に発射された。次々とロケット弾が神人に命中し、凄まじい閃光と爆風、爆音、硝煙で周りは何も見えなくなった。
 一瞬の静寂の後、煙の中から神人は巨大な姿を現すと、MLRSを踏み潰してなぎ倒していく。破壊されたMLRSが轟音を上げて爆発するが、その炎など全く介せず神人は前進していく。どれだけ強力な火器を使用しようとも、神人は攻撃を楽しむかのように全身で受け止め、僅かのダメージさえも与えることが出来ない。
「戦略自衛隊の馬鹿どもが、まだ通常兵器で倒せると思っているのか」
 顔の前で両手を組んだ碇ゲンドウが、モニターに映し出される戦闘を見ながら、呆れたように呟いた。
 戦略自衛隊は最強の戦略兵器であるN2地雷の使用に踏み切った。神人の進行方向に地雷を設置していく。「避難!」のかけ声と共に、自衛隊員が装甲車やジープに飛び乗り、峠道を猛スピードで駆け下りていく。
 山向こうに神人の姿が現れ、その姿が見る間に近づいてくる。N2地雷の設置位置に差し掛かった時、地雷が炸裂した。目を背ける閃光と、大地震のような地響きと、辺りの木々をなぎ倒す凄まじい爆風の後、空には巨大なキノコ雲が立ち昇った。
 地下深くに設置されているネルフ本部の司令室まで大きな揺れを感じ、隊員が机の下に逃げ込む。「あいつら限度を知らんのか」呆れたようにマコトが呟いた。
 まさに核爆弾が投下された時と酷似する程の破壊力に、戦略自衛隊の誰もが神人は殲滅された物と疑わなかった。しかし神人はキノコ雲の中から傷一つない状態で悠々と現れ、新東京市へ向けて歩み始めた。
 遂に神人が都心に到達した。ジオフロント内に収納されない建物の前に立ち止まり、長く大きな腕を掲げると振り降ろした。凄まじい轟音と地響きと共にビルが崩れ落ち、コンクリートや鉄筋の瓦礫がアスファルトの路上に降り注ぐ。路上の車は押し潰され、道路が陥没する。微細なコンクリート粉が煙幕のように漂って上空を覆い隠し、辺りを見渡すことが出来ない。すっと砂煙が消えていくと、目の前の風景として存在していたビル群が切り取られて、そこに灰色の空が広がっていた。
 神人の動きはスローのように見えるが、それは巨大な大きさの為にそう感じるだけで、実際の動きは早い。大きな質量を持った腕は、振り降ろすだけでも凄まじい力を発揮し、建物など一瞬で破壊する。
 神人は狂ったように腕を振り回してビルを破壊し続けている。残骸さえも何度も踏み潰し、破壊行為その物が目的ではないかと思える程、激しく暴れ回っている。
 戦略自衛隊のロケット弾が神人に命中し爆発した。今や通常兵器の攻撃は虚しささえ感じさせる。

 真っ赤なボディのエヴァンゲリオン弐号機が格納庫の中に聳え立ち、エントリープラグ内には既に赤色のプラグスーツを着込んだアスカが待機している。
「ようやくあたしの出番がやってきたわ」顔を赤らめながらアスカは興奮を抑えきれない。
 ”馬鹿シンジや優等生なんかいなくても、あたし一人であんな奴は倒せるわ。あたしとエヴァ弐号機の力を思い知らせてやるわよ”アスカの決意は強く、神人との対決に胸を躍らせた。
『アスカ、聞こえる?』インターフェイス・ヘッドセットを介してミサトの声が聞こえてくる。
「ええ、いつでも発進OKよ。久々の実戦に腕が鳴るわ」
『アスカ、余り力まないで。今度の相手は今までと違って巨大よ』待ちきれずに気が急くアスカを宥めるようにミサトは言った。
「力むなって言われても無理よ。この日を首を長くして待っていたんだから、相手が強い方が倒し甲斐があるってもんよ」今まで意気消沈していたのが嘘のようにアスカは高揚し、目を輝かせた。
