深緑色のネルフの軍用ヘリコプターが第三新東京市上空を舞っている。ヘリは被害状況確認の為、ミサトが手配した物だ。上空から見ると、神人の無差別攻撃で市の北側はほとんど破壊され、ビル群は無惨な瓦礫と化している。
「酷い状況ですね」ヘルメットとインカムを付けたパイロットが言った。
「ええ、本当ね」ミサトはヘリの上から惨状な状況を確認し、眉を潜めた。
 たった一体の神人でここまで破壊されるとは想定外だった。これから判明してくるであろう被害状況には、きっと背筋を冷やすに違いない。
「葛城三佐、本部より連絡が入っています」副操縦士がミサトにインカムを渡した。
「分かった」
 ミサトがインカムを頭に掛けて応答に出る。相手はリツコだった。彼女がこんなところにまで連絡をしてくるとは珍しい。
『ミサト、戦闘地区上空の大気サンプルを採って来てもらえない』
「無理よ、そんな準備はしていないわ」
 全く突然無線をしてきたと思ったら、面倒なことを頼んでくる。必要なら出発前に言ってこい! そうミサトは口元まで出掛かった。
「大丈夫です。採集装置は積んでいます」パイロットが答えた。
 ちっ! とミサトは舌を鳴らした。
「分かったわ。採ってきてあげるわよ」
 ミサトは不満げに口元を曲げると、無線を切ってインカムを外した。
 しかし見れば見る程酷い惨状だ。使徒と戦闘してもここまでの被害はなかった。これは早急に神人対策を立てねば、ミサトは被害地区を見下ろしながらそう考えた。

 研究室分室で伊吹マヤが一人、エヴァンゲリオン弐号機から回収したブラックボックスの解析を進めていた。
 マヤは赤木リツコの直属の部下だ。ネルフに入隊し、本部勤務になってからリツコに指導を受け、現在は隊でもトップのコンピューター・オペレーターと評価されている。そうなれたことをリツコに感謝し、その感謝が今では一人の女性としての憧れにまで昇華されていた。マヤにとってリツコの命令を遂行出来ることが、唯一の喜びだった。
 エヴァのブラックボックスは、航空機のフライトデータレコーダーとボイスレコーダーをベースに作られており、フラッシュメモリーに過去400時間分のデータが全て記録されている。
 航空機用と同じく目立つオレンジ色に塗装されたチタン製の強固なケースに包まれ、カバーを開けると、コンピューターに繋ぐことの出来るコネクターがある。専用コードをブラックボックスに繋ぐと、画面上にパラメーターが現れて、全てのデータがMAGIシステムに転送されるようになっている。
 ボイスレコーダーには神人に飲み込まれてから電源が尽き、最期を迎えようとしているアスカの悲愴な会話が記録されていた。ヘッドホンでその内容を聞いているだけでマヤは胸が詰まりそうになって堪らない。
 幾つか言葉を発していたアスカが、次第に言葉を失い電力量が限りなくゼロになった時に”誰?”と、呟いたのが聞き取れた。その後も何かぶつぶつと呟いている。まるで誰かと会話をしているようにも思える。しかし相手の声は聞き取れない。何をしているのだろうか? マヤは首を傾げた。
 この不可解な会話の後、突然エヴァのバッテリー量は30%まで回復して再起動している。どう考えてもこんなことは普通あり得ない。どこからこの電力を手に入れたのだろう? 全く不可解なことだらけだ。
「どう順調?」声にマヤが振り返るとリツコが立っていた。 
「あ、先輩」
「何かぱっとしない顔してるわね」リツコがマヤの背中を軽く叩いた。
「ええ、このボイスレコーダーのデータなんですが、聞いてみますか」
 リツコが頷いたので、マヤは転送したデータを再生する。画面の音声波形が揺れて、アスカの苦しげな声が、モニタースピーカーから聞こえてくる。
「誰かと話しているように聞こえませんか?」
「確かに・・・・・・」顎に指を掛けてリツコは考え込んだ。
「この後すぐエヴァのエネルギー量が回復しているんです」マヤはパソコン画面上のデータを指し示した。
「あの時、何かが起こったのは確かね」リツコは口に手を当てて考え込んだ。そして「ちょっと待って、何これ?」と、画面に映し出される数多くのパラメーターの一つに注目した。
「磁場の歪み・・・・・・」マヤもそのデータに気付き、値に驚いた。10GHzを超えている。
「この数字間違ってない? こんなに強い磁場がエントリープラグ内で発生しているなんて考えられないわ」
「間違いない値です」
「あの空間には大きなエネルギーが存在したのよ」
「この磁気はアスカが会話を開始する十五秒前から発生しています」
「アスカの意識が回復したら、彼女に何があったのか聞いてみる必要があるわね」
 その時、机上の固定電話が鳴って、マヤが受話器を取った。
「・・・・・・はい、お見えになっています」マヤは答え。「先輩にです」と言って受話器をリツコに渡した。
