昨夜は夜遅くまでベースギターの自主練習をしていて少々睡眠不足だ。でもお陰で思ったより弾けるようになってきた。長門が言っていたように、俺は本当に前世でこれを弾いていたんじゃないかと思える程だ。
 教室に楽器を置いてはいけないので、今日は少し早めに登校して先に部室へ寄り、楽器を置いておくことにした。下駄箱から一直線で部室を目指す。少しだがいつもより時間が早いので、クラスメートに会うことはなかった。こんな物を背負っているところを谷口なんかに見られたら何を言われるか分かったもんじゃない。
 部室の前で立ち止まり、ポケットから鍵を取り出す。二年になってハルヒが団員の分だけ予備の鍵を作ってくれたので、部室への出入りは自由だ。でもここって文芸部のはずだよな、勝手に予備キーなんか作っていいのかよ。
 そんな余分なことを考えながらキーケースから鍵を取り出して、鍵穴へ差し込む。あれ、鍵が空いている・・・・・・?
 気になりながらノブを回す。開いたドアの奥にいたのは古泉と、長門だった。二人とも俺を待っていたかのような視線で、こちらをじっと見ている。何か嫌な雰囲気がするぞ。
「やけに早いじゃないか」俺は二人に声を掛けて部室に入り、ドアを閉めた。
「ええ、あなたを待っていたんです。多分ベースギターを置きに来られると思いましたから、先に待たせていただきました」
 長テーブルの前に座っている古泉は、いつもの爽やか少年とは違うくたびれた表情をしている。さては昨夜は機関のドラマーの猛特訓でも受けてきたか。まあ良い傾向だな。
「僕は昨日は徹夜です」
 当たりだった。「そうかい。そりゃ大変だったね」と、俺は労りと皮肉の言葉を掛け、ベースギターをケースごと背中から下ろすと、ロッカーの脇に立てた。そして古泉の前に置かれたパイプ椅子に腰を下ろした。窓際の椅子に座っている長門の視線が膝の上の厚物の書籍ではなく、俺に向けられたまま固定されている。何なんだこの異様な雰囲気は?
「で、ドラムの練習の方はどうだ?」
 重い気配を避けるように俺は訊いた。
「ええ、一応リズムだけは刻めるようになりました」
「一晩でか。さすがにお前の組織の講師は優れているな」
 そこまで出来るとは本当に驚いた。でもそんな良い先生がいるなら俺にも紹介してくれればいいのに。
「でも昨夜は大変なことが起きたんです」
 古泉が見たことがないくらい険しい表情をした。やっぱり何か嫌な予感がする。
「何だ、世界の終末でも起こったような顔だな」
「閉鎖空間が発生したんです」
 またあの閉鎖空間か、あれを一度経験した者ならあの中に閉じこめられるのはご免こうむるたいと思うだろう。でもお前はアルバイトが繁盛していいじゃないか。もう相当稼いだんじゃないのか。
「お前が心配した通り、ハルヒの精神状態は不安だらけだったわけか。それであの灰色世界はご近所に現れたのか?」
「ええ、ここから東に15キロの程の場所です」
「じゃタクシーが必要だったな」どうせまた新川タクシーにご登場願ったんだろう。俺には古泉よりもあの方が気の毒に思えてくる。
「でも昨夜のは今までと全く違う発生状況だったんです」
 今までと違う? それじゃ灰色じゃなく、真っ赤とか真っ青とかカラフルな色でも付いていたのか? 俺は冗談交じりに訊いた。
「閉鎖空間の中に神人がいないんです。まさに異常事態です」
「そりゃ結構なことじゃないか。あの化け物を退治する必要がないんだろう」
 そんなことかと、俺は少々面白みのない返事をしたが、古泉にとってはそうではなかったらしい。
「とんでもない、神人がいないと閉鎖空間だけが拡大していくんですよ」