 エヴァンゲリオンの格納庫では、弐号機の起動の為に隊員達が忙しげに準備を進めている。長い期間無かった突然の出動に皆戸惑っているが、毎日の訓練のお陰で作業は迅速かつ確実に進められていく。
『フライホイール停止、補助電圧に問題なし』女性のアナウンスが司令部内に反響している。
「停止信号プラグ排出終了」マヤが答える。
「了解、エントリープラグ挿入」ミサトが指示を出す。
「脊髄連動システムを解放。接続準備。インテリア固定終了」
「LCL注入」
 エントリープラグ内にLCLというオレンジ色の液体が注水されていく。LCLは直接肺に酸素を送ることが出来る特殊な液体なので、パイロットが窒息をすることはない。
 LCLが注入されると、アスカの乗ったエントリープラグがエヴァンゲリオンの延髄位置から回転しながら挿入されていく。挿入が完了するとアスカとエヴァのシンクロ状態がマヤのコンピューターモニター上に表示された。
「シンクロ率53.6%です。ハーモニクス全て正常です」
「問題はないわね」リツコが言った。
「はい」マヤが返事をする。
「発進準備!」ミサトの声が司令室内に轟く。
『第1ボルト外せ』怒声のような男の声がスピーカーから聞こえた。
『アンビカルブリッジ移動開始』別の若い男の声が聞こえる。
 エヴァの正面を覆っていたブリッジが前方へ移動し始める。
『第2ブロックボルト外せ』
『第一、第二拘束具を除去』
『第一番から十五番までの安全装置解除』
 指令と共にエヴァの暴走を抑える為の拘束具や安全装置が次々と解錠されていく。
『エヴァンゲリオン弐号機、射出口へ』
 全ての安全装置が外されて身軽になったエヴァンゲリオン弐号機がローダーに乗ったまま射出口へ向けてレールの上を移動していく。そして射出ターミナルに到着するとローダーが停止した。
「進路全てクリアです」マヤが答えた。
 コンピューター画面が全てOK信号を発している。発進準備が予定通り完了したことをミサトは確認した。
「発進!」ミサトが号令を出した。
 射出通路をエヴァを乗せた射出台がリニアレールの上を滑り、1000メートルの深さからメインシャフトを猛スピードで地上へ向かって駆け上がっていく。地上の分厚い解放扉が十字型に開き、そこからエヴァンゲリオン弐号機が姿を現して急停止した。
「最終安全装置解除、エヴァンゲリオン弐号機リフトオフ」ミサトの指示でエヴァは完全に起動した。
 地上に出てアスカが目にしたのは、無惨に破壊された街と、完膚無きまでに叩き潰された戦略自衛隊の兵器だった。ここまで破壊しながらも神人はまだ手を休めていない。
「さあかかって来なさいよ」アスカは気合いを入れるようにエヴァの左右の操縦桿を握った。緊張からか手首が細かく震えている。
「パイロットの血圧、心拍数共増大しています」マヤがアスカの身体データ値を見て報告する。
「強がっていても結構ビビってるじゃん」ミサトは思わず苦笑した。
 エヴァンゲリオンが神人に近づくと、神人の巨大な姿がアスカの肉眼で確認出来るようになった。エヴァの機体の二倍以上の高さがある。益々アスカの手の震えが大きくなる。
『アスカ、大きさに怯えないで。ATフィールドを展開したら、まずパレットライフルで中心部を攻撃して、敵の出方を窺うわ』指示をするミサトの声が頭に響く。
「分かったわ」アスカはそう答えると「アスカいくわよ・・・・・・」と、勇気付けるように小声で自らに呟いた。
 エヴァンゲリオンの隣から兵装ビルが立ち上がりシャッターが開くと、中にパレットライフルが収まっている。アスカはそれを手にすると、神人に向かって狙いを定めながら歩き始めた。
「一発で仕留めるわよ」
