翌朝登校して教室へ入ると、既にハルヒは席に着いて窓の外へ視線を彷徨わせていた。俺は机に鞄を掛けて座り、横を向いてハルヒの方を見る。所在なく遠方を見るハルヒの横顔が見える。昨夜はあんなに上機嫌だったのに、何故今朝はこんな寂寥感を漂わせているんだ。その変化に俺は戸惑った。
「後、一週間だな。オーディション」俺はハルヒに声を掛けた。
 ハルヒは俺を一瞥すると、すぐに外に視線を戻した。
「それなりに聞けるようになってきたけれど、まだまだよ」
「最初の頃を考えたら充分だろ」
「全然よ。でもあたしが目指しているのは、誰もを魅了させる演奏なのよ」
 やれ、やれ、そんなプロでも難しいことを、こいつは望んでいるか。頭痛がしてくるよ。
「おい、おい、適当なところで満足しておけよ」気は引けたが忠告してみた。
「そんな考えだから、あんたは何をやっても駄目なのよ」
 はっきりと人の欠点を口にする奴だ。当たり過ぎて反論する気にもなれん。でもハルヒよ、完全主義はきついだろう。もう少し肩の力を抜いたらどうだ。そう言いたかったが、そんなことを口にしたら、得々と説教されてしまいそうだ。俺は何も言わないでそっとしておくことにした。

 放課後、俺達はこのところの日課となった、鶴屋邸行きの機関タクシーに乗り込んだ。毎日同じ型のタクシーと新川運転手で、そろそろハルヒも気付くんじゃないかと冷や冷やしていたが、結局今日もハルヒは気付かなかった。こいつこんなに鈍感か? いや実は気付いているのだが、振りをしているだけなんじゃないかと、勘ぐりたくもなってくる。おい古泉、明日はいい加減車と運転手を換えてこいよ。
 土蔵に入ると早速ハルヒはギターを肩に掛け「今日はもっと上のレベルの演奏を目指すわ」と、いきなり俺達に宣言した。
 可愛そうに朝比奈さんなんか、そう言われただけで顔を引き攣らせてビクついている。俺だってビビッてるさ。古泉だって額に縦線を浮かべている位だからな。ハルヒに何を言われても動じないのは、長門くらいのもんだろう。
「巧く出来たら晩ご飯は最高の物を出すからね。フランス料理か、イタリア料理か、それともベリーズ料理がいいか、今から考えておきなさい!」続けてハルヒは頭痛を誘うようなことを言った。
 ベリーズなんてアイドル歌手が大挙して住んでいそうな国が、世界のどこに存在するか俺は知らない。でも喰ったことがない料理なら、どこの国の物を喰っても同じだ。鶴屋邸の冷蔵庫にはどんな食材でも入っていそうだし、ハルヒならどんな料理でも作ってしまうだろう。それはこの数日で実際目にしてきた。でも食い物で釣るようなことはしてもらいたくないね。出来ることは出来るが、無理な物は最初から無理なんだから。
 今日の演奏も最初はまともだった。昨夜とさほど代り映えはしないが、聞ける内容だった。ハルヒも”上達してない”とか”何を練習してたの”とか、ただ文句を言っているだけで、大したことなかった。
 風向きが怪しくなってきたのは、練習を始めて一時間半が過ぎた頃だった。音痴な俺の耳でも判別出来る程、何かが不協和音を奏でているのに気付いた。
 以前その音を担当していたのは俺だが、古泉の有り難い個人授業を受けたお陰で、そこから脱することが出来た。それならこの音は今どこから発せられるのか? 皆の視線が一点に注がれている、その視線を辿ると、その先にお見えになったのは、誰あろう朝比奈さんの今にも泣き出しそうなお顔だった。
 朝比奈さんは長門の電子回路に作用する、ナノなんとかを注入されていたはずじゃないか? それは目を瞑っていても演奏が出来る便利な代物のはずだが、どうして朝比奈さんがこんな酷い音を出して焦っているんだ? 俺は嫌な予感がした。
「止めなさい!」ハルヒが怒鳴り、演奏を一度止めさせた。
「みくるちゃん、あなた一体どうしちゃったの?」ハルヒが怪訝な目付きで朝比奈さんを見つめている。
「と、と、突然、ゆ、ゆ、指が動かなくなりました・・・・・・」朝比奈さんは焦りながら涙目で声を上擦らせた。