 古泉は目を剥いて否定した。こんなに猛り立ったこいつの姿は初めてだ。気が付くと長門が俺の脇に立って俺達を見下ろしていた。それに気付いた古泉はすぐに落ち着きを取り戻した。でも長門が俺達に近づいてくるのも珍しいことだ。
「神人を倒して初めて閉鎖空間は消えるんです。神人がいないと無限に閉鎖空間が拡大して、遂には我々の世界と入れ換わってしまうんです」
「でもこうやって朝を迎えられたんだから、退治したんだろ」
「ええ、でも神人を探すのが大変でしたよ」
「そうかい。それでどこにいたんだ、そいつは」
 驚いたことにその答えを語ったのは長門だった。俺は長門を見上げ、長門は俺をじっと見下ろしながら話し始めた。
「宇宙の十一次元中の八次元空間、大規模構造内の銀河の一つ、天の川銀河、その外円周状に存在する太陽系第三惑星にそれは存在した」
 長門の言葉はすぐに理解出来ないが、この説明だけはすぐに理解出来た。それも?マーク付きで。
「おいおい長門、お前今天の川銀河の太陽系第三惑星って言ったよな」
「そう」
「それって地球のことじゃないのか」
「そう」
「そうって・・・・・・。お前、意味分からんぞ」
「この内容は宇宙全体の構造が分からないと理解が出来ない。宇宙に偏在する次元は無限に存在し、その宇宙もまた無限に存在する。この銀河太陽系に準ずる惑星は無限に存在する。今のあなたの知識でその答えを得るのはとても困難」
 なんだそりゃ。結局俺の頭の構造じゃ分からないというのか。何か頭が悪いと言われているのと同じような気がするぞ。
「いえいえ、長門さんはこの世界の宇宙論ではまだ説明が出来ないと言っているだけです」
「そう」
「信じられないかも知れませんが、無理にでもこう考えて見て下さい」
 今度は古泉が説明をし始めた。俺は奴の方に向き直り、耳を傾けた。
「僕達の住んでいるような世界は無限に存在するということなんです。それはこの世界と同じ世界が全く違う進化を遂げているかも知れない。それこそ無限に存在しているので、どんな世界が形成されていても不思議ではないのです」
「古泉、お前の言っていることは余計に分からんぞ」
「この世の中には自分と同じ人間が三人いるってお話はご存じですか?」
 それなら俺も聞いたことがある。街を歩いていて自分と全く同じ人間を見掛けたことがあるという奴だ。まあ都市伝説みたいな物で、確証などどこにもないが。
「簡単にいうとパラレルワールドです。無限に次元があるわけですから、その話はまんざら嘘ではないわけです。まあ三人というのが正しいかどうかは別としましてもね」
「はあ?」俺は大袈裟に首を傾げた。
 古泉が何を言い出すのかと思ったら、とんでもない妄想を言い出した。お前も長門と同じようにSF小説の読み過ぎじゃないのか。悪いが俺はごく普通の地球人なんだよ。だからお前らの話にはとてもついていけない。
「最初は僕も信じられませんでした。でも昨夜長門さんのマンションに朝比奈さんにも来ていただき、ようやく僕も理解出来たんです」
 何? 朝比奈さんも一緒だったのか。何故俺を呼ばない? お前ら俺をハバにしているだろう。何かむかついてきたぞ。
「すみません。でも昨夜はまだあなたのお力をお借りする程のことではないと判断しましたので」
 苦しい言い訳だな。それは俺が邪魔だと言っているのと同じことだぞ。
「でもお二人の力をお借りしてようやく神人を探し出すことが出来ました」
「そりゃ良かったな」俺は嫌み一杯の口調で返してやった。
 俺には神人やパラレルワールドとかの話がもうどうでも良くなってきた。お前、朝比奈さんに変なことをしてないだろうな。そのことの方が俺はずっと気になる。