 スクリーン上のターゲットマークを神人の胸元に合わせる。距離は3564mを示している。引き金を引くと、火焔と爆音、衝撃が伝わり、劣化ウラン弾が発射された。弾が真っ直ぐに神人の胸元に飛び、命中して爆発した。
「命中!」アスカの弾んだ声が響く。
 濛々とした硝煙が消えると、全く損傷を受けずに破壊を続ける神人の姿が見えた。
「何で! ATフィールドを中和してあるはずなのに?」完璧に仕留めたと思ったのに、神人には何のダメージも与えられていない。アスカは愕然とした。
「信じられない、劣化ウラン弾で傷一つ付かないなんて」ミサトも驚愕の声を上げた。そして気持ちを落ち着かせると「アスカ聞いてる? 接近戦に持ち込むから、準備は良い」と、尋ねた。
「勿論よ」
「アンビリカルケーブルを切り離して内蔵電源で接近、プログレッシブ・ナイフでコアを破壊して殲滅。それで良い」
「分かったわ」
 エヴァから電源コネクターが切り離され、轟音を立てながら地面に落下する。同時に内部電源タイマーが作動し、活動限界までの時間をカウントダウンし始めた。
「五分ね。充分な時間だわ」アスカは不敵な笑みを浮かべた。
 エヴァが猛スピードで駆け出した。砂塵を巻き上げて、あっという間に神人に近づくと急停車し、その巨大な全身を見上げる。エヴァの機体が足程の大きさしかない。覆い被さるように神人はエヴァを見下ろした。
 アスカはエヴァの肩からプログレッシブ・ナイフを取り出すと右手に装填し、「うりゃ!」と、大声を上げてエヴァを思い切りジャンプさせた。少しでも神人の身体に近い部分を斬りつけたかったからだ。
 エヴァは神人の肩近くまで飛び上がり、そのままプログレッシブ・ナイフを突き立てた。その瞬間巨木のような神人の太い右腕が横へ振り出され、その凄まじい反力をまともに受けたエヴァの機体は数百メートルも吹き飛ばされた。
 弧を描いて宙に舞ったエヴァはビルの上に背中から落下した。ビル一棟を粉々に破壊する程大きなダメージを受けたエヴァは、仰向けに倒れたまましばらく立ち上がることが出来ない。
「うう、格好悪い・・・・・・」アスカは背中に感じる痛みに呻き声を上げた。活動限界までの時間が迫っている。早く起き上がらなければ・・・・・・。
 アスカはエヴァを俯せにして両手を使い、身体を震わせながら瓦礫を振り払うと、起き上がった。次はあんな不意打ちを受けたりしない。アスカは気持ちを切り換えて神人の背中側へエヴァの位置を移動させると、再度駆け出した。
 ”今度は殺る”アスカは強い決意と共にエヴァをジャンプさせ、神人の背中へ向けてプログレッシブ・ナイフを突き付けた。しかし物を突き刺す感覚が何もしない。
「何、これ?」予想だにしなかった状況にアスカは戸惑った。
 そこに物のある感触が全くなく、まるでカゴのないエレベーターシャフトの暗黒の空間へ真っ直ぐに落ちていくようだった。
「いやああ・・・・・・!」何も出来ないまま、アスカは断末魔のような叫び声を上げ、どこまでも続く暗闇の中へと吸い込まれていった。
「エヴァンゲリオン弐号機消失しました!」マコトが叫んだ。
「消失?」言葉の意味が分からず、ミサトは首を傾げた。
「神人の中に取り込まれました」
「どういうこと?」
「エヴァからの信号も全て途絶えました」マヤが振り返って答えた。
「以前これと同じことがあったわね」リツコがミサトに話し掛けた。
「同じこと?」
「そう、使徒の影に初号機が吸い込まれたことがあったでしょう。今回もあれと同じよ、ディラックの海に取り込まれたのよ」