「はあ、何言ってんのよ。指が動かないなんて、下手な言い訳するのね」
 疑い深い税務官の様な目でハルヒが朝比奈さんを睨み付ける。
「ひ・・・・・・」朝比奈さんが固まった。
 これじゃまるで蛇に睨まれたカエル状態だ。
「時間切れですね」古泉は俺の耳元でそう囁いた。
「時間切れだと? 何のことだ」俺は古泉の方を振り向いて尋ねた。
「96時間です」
 古泉の言葉で俺は気が付いた。長門が朝比奈さんにナノなんとかを注入した時、効果は96時間と言っていたのを思い出したからだ。あれが四日前の今頃だったわけだ。でも何で薬が切れる前に追加しておかなかったんだ。他の奴なら忘れていたでも仕方ないが、俺が全幅の信頼を寄せる長門が、そんな重要なことを忘れるわけない。そう思うと、俺は腹が立ってきた。
「物質がまだ作用している間に次の物質を注入すると、朝比奈みくるの生命に危険が及ぶ」
「つまり薬が強過ぎて、朝比奈さんが死んでしまう可能性があるんですよ」
 何! そんな危険な物をお前は朝比奈さんの身体に注入していたのか。確か俺も一度入れられたぞ。大丈夫だったのか? 今度は自分の身体が心配になってきた。
「注入量さえ正しければ問題はない」平然と長門は言った。
「今すぐに入れられないのか」
「この状況ではとても無理ですね。涼宮さんがこの場を外してくれればいいのですが」
 ハルヒの方を見ると、猫の首でも引っ掴んだように朝比奈さんを問い詰めている。こりゃ苛めだな。
「みくるちゃん、あんたちゃんと練習してたの?」ハルヒの猜疑心が最大になり、不審の目を突き付けた。朝比奈さんが今にも泣きそうな目で俺達に救いを求めている。
「おい、どうするんだ」俺は古泉に意見を求めた。
「マズイですね。これじゃ企みが露呈してしまいます」古泉は首を捻って考え込んだ。
 長門も何かを考えているのだろうが、日頃から無表情な奴だ、何を企てているのか想像も出来ん。頼むから全てをリセットして世の中を最初からやり直すようなことだけはしてくれるなよ。
「ははあん」と、ハルヒが疑惑の答えを導き出した検察官のような声を上げた。朝比奈さんの顔が恐怖に震える。
「みくるちゃん、知ってた? このキーボードはプログラムすると自動演奏するのよ。あんたそれを使って弾いている振りしていたんでしょう」
 確かに長門のナノなんとかは自動演奏に近い物かも知れないが、朝比奈さん本人が演奏していたことに間違いはない。
「もうズルをしてどうしようもない子ね」ハルヒは既にそう決め付けている。
「私自分で演奏していました・・・・・・」健気にも朝比奈さんはそう訴え掛ける。
「またそんな言い訳して、あたしの目は欺けないわよ」
 まるで容疑者を追いつめるように、ハルヒは朝比奈さんを責め立てた。
「わ、私、言い訳なんかしていません・・・・・・」
 遂に朝比奈さんの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。手の甲で流れる涙を拭う、いたいけな姿を見ていると俺の頭に血が駆け上り、目の前が真っ赤になった。一瞬で冷静さがどこかへ飛んでいく。
「おい、ハルヒ!」と、気が付いたら既に怒鳴っていた。どうしようもないね、この性格。
「何よ、今はみくるちゃんと話してんだから、あんたは邪魔しないで」ハルヒは俺を睨み付け、簡単にあしらおうとする。
「朝比奈さんはちゃんと演奏していたんだ。今は少し体調が悪いだけだ」
「何であんたにそんなことが分かるのよ」
「考えても見ろ、朝比奈さんは俺達の酷いリズムにちゃんと付いてきていたじゃないか。自動演奏にそんなことが出来るわけないだろう」
「あんたねえ、いい加減なこと言わないでよ」
 ハルヒの疑惑の目が今度は俺に向けられてきた。
「いい加減じゃないぞ、そのくらい馬鹿でも分かるだろ」
「馬鹿ですって! 馬鹿に馬鹿と言われる筋合いはないわ」