「涼宮さんは僕達の演奏に相当不安を抱いているようです。その異常なフラストレーションが、遂に別宇宙の次元にまで影響を与えるようになってしまったんです。このまま放置すると本当に宇宙全体、この世の全てを終わらせて改築させかねません」
 おいおい、お前は俺の心配事には答えないのか。大体別次元だの、宇宙全体だの、お前らの言う話は全然分からん。第一俺達の演奏の良し悪しで、この世の中が終わるのか? 俺の演奏が酷いだけで本当にこの世が終わるのなら、世界を揺るがす大事件は何の為に起きているんだ。世界はそんな重大事より俺の演奏の方が大事だなんて思うわけないだろう。
「はっきり言いますと、あなたのベースの演奏はこの世を左右する最大の重要事です」
 は? 呆れた。ただ呆れた。古泉は真顔でそんなことを俺に言いやがった。こいつは今世界中で起きているテロや戦争、地球環境、飢餓問題、エネルギー問題、核の問題等々、そんな大問題よりも俺の演奏の方が大切だという。笑えるを通り越して呆れ返るよ。
「簡単に言えば日々起こっている様々な出来事は人間だけの問題であって、宇宙にとっては大した事じゃありません。でも涼宮さんの抱えている問題は、宇宙全体にとっての大問題なんです」
 もうこれ以上話をする気が起きなくなった。話題を変えよう。閑話休題。
「で、神人とやらは退治出来たのか?」俺は尋ねた。
「そこへ行くだけで力のほとんどを使ってしまいましたので、僕が退治をすることは出来ませんでした。でもそこの次元にいた方に退治をしていただきました」
「へえ、そうするとその次元とやらにもお前の組織のメンバーがいるのか?」
「いえ、そうではありませんが、見たこともないロボットを使っていました」
 はあ? なんだそりゃ。それは鉄人28号のようなロボットなのか? それとも鉄腕アトムなのか? そんな便利な物が出来ている時代なら、確かにあの神人とやらも簡単にやっつけられるだろうな。
「そのロボットで神人を退治していただきました」
「本当かよ。そんな物があるなら俺も一度乗ってみたいもんだ。もしそこへ行く機会があれば今度は俺も連れて行ってくれよな」
 俺は冗談のつもりだったが、長門の首がロボットのように垂直に動いて俺の方を見た。何故か分からないが、明らかに長門は今の俺の言葉に明確に反応している。
「助かりましたよ。でも操縦をしていた方の顔を見て驚きましたよ」
「何故だ?」
「いやあ・・・・・・」
 古泉がそこまで言いかけた時、始業の予鈴が鳴った。
「続きは放課後にしましょう。今日も校門前にタクシーを手配しておきます」
「ああ、助かる。新川さんにもよろしく言っておいてくれ。あの方にはいつもお世話になっているからな」
「はい、伝えておきます」
 俺達は席を立った。部室を出ると古泉がドアに鍵を掛け、そして俺はハルヒの待つ教室へ向けて歩き出した。

 教室へ入るとハルヒがいつもの仏頂面で外を眺めていた。俺は鞄を机の脇に掛けて座ると、身体を横にして後ろのハルヒを見た。
「遅刻ギリギリじゃない」
 ハルヒはカモノハシのように唇を付き出し、不満を顔に滲ませている。
「ああ、部室へ楽器を置きに行っていた」
「そう」
 妙に落ち着いた口調だった。
「今日の放課後は、まず全員部室に集合だからね。みんなに伝えておいて」
「何だ鶴屋邸へ一直線じゃないのか?」
 何を考えているんだ。こいつは? また嫌な予感がした。
「その前に打ち合わせがあるのよ」
 ハルヒがそう言った時、教室の引き戸を開けて岡部教諭がジャージ姿で入ってきた。教壇に上がると出席簿を開き、
「それじゃホームルーム始めるぞ」
 岡部のその言葉で俺はハルヒにそれ以上質問をすることが出来なかった。どうせ放課後になれば分かることなのだから、それまでは平穏な時間を乱すこともあるまい。俺はそう呑気に考えて出席に返事をした。