「まさか、あの時は生命維持装置が切れる寸前にシンジくんが奇跡的にエヴァを作動させられたから生還出来たけれども、今回も同じように行くかどうか分からないわよ」
 ミサトは十二番目の使徒レリエルが、エヴァ初号機をシンジもろとも飲み込んでしまった悪夢を思い出していた。あの時は活動限界を越えたエヴァが再起動して使徒を殲滅することが出来たが、あれはシンジの力による奇跡だった。今回のパイロットはアスカだ。あんな風に彼女に奇跡が起こせるとは到底思えない。
 ミサトはエヴァと共に神人の中に取り込まれて姿を消してしまったアスカの身を案じると、不安で胸が締め付けられて仕方がなかった。
 
 エヴァのエントリープラグ内では、アスカが途方に暮れていた。全ての電波は途絶えて、レーダーには何も映らない。無駄な電力消費を抑える為に、生命維持装置以外の電気を落としているので、プラグ内は僅かな明かりしか灯っていない。
 既に内部電源は底を付き、生命維持装置も後三時間もすれば途絶える。それは同時にアスカの命が尽きることを意味していた。
「馬鹿シンジ、早く助けに来なさいよ!」アスカはこの事態に苛立ち、エヴァの操縦桿を何度も何度も引っ張った。しかしエヴァは微動だにしない。
「馬鹿、馬鹿、馬鹿・・・・・・」そう繰り返しながら次第に力を失い、アスカは現実を直視して項垂れた。
「ああ、せっかく久し振りにエヴァで戦えたのに、もうこれで終わりか・・・・・・」仄かな明かりが絶望的なアスカの表情を映し出している。
 目の前の視界が霞んで見えるようになってきた。LCLの浄化能力が落ちてきているようだ。このままでは後三時間保つのかさえ疑わしい。しかしどうせ死ぬのなら三時間でも、一時間でも大して変わらない。ただ望むのは出来るだけ苦痛を伴わない安らかな死を迎えたいということだけだ。
 エヴァに乗ってから苦痛は数え切れないほど味わってきた。だからこうやって穏やかな最期を得られるのはある意味褒美のような物なのかも知れない。

 司令室ではアスカの救出について論議されているが、誰にも妙案が浮かばない。
「もう時間がないわ。初号機にダミープラグを装填して起動させましょう」ミサトが提案した。
「ダミープラグはまだ完全じゃないわ。もしエヴァが暴走でも起こしたら、それこそ取り返しがつかないわよ」リツコはその案に賛成出来なかった。
「しかしそれ以外に手がないわ。ATフィールドを中和して神人の体内に直接N2地雷を仕込めれば、殲滅出来るかも知れない」
「ミサト考えてみて、神人の中にはアスカの乗ったエヴァがいるのよ。それにエヴァにはもうATフィールドを発生させるだけのエネルギーはないの。そこでN2地雷を爆破させたら、どうなるのかあなたにも分かるでしょう」
「くそ! そこまで考えて神人はアスカを取り込んだのね」ミサトは悔しそうに苦虫を噛み、拳で机を叩き付けた。
「もうお手上げね。エヴァ零号機も初号機も今はパイロットがいないのに、唯一作動させられる弐号機を取り込まれるなんて」最悪の事態にリツコは頭を抱えた。
「でもあの神人の狙いは一体何なの? ジオフロント内へ攻めてくるかと思ったけれども、街の破壊をするだけ。さっぱり分からないわ」ミサトは正面モニターに映る神人を見上げた。
 ミサトが不思議がるように、神人は地上の建物を破壊するだけで、それ以上のことはしようとしない。神人には使徒のような明確な目的がなさそうな気がする。
「もうエヴァの生命維持モードの限界まで一時間を切っているわ。一体どうすれば・・・・・・」刻々と迫る生命限界は、ミサトの胸をキリリと締め付けた。
「ミサト! あなたがしっかりしなくてどうするのよ」リツコは苦悩するミサトを叱った。