 ハルヒも頭に来たようで、朝比奈さんそっちのけで俺に食って掛かってきた。
「馬鹿に馬鹿と言って何が悪い。俺達はお前の思い付きにここまで嫌々付き合ってきたんだぞ!」
 ここまでの俺の中の不満が一気に爆発した。押さえてきた言葉が口を付いて迸る。もう朝比奈さんのことなんかどうでも良い。これから世界がどうなろうが俺の知ったことじゃない。
「何が気に入らないっていうのよ! あんたはあたしの言うことだけ聞いてればいいの! あたしは団長よ・・・・・・。あんたがこのあたしに反抗するなんて一億年早いわ」
 ハルヒも興奮してきて呂律が回らなくなってきている。俺とハルヒは顔を付き合わせて睨み合った。俺の目の前はもう真っ赤だ。俺は下に垂らした右手の拳に、ありったけの力を込めて身震いした。
 もし人間の怒りに色が付いて見えたなら、俺とハルヒの間には真っ赤に燃えたぎる炎が見えたに違いない。それは1キロ先からでも確認出来るような巨大な物だろう。
「キョンくん、ごめんなさい・・・・・・」そう言って、後ろから朝比奈さんが俺の腰にしがみつき、俺の行動を制止した。
「私が悪いんです。もっとちゃんと練習すればこんなことにならなかったんです」
 おいおいと泣き崩れながら、俺を必死に止めようとする朝比奈さんを見下ろしていると、身体の中で煮えたぎっていた怒りが次第に冷めていく。ここで朝比奈さんに諫止されていなければ、俺の右手は確実にハルヒの顔面を捉えていただろう。
「朝比奈さん、分かりました。だからもう泣かないで下さい」俺はもう自分を取り戻していた。朝比奈さんは床にしゃがみこんで泣き続けている。
「大丈夫です。俺はもう冷静です」
 俺は床に片膝を付き、泣き続ける朝比奈さんを慰めるように頭を優しく撫でた。ただそれだけのつもりだったのだが、それを快く思わない奴がいた。間近に・・・・・・。
「あんたはいつもみくるちゃんの味方なのね。そんなにみくるちゃんが大切なの?」
 はあ? なんか話の展開が変わってきたような気がするぞ。朝比奈さんが大切かと尋ねられれば答えはイエスだ。お前を嫌っても、俺が朝比奈さんを嫌う理由なんてどこにもない。俺が答えずに黙っていると、
「あんたは何かというと、みくるちゃんばっかり」と、ハルヒはまた妙なことを言いやがった。こいつは一体何が言いたいんだ? 俺が思考を働かせていると、
「もう、いい!」と、急に怒声を上げた。
 おいハルヒ、何を怒っているんだ? さっぱり分からんぞ。
「あんたの前にいるのは、みくるちゃんだけじゃないでしょ。もっと目を開いてしっかり見なさい」
 俺はちゃんと目を開いて見ているつもりだ。お前や朝比奈さん、それに長門の姿だって俺には見えているぞ。それが何だというんだ。
「もっと目の前の人を大切にしなさい!」ハルヒが喚いた。
 こいつの態度はもう俺の理解の範疇を越えている。俺は皆を大切にしてきたつもりだ。特に長門には迷惑になりっ放しだから、気持ちの上では深謝しているし、大切にしているつもりだ。だからお前に忠告されることなどない。
「この馬鹿!」
 子供が拗ねたような顔をしてハルヒは俺を怒鳴りつけると、全てをその場に放り出して一人で土蔵を飛び出していった。このハルヒの突然の行動に、ここにいる誰もが言葉を失い、土蔵の中は嵐の後の不気味な森閑さに包み込まれた。俺も目の前で起こったことを整理するのに精一杯だ。
「これは想定外の展開になりましたね。どうしましょう・・・・・・」
 古泉が頭痛を抑えるように、左右のこめかみを片手の親指と薬指で押さえて俯いている。
「何が想定外だ?」
「分かりませんか」古泉がこめかみを押さえたまま顔を上げ、意外そうな表情をした。
「分からん」
「はあ・・・・・・。本当に分からないのですか?」古泉は大袈裟に両手を広げてみせる。お前俺を馬鹿にしているのか。
「ああ、分からん」俺は機嫌悪そうに、むっとして答える。
「嫉妬ですよ」