「ああ、ミサトなの早いわね・・・・・・。そう・・・・・・。採取してくれたのね。すぐに行くわ。病室にいるの?・・・・・・。アスカが?・・・・・・分かったわ」
 電話が切れるとリツコは「グッドタイミングね。アスカの意識が戻ったわ」と言い、受話器をマヤに返した。

 ネルフ施設内の医療病棟。アスカが集中治療室のベッドで一人で眠っている。その様子をガラス越しに任務から戻ったばかりのミサトが一人で眺めている。アスカは口に酸素吸入器を被せられ、心電計や脳波計のセンサーや点滴のチューブが身体に繋がっていて痛々しい。意識が戻ったといっても、まだ身体を動かせる状態ではなさそうだ。心電計の規則正しいパルス音が、アスカが生きていることを伝えていた。
 奥から白衣姿のリツコが廊下を歩いて来て治療室の前まで来ると、ミサトの隣で立ち止まった。
「大気サンプルは、ヘリの隊員に研究所の方へ渡すように指示しておいたわ」ミサトが言った。
「そう、ありがとう。すぐに解析するわ」リツコはアスカの方を見たまま礼を言った。
 二人が治療室の窓ガラス越しに、アスカの容態を心配そうに眺めている。
「しかし良く生還出来たものね」ミサトが呟いた。
「まさに奇跡よ」
「でもバッテリーが完全に切れたエヴァを、どうやって起動させたのかしら?」ミサトは怪訝そうに首を傾げた。
「そのことでアスカに訊きたいことがあるの」
 リツコはそう言うと構わず治療室のドアを開けて、無理矢理部屋の中へ入って行こうとした。それをミサトが制止しようとする。
「ちょっとリツコ、あんた何考えているのよ? 目を覚ましただけだって言ったでしょう」
「止めないで、とても大事なことなの」
「駄目よ。アスカはまだ絶対安静なのよ」
 ミサトの言葉を無視してリツコは部屋に入ると、アスカのベッド脇立って背中を屈めると、彼女の顔を覗き込んだ。慌てて後を追うようにミサトも部屋に入って来た。
「アスカ聞こえる?」リツコがアスカに問い掛ける。
「リツコ、止めなさい。まだアスカは話せる状態じゃないのよ」ミサトがリツコの白衣を後ろから引っ張った。
「邪魔しないで」リツコは袖を振って白衣からミサトの手を払った。
「アスカ、聞こえてる?」リツコはアスカの耳元で大きな声を出した。
 酸素マスクを付けたままのアスカは声に反応し、ぼんやりと瞳を開けた。まだ焦点の定まらない目付きをしている。
「あなたに訊きたいことがあるの。良い」リツコが威圧的な口調で尋ねた。
 声が聞こえているようで、アスカは小さく頷いた。
「エントリープラグの中で何があったの? あなたはそこで何を見たの?」
 リツコはアスカの顔に自分の顔を近づけて、しばらくそのまま見つめ合った。目を閉じてアスカは少し思考してから、再び目を開けた。そして微かに何かを伝えようと唇と動かしているが、声が聞き取れない。リツコは酸素マスクを外して口元に耳を寄せた。
「赤い光・・・・・・」消え入りそうな小声でアスカはそう呟いた。
「赤い光? それは何なの」リツコはその先の言葉を求めた。
「人、人の声がした・・・・・・」
「それは知っている人の声だったの?」興味深そうに、リツコは尋ねた。
「違う、でもその声が助けてくれた・・・・・・」
「誰なのその声は」リツコがアスカに詰め寄り、次の返答を急かせた。
「リツコ、アスカは重傷なのよ。これ以上の質問は止めなさい!」見かねたミサトはリツコの肩を押さえて、アスカから無理矢理引き離そうとした。
「スズミヤさん・・・・・・」
 はっきりと聞き取れる声だった。その名前に聞き覚えのあるミサトとリツコは動きを止め、思わず顔を見合わせた。この名前は加持から聞いた”スズミヤハルヒ”と同じ物なのだろか?
「赤い光が最後にそう言った・・・・・・」アスカは苦しそうにそう言うと呼吸を深めて目を閉じた。
 彼女の容態を見る限り、これ以上質問を続けることは無理なようだ。リツコは諦めて治療室を後にした。
 ミサトとリツコは司令室へ戻る為、エレベーターに乗った。彼女達以外に同乗している者はいない。二人は監視カメラに唇を読まれないように背中を向けて会話を続けた。
「確かアスカはスズミヤって言ったわね」ミサトは怪訝な面持ちをしている。
「ええ、そう聞こえたわ」
「加持くんの言っていたスズミヤハルヒと同じ物なのかしら」
「分からない。でも今回の件にはこのスズミヤハルヒとアスカ、レイ、それにもっと複雑な何かが絡んでいるのよ」
「このことを碇司令は知っているのかしら?」
「多分・・・・・・。それにゼーレや国連などもっと多くの物が関与しているような気がするわ」
「最重要機密ってことね。あたし達が知ることは許されないレベルの」
「そう、ミサト分かっているわね。このことは極秘、絶対に他言しては駄目よ」
「そんなこと言われなくても分かってるわよ」
 ミサトの頭でもこれがどれだけ重要なことであることは理解出来る。知っただけでも命を狙われるかも知れない程重要なことだ。他人に洩らすなんてもっての外だ。