「分かってるわ、分かってる。でもどうすれば良いのか分からない」
 辛さを隠すように顔を覆ったミサトの指の間から一筋の涙がこぼれ落ちていく。

 神人は破壊の手を休めず、第三東京市のビルを半分以上破壊している。神人がビルを叩き壊す度に轟音が響き、瓦礫から発生した砂埃に街は包まれ曇っていく。
 砂埃が積もる中、地面には崩れたビルの瓦礫と、逃げ遅れた人々の累々とした屍が散乱している。身動きしない埃まみれの死体は大人だけでなく、多くの子供の姿も混じっている。人々が行き交う路上で爆弾が炸裂したような、余りにも残酷で悲惨な光景がそこに広がっていた。

 エントリープラグのLCLの汚染が進むにつれ、アスカの意識も薄れていく。生命維持タイマーは残り三十分を切っている。ここまで来るとプラグ内の明かりは完全に落ち、最低限の生命を維持させるだけのことしか出来ない。今のアスカの状態は微かに心臓が動いているだけで、傍目では死人と変わらないように見える。
 突然明かりの無いはずのプラグ内が赤色の光に包まれた。アスカの目の前にソフトボール程の大きさの赤い球状の光がぼんやりと浮かんでいる。赤い電球のように見える光は、炎のように揺れながら照度が変化している。
「起きて下さい。目を開けて下さい」赤い球から懇願するような男性の声が聞こえて来た。間違いなくそれは人間の声だ。
 その声はアスカの脳裏にも届いていた。しかし今のアスカはその声が天国から降臨する神の声のように聞こえて、現実のことに思えなかった。
「起きて下さい。早く」急かすような声が響く。
「誰・・・・・・?」再度聞こえたその声にアスカはか細い声で尋ねると、ぼんやりと目を開けた。目の前に赤い光がゆらゆらと浮かんでいる。普通の精神状態であれば、そんな物が目の前にあれば大騒ぎするのだが、今の朦朧とした彼女の意識下ではそれが何かを判断することすら出来ない。
「僕はあなたの味方です」赤い光は答えた。
 確かに赤い光が”僕”と言った。頭が遂に幻覚と幻聴を見るようになったのだとアスカは思った。間違いなく自分は天国へ向かっている。そしてこの赤い光の玉が天使のように自分を導いてくれるのだろうか?
「信じてもらえるかどうかは分かりませんが、僕はここではない別の時空間から来ています。同じ時空間なら僕もあなたと同じような人の形をしていますが、今はこんな形でないと姿を現すことが出来ないのです」
 別の時空間? 人の形? 死にかけているアスカの思考では、赤い光の話を理解することが出来ない。馬鹿げた話などもうどうでもいいから、早く天国へ連れて行って。そしてママに逢わせて・・・・・・。
「今あなたを飲み込んでいるこの怪物は、ある人のフラストレーションが大きくなると現れます。いつもは私達の時空間に閉鎖空間を発生させて、その中だけで破壊行為を行っているのですが、今回は私達の時空間には閉鎖空間しかなく怪物がいないんです。そこで必死に探したところ、どうした訳かあなた達の暮らすこの時空間に移動していたんです」
 アスカは僅かな気力を振り絞って「何故・・・・・・」と、呟いた。
「あなたにこの怪物を倒していただかないと、私達の時空間の閉鎖空間は永久に消えません。それどころか更に拡大をして、私達の世界と入れ換わってしまいます。僕が力を貸しますのでお願いします、この怪物を倒して下さい」
 それをやりたくても、もうエネルギーがないの・・・・・・。アスカは心の中で呟いた。
「大丈夫です、僕はこの時空間で戦うことは出来ませんが、あなたを乗せているこのロボットを動かせる程度の力は与えられると思います」
 それが出来るなら、倒せると思う・・・・・・。アスカはまた心の中で答えた。
