今日も放課後は鶴屋邸の土蔵でバンド練習だ。古泉からベースへとパートを交代してもらってから、少しはマシな演奏が出来るようになってきた。この調子でいけばオーディションではまともな演奏をすることが出来るかも知れない。ようやく一筋の光明が見えてきたというもんだ。
「うん、キョンの演奏も少しだけ聞けるようになってきたわね」
 最初の演奏が終わってハルヒは評論家のような言い方をした。まんざらでもなさそうなハルヒの表情を見て俺も少し安堵した。
「調子が上がってきたから、次の曲もやっちゃおう」
 テンションの上がったハルヒの先導で、次の曲の演奏に掛かる。オーディションは一曲だけだが、ライブでは五曲演奏する予定だ。一曲覚えるだけでやっとなのに五曲もやれるわけないだろう。あっという間に目の前の光明が狭まってフェードアウトし、また俺は弱気になった。
 いわんこっちゃない。俺がまともに演奏出来たのは一曲だけで、後の曲は酷いものだった。長門がどんな曲を弾いても完璧なのは分かるとして、何故古泉までがこんなに上手いんだ。こいつはいつ練習しているんだ? 夜は神人とかの退治で忙しいんだろ。どうも納得がいかん。
「キョン、あんた本当に下手ね」
 ハルヒよ、そんなことはお前に言われんでも俺はとっくに自覚している。分かっているだけに何度も言われると腹が立つ。それはお前にも、俺自身にもだ。
「大丈夫ですよ、彼はこうやって一曲マスター出来たのですから、次はもう少し楽に覚えられますよ」
 意外なことに古泉がそんなことを口にした。こいつはハルヒのフラストレーションを高めないようにするのに必死のようだ。
「そうなの、古泉くんがそういうなら任せたわ」
 素直にハルヒは古泉の意見に従った。俺の意見なんぞ訊いたことないくせに、何でこうも簡単にこいつのアドバイスは訊くんだ。こんな状況なのに、何故か嫉妬心がもたげてくる。ほんの一瞬だけどもね。
「あたしは夜ご飯の準備をしてくるから、キョンあなたは古泉くんにしっかり教えてもらいなさい。みんなちゃんと練習しないと死刑だからね」
 またハルヒは得意の台詞を吐いて、人差し指を俺達に突き付けた。分かりましたよ、俺は古泉先生の言うことを聞いてしっかり練習しますから、安心して旨い飯を作ってきて下さい。
 俺の心の内が読めたのか、ハルヒは笑顔を見せながら晩飯の準備を手伝いに土蔵から出て行った。あの笑顔は不気味だが、今夜は何を喰わしてくれるのか興味も湧いてくる。でも楽しみは後に取っておこう。今はまだやることがあるから。
「古泉、悪いが教えてくれるか」俺は気は引けたが、丁重に古泉に頼んだ。
「勿論ですよ」古泉は爽やかな微笑みを俺に投げ掛けた。何か俺より優位に立てて喜びを隠しきれない嫌みな笑みに見えるぞ。俺って考え過ぎか?
 古泉の教え方は実に上手い。さすが学年でもトップテンに入る学力の持ち主だけのことはある。勉強が出来る奴はやっぱり人に教えるのも上手なんだと、俺は今日学んだ。でもよくよく考えて見ると、ハルヒといい、長門といい、ここには学年トップテンに入る秀才が揃っている。何でクラスワーストテンに入る俺が、ここにいるのか不思議でならん。こいつらのレベルで物事を推し進められて付いていけるわけがないと、俺は勝手に自分の不甲斐なさを擁護しておいた。誰も聞いていないけどね・・・・・・。
 俺は古泉から五曲分のベースの指運びをレクチャーしてもらった。一曲ずつノートにルート音を書いて、それを見ながら何度も弾くと、徐々にコードが頭に入ってくる。こうやって学校の勉強もするわけだ。俺の成績が劣っているのは、単純にノートの取り方と活用方が悪かっただけなのかも知れない。取りあえず今はそう思っておこう。