 その言葉に気が抜けた。何てふざけたことを言いやがる。ハルヒの辞書に嫉妬などという言葉があるわけないだろう。あいつは恋愛感情を気の迷い、精神病の一種だと言ってのける奴だぞ。
「嫉妬心は恋愛感情からだけ生まれる物ではありませんよ。ご存じありませんか? 独占欲からでも同じように発生するんです」
 独占欲? それは単に俺を下僕にでもしておきたいという欲望じゃないのか。
「それもあるでしょう。でも今回は恋愛感情の比率が多いような気がしますが」
 何を分析してやがる。お前に分析されて喜ぶ奴なんかいないぞ。俺だって気分が悪い。
「それはすみませんでした。フラストレーションを溜め込んだ時の涼宮さんの心理状態はある程度把握していたつもりですが、今回のように嫉妬心を抱いた涼宮さんは初めてです。どんな心理状態になるのか想像すら出来ません」
 恋愛経験の豊富そうなお前なら、嫉妬心に駆られた女の気持ちぐらい分かるんじゃないのか? 俺の質問に古泉は頭を振った。
「僕を余り買いかぶってもらっては困ります。これでも初心で真面目な高校生なのですから」古泉が自嘲的な笑みを湛えながらそう言った。
「馬鹿言ってんじゃねえ。もう少し真剣に考えろ」俺は思わず声を荒げてしまった。
「すみません」古泉は真顔に戻ると、すまなさそうに頭を下げた。
 まあいい。それでこれからどうする?
「それが分かれば僕も苦労しません。それこそ神の御心に従うしかないのでは」
 そう来たか、お前にとってハルヒは神に等しい存在だからな。あいつに手を合わせてお願いでもするのか?
「それで治めてくれるのなら、僕は幾らでも手を合わせますよ」
 冗談だ。本気にするな。
「現実的には、やはりあなたにお願いするしかないでしょう」
 俺に頼むって、もういい加減にしてくれ。
「今すぐ涼宮さんに連絡を取って謝っていただけませんか。出来れば直接会って背中から抱きしめて、耳元でI LOVE YOUと囁いていただければ完璧なんですが」
 お前、殴られたいのか! こいつのニヤけた顔を見ていると、本気で殴りたくなってきた。
「いえ、僕としては出来ればそこまでしていただきたいところですが、あなたの立場も少しは考慮する必要がありますね」
 もし俺がそんなことしてみろ、それこそハルヒはこの世界を改築しかねんぞ。俺だけがいない世界をな。出来ればそれはご免被る。
「そんなことはないでしょう。多分逆になるでしょう。涼宮さんはあなたと二人だけの世界を構築されると思いますよ」
 俺の脳裏にあの忌まわしい記憶が蘇った。俺とハルヒだけがいる灰色の世界、北高、複数の神人・・・・・・そして・・・・・・。ああ思い出すだけでも背筋が凍る。冗談じゃない、それは二度とご免被る。
「こんな議論を交わしている暇はありません。さあすぐに涼宮さんに連絡をして下さい」
 うむ・・・・・・。でもどうするべきか悩むぞ。あいつにどう話せばいい。俺が謝るのか? 俺は何も悪いことはしていないぞ。悪いのは誰が考えてもあいつの方だ。やっぱり俺は謝れん。
「まだそんなことを仰るのですか。いい加減冷静になられたらどうですか」
 そう簡単に冷静になれるか。特にお前に指図されてはその気になれん。
「キョンくん、私からもお願い・・・・・・」
 朝比奈さんが縋るような瞳で俺に訴え掛けてきた。何という憂いのあるお顔。朝比奈さん、それは反則ですよ。俺は弱いんです、その表情が・・・・・・。分かりましたよ。電話します。すれば良いんですよね。だからそんな目で俺を見ないで下さい。もう堪りません・・・・・・。
 俺は不承不承携帯を取り出すと、アドレスを画面に表示してハルヒの携帯番号を探す。スクロールしている最中もまだ戸惑いがある。掛けたくないと、ハルヒの番号を探し当てて通話ボタンを押す指が躊躇っている。ふと顔を上げると、古泉の期待ある視線、朝比奈さんの憂いある視線、長門さえも黒い双眸の奥に希望の光を宿している。