「ただそのエネルギーを与えると、僕にはここに残るだけの力はありません。良く聞いて下さい。この怪物は内側からは非常に脆いのです。電子を与えると容易に切断をすることが可能です。出来ますか?」
 大丈夫、プログレッシブ・ナイフを使えば、それが出来る。アスカは赤い光の問いに答えた。
「分かりました。それでは今僕に残っているエネルギーを注入します。信じて下さい、今宇宙の未来はあなたに掛かっていることを・・・・・・」
 赤い光はそう言うと、自分の持っているエネルギーをエヴァンゲリオンに注ぎ込み始めた。見る間に赤い光が萎んでいく。赤い光が縮小を続け、遂にパチンコ玉程度まで小さくなった。今にも消えてしまいそうだ。
「これが僕の限界です。後は頼みましたよ」
 赤い光がそう言った瞬間、エントリープラグ内の電気が回復して明るくなった。赤い光は消える瞬間アスカの顔をはっきりと見ることが出来た。
「あ、あなたは涼宮さ・・・・・・」戸惑ったような声が遠ざかってフェードアウトすると同時に、赤い光は蝋燭の火が吹き消されるように揺れて完全に消え去った。
 LCLが急速に浄化されていく。酸素濃度が急激に上昇し、アスカは意識を回復して大きく咳込んだ。酸欠状態だった頭が痛くって堪らない。まだ目眩を起こしているようでフラフラする。
 今目の前で見た物は一体何だったのだろうか? 幻影、幻聴? それとも・・・・・・。いずれにしてもまだ自分が生きていることは確かだ。
 操縦桿を引くと、信じられないことにエヴァンゲリオンが起動した。外部電源用コネクターは戦闘前に取り外していたので、エヴァが起動出来るだけの電力など1ボルトも無いはずなのに。しかし電力メーターは三分の一近くまで回復していることを示している。戦闘モード残り一分十二秒。
「やってやろうじゃない!」アスカの身体にはまだ酸素が足らないのだが、体中をアドレナリンが駆け巡り、その不足分を充分に補っていた。
 ”この怪物は内側からは非常に脆いのです。電子を与えると容易に切断をすることが可能です”赤い光が最後に言った言葉がまだ脳裏に残っている。確証はないが、それが本当だとしたらプログレッシブ・ナイフで内側から切断することが出来る。アスカは左肩のパーツ庫からプログレッシブ・ナイフを取り出し、左手にセットした。
「残り五十五秒、充分よ!」
 アスカはプログレッシブ・ナイフを真っ暗な空間の中で縦横に斬りつけた。この空間がどこまで広がっているのか分からない限り、闇雲に振り回すしかない。
 ビルを破壊していた神人の動きが急に止まり、苦しみを堪えるように両手を上げたまま身体を震わせ始めた。そして遠吠えのような低い音を吐き出した。その呻き声が発する低振動の音波は、数棟のビルを吹き飛ばす程強力だ。
「神人が攻撃を止めました」マコトが叫んだ。
「どうしたの? 何が起こっているの」予期せぬ神人の行動にミサトは戸惑うしかなかった。
「分からない。神人が苦しむ姿なんて初めて見たわ」リツコも信じられないと、首を横に振っている。
 神人の腹部が真縦に切り裂かれたと思った瞬間、風船から空気が漏れるように、内部から白い気体が勢い良く吹き出した。風船が破裂するように切り口から急激に吹き出した気体は神人の身体を大爆発させた。
 凄まじい轟音が鳴り響くと、一瞬として神人は粉々となり、ダイアモンドダストのような煌めく気体へと変化した。
 周りに白い気体が立ち込める中、戦塵の中を飛び出してきたエヴァが地面に着地すると同時に、活動限界を示すタイマーがゼロを指し、エヴァンゲリオン弐号機はその場に崩れ落ちて、ぴくりともしなくなった。