「なあ古泉、何かハルヒがいないと俺達伸び伸びしてないか?」俺はそう言って周りを見渡した。長門と朝比奈さんが淡々と演奏している姿が目に入る。
「そうですね。僕達はなまじ涼宮さんの偉大さを知っているだけに、前にしただけで緊張してしまいますから」
 偉大さだって・・・・・・? ハルヒに対するこいつの緊張と、俺の緊張はちょっと意味合いが違うような気がする。こいつはハルヒを神と呼んでいたくらいだ。きっとその存在の荘厳さに、畏怖の念を感じているんだろう。
 その後、古泉がインシニアティブを取って練習は続いた。ハルヒを抜いたら古泉が中心になるのは止むを得ない。俺は自分のことで必死だし、長門が周りのことなど考えるわけない。朝比奈さんはというと、何が何だか分からないまま長門に操作されている。
 気が付くと二時間も練習を続けていた。古泉に丁寧に教えてもらいながら練習を続けると、演奏が巧くなったように思え、時が経つのを忘れた。今回ばかりはこいつに借りを作ることになった。まあ古泉にしても俺がしくじると、今晩も睡眠時間を削られるのだから必死なんだろう。
 それにしてもハルヒの奴現れるのが遅いぞ。二時間も料理を作っているのか? 全く何にでも夢中になれる奴だなあ、何て思っていたら団長さまの帰還だ。土蔵の扉を開けて俺達の様子を怪訝な目で見てやがる。そんなに俺達が真面目に練習しているのが珍しいのか。
「本当にあんた達はあたしがいないと、真面目に練習するのね。喜んだ方がいいのか、悲しんだ方がいいのか、悩むわ」
 いやここは喜んだ方がいいぞ。
「練習の成果を見せてもらうわ」と、ハルヒはつかつかと土蔵に乗り込むと、ギターを肩に掛けた。一瞬で皆に緊張が広がる。可愛そうに朝比奈さんなんか足ガクガクしてるぞ。
 ハルヒがガンッとギターを掻き鳴らした。その瞬間に気付いた。二時間前となんか違うぞ俺。古泉の叩くリズムに乗って、ベースを弾いていても気持ち良さを感じる。こんなことは今までなかった。
「キョン、凄いじゃない。あんたどんな魔法を使ったの?」一曲目を終えてハルヒは疑いの目を向けてきた。
 いつぞの谷口みたいなこと言うなよ。俺は魔法なんて使っていないぞ。それを使っているのは朝比奈さんの方さ。俺のは古泉の教え方が上手いんだ。
「まあ良いわ。次の曲いきましょう」
 立て続けに次の曲の演奏に入る。これも良い感じだ。俺ってやれば出来る子なのね。自分でそう言いたくなってくる位巧く思える。全曲の演奏を終えた。所々間違ったりもしたが充分及第点もんだろ。
「やるじゃない。これならオーディション合格間違いなしよ!」珍しくハルヒが喜んでいる。
 久し振りに見たよ、LED電球の何十倍も明るいこの笑顔。やっぱりハルヒ、お前は仏頂面よりそっちの方が断然いいぞ。
「みんなが一生懸命練習してくれたから、ご褒美の晩ご飯よ」
 ハルヒは笑顔を絶やさず、”さあ、さあ”と、俺達を急かすように背中を押しながら土蔵から追い出すと、重い扉を閉じた。

 凄い料理だった・・・・・・。呆れる程物凄い料理だった。日本間のテーブルの上に並べられた料理を見た時、誰もが言葉を失った。
「ミニ満漢全席ね」事無しげにハルヒは言った。
 何で西太后ゆかりの中国宮廷料理がこんなところで出てくるんだ? フルメニューなら百種類を超え、二日間昼夜問わず食べ続けなければならないという。さすがに今回はアルマジロや、猿の脳みそなんかはなさそうだが、それでも十種類程度選んであり、豪華極まりない。
 去年の自主映画と同じで、鶴屋邸での晩飯も日を追う毎に派手になってくる。これはハルヒの趣味なのか? いや趣味でこんな料理が作れるわけがない。あいつはまた不思議な能力を使っているのだろうか?