 仕方ないと、俺は覚悟して通話ボタンを押した。電話の呼び音が続く、心臓の高鳴りが内耳に響く。ハルヒ如きに電話をするのに何故こんなに緊張するんだ。
 ”今電話に出られないから、時間をおいてもう一度掛けなさい!”ハルヒらしい自己中全開メッセージだった。こんなの聞いたら普通二度と電話する気になれんわな。でも俺はこのメッセージを聞いて安心してしまったのは事実だ。電話をしたが、出なかったのはハルヒの方だ。これで俺のメンツは保たれた。
「こうなったら今から涼宮さんのご自宅へ赴くしかありませんね」古泉はとんでもないことを言い出した。
 ハルヒの家へ行くだと! ここで俺は考えてみた。はて? 俺はハルヒの家がどこなのか知らないぞ。知らない物は行けるわけないじゃないか。ほっとして俺は苦笑した。
「大丈夫です。僕達ならすぐにご案内出来ますよ」
 その古泉の言葉に長門が微かに頷いたような気がした。そりゃそうだ、こいつらはハルヒを長年観察してきた連中だ、目を瞑っていても涼宮の家に辿り着けるわな。
「悪いが俺は行かんぞ。第一、夜中に女子の家にノコノコと出かけられるか。ご家族にどう思われるか、お前も考えてみろよ」
 それは行かせない為の詭弁だった。俺がハルヒを女子だと思っていないことは、自分が一番良く知っている。
「そうですね。確かにご両親のことを考えると、僕達がお伺いすることで、涼宮さんに余計なストレスを与えてしまうことになりかねませんね」
 俺の適当な詭弁に古泉が相槌を打っている。一蹴されると思ったのに、これは予想外だった。何でも言ってみるもんだ。
「どうしましょう。今日はこれで解散して、様子を見ることにいたしましょうか」古泉が提案した、
 その提案に俺が反対することはない。これ以上ない提案だ。大賛成だ。長門や朝比奈さんもそれに対して異を唱えなかった。少しは意見を言うと思ったが意外だった。二人ともここ数日、ハルヒの気まぐれに付き合わされていたことに疲れていたのかも知れない。
 今日はちょうど良い休息日になりそうだ。鶴屋邸で恒例になっている晩飯をご相伴に預かれないのは心残りだが、ハルヒという名コックがいなければ、それも止むを得ない。
 鶴屋さんは「何だ、ハルにゃん先に帰っちゃったの?」と、落胆したような表情をした。
「ええ、所用が出来たそうで」気は引けたが、俺は鶴屋さんにはそう説明した。そんなことが嘘であることは、鶴屋さんにはお見通しだろう。
 旧家な門構えの玄関まで鶴屋さんは見送ってくれた。毎夜のハルヒの蛮声がない、重々しい雰囲気の漂った帰宅風景だ。鶴屋さんはいつもの落ち着いた態度を崩していないが、内心は俺達のことを心配してくれている。
 去り際に「キョンくん、今晩は気を付けた方がいいよ」と耳打ちしてくれた。ええ、気を付けますよ。でも何に気を付ければいいんですか? 
 この後に起こる出来事のことを長門も、朝比奈さんも知っていたんじゃないだろうか? 振り返るとそう思える。
 俺達は黙然と駅まで歩き続けて、電車に乗っても無口だった。帰宅して俺は思い出した。今夜ウチの両親は生命保険会社主催の宴会旅行に出掛けていたことを・・・・・・。俺は仕方なく、台所の食品棚の奥から醤油味のカップラーメンを取り出してポットのお湯を注いだ。たまには庶民の味も良い物だ。
 一人でラーメンを啜っていると、シャミセンを抱えた妹が、「あたしも食べたい」などと宣って、俺のラーメンを奪い取ると、大方喰ってしまった。こいつは両親が出掛ける前に頼んでおいた、近所の鮨屋の出前で晩飯を済ませたんじゃないのか? 
 全然空腹は満たされていないが、文句を言っても仕方がない。どうせ後は寝るだけだからと、大人しく歯を磨いて布団に入った。
 鶴屋さんが”今晩は気を付けた方がいいよ”なんて仰ってくれたのが妙に気になったが、疲れた身体は睡眠を要求している。すぐに深い眠りに落ちた俺を枕元の携帯のバイブ音が目覚めさせた。
 ”誰だ? こんな時間に・・・・・・”ぼやけた頭で電話に出る。やはり今日は鬼門だった。