「いやあ、ハルにゃん今日も凄かったよん。こんな豪華な中華料理をあっという間に仕上げちゃったもんね。ウチの料理長もう自信無くしちゃったよ」
 ハルヒも大したものだが、鶴屋家もやっぱり凄い。大体この料理の材料があるだけも驚きなのに、日本間には丸テーブルと、料理を回す赤い回転テーブルまで用意されている。この家はドラえもんのポケットのように何でも出てくる。
「さあ、さあ、座った、座った」待ちきれない様子のハルヒは俺達を急いで着座させようとする。
 どんな席順で座ろうかと思案していたが、丸テーブルなので上座も何もない。結局ハルヒの隣に長門、その隣に朝比奈さん、古泉、俺、鶴屋さんの順で六人が輪になって座った。俺の隣が朝比奈さんじゃないのが気に入らないが、まあハルヒが隣じゃないだけマシだな。
「今日は自信作よ」回転テーブルをグルグル回しながら、ハルヒが催促する。おい、もうちょっとゆっくり回せよ、取れんだろうが。
「めんご、めんご」
 テーブルが止まった時、俺の前にあったのは餡蜜と、ライチの器だった。おい、おい、いきなりデザートかよ。
 フカヒレやら、北京ダックやら、ツバメの巣やら、もう高級食材のオンパレードだ。今までの俺の凡庸な人生の中では出会うことすら許されない物だ。だから見ただけでは中味が何かをすぐに判断出来ない。
「有希は肉が駄目だから、これを特別に作ったわ」
 と、ハルヒがテーブルを回して長門の前に止めたのはラーメン丼だった。これにもとんでもない食材が入っているのか? シンプルなラーメンに見えるが、スープの出汁をシーラカンスや、オオサンショウウオや、インド象の足で取っているとか。幾ら何でもそりゃないな。
「ニンニクラーメンチャーシュー抜きよ」
 期待していただけに身体の力が抜けた。お前それって苛めかよ。こんな高級食材を前にしてさすがの長門もそんなもん喰わんだろ。
ところが「これがいい」と、長門は躊躇せずラーメン丼を手にした。
 お前本当にそれでいいのか? 海老も蟹もフカヒレもあるぞ。無理しなくていいんだぞ。俺の思いも虚しく、長門はラーメンを啜り出した。無表情な中にも微かな喜びが見てとれる。俺は悟った。こいつは本当にこれが好きらしい。
「どんどんいっちゃって!」
 はしゃぐハルヒは、どれから手を付ければ良いのか悩んで固まっている俺達に代わって、取り皿に料理を盛りつけてくれる。今日のハルヒは不気味さを感じる程上機嫌だ。
 最初の料理はフカヒレスープ。でも中味のどれがフカヒレなのか俺には分からない。
「いや、このフカヒレの量は並じゃないですね」レンゲにまとわりつく大量のフカヒレに古泉が驚いている。
 このビーフンみたいなのかがフカヒレなのか・・・・・・。俺は恥ずかしながら理解した。
「ハルにゃん、この味はなかなか出せないよ。旨い旨い」と、鶴屋さんが舌鼓を打っている。
 二人の反応からこのフカヒレスープがただならぬ物であることが分かった。ひょっとして俺は今後の人生で、これ以上のフカヒレスープを食することは無いのかも知れない。
 ハルヒが北京ダックの皮をそぎ落としていく。その手付きも手慣れたものだ。
「アヒル餅に甜麺醤を付けて、キュウリやネギを挟んで食べるのよ」
 鶴屋さんが手本を見せてくれる。それを真似して餃子の皮のようなアヒル餅という丸い皮に包んでから口に運ぶ。パリパリとした食感が美味だ。これなら幾らでも食べられそうだ。
 ハルヒは「どう美味しい」と、皆に感想を求める。その顔には”否定は許さないわよ”と書いてある。否定なんかするものか、本当に旨いよ。鮑をスライスしてオイスターソースで煮た物なんか、こんな旨い物がこの世にあるのかと感動した位だ。なのにこれだけの豪華料理には目もくれず、長門は黙々とラーメンを啜っている。嗜好というのは本当に人それぞれだな。
 食事の間に中国福建省から取り寄せたという、岩茶とかいう幻のウーロン茶を飲みながら、飲茶用の小籠包や饅頭を食する。この何気なく飲んでいるウーロン茶も、庶民の口には簡単に入らないような代物なんだろう。
 その後も伊勢海老だの、神戸牛の中華風ステーキだのを、たらふく食い、満腹になった。

 旨い物をたらふく食べ、皆が満足して鶴屋邸を後にする。駅までの帰り道、列の先頭を歩くハルヒは、練習と料理が上手く出来て上機嫌だ。隣の朝比奈さんとも楽しい会話が弾んでいるようだ。
「しかしハルヒの料理の腕はどうなっているんだ。あそこまでやられるとは思わなかったぞ」俺は今もハルヒに感心していた。
「ええ、でも涼宮さんは僕達の演奏が不安で、それを忘れたいが為に料理に傾注したのでしょう」また意外なことを古泉は口にした。
「今日は俺達の演奏にハルヒも唸っていたじゃないか。これで万事OKだよ」
「そう思いますか」何故か古泉は俺の言葉に表情を曇らせた。
「何でそんな顔をする。お前心配性だな」
「ええ、僕は心配性だと思います。でも心配せずにいられないんです。特にこんなに事が上手く進む時は、どこかに落とし穴があるような気がするんです」
「事が上手く進むのは結構なことだよ。お前は本当に考え過ぎだぞ」
 俺は無視するように横目で見て笑った。しかしこの古泉の不安が的中してしまうとは、その時の俺は思いもしなかった。