悪夢だった。巨大な怪物に追われて、暗闇の中に落ちていく。恐怖に苛まれる夢とは、まさにこれのことだ。今も怖さに寝汗を掻いている。目を開けると何故か天井が高い。余りの怖さに今も感覚が麻痺しているのか? 
 おかしい・・・・・・。ここは屋内ではない、ましてや自宅のベッド上でもない。
「シンジくん、目が覚めたね」
 男の声が頭上から聞こえた。思わず俺は身体を起こして声の主を捜す。目の前にその男は立っていた。顎髭を湛えた顔で悠々と如雨露で植物に水をやっている。地面の蔓から幾つも実っているのは西瓜の実だ。良く見ると俺が寝ていた場所は畑の真ん中だった。何故こんなところに俺はいるんだ?
「驚いたよ。君が落ちてくるなんて」
 男の言っている意味が全然分からない。”落ちてきたって?”
「天井が突然崩れて来たんだ。ここはジオフロント内の農場だよ」
「ジオフロント?」
「そうだ。あいつらは二十四枚もある特殊装甲板を足だけで打ち抜きやがったんだ」
 男が指差した先に悠々と歩く無数の神人の姿が見える。何でこんなところにあいつらが・・・・・・。そして夢じゃなかったことを知り、俺は思わず息を飲み込んだ。
「全く驚きだよ。地上の建物を破壊し尽くしたから、今度はここの施設を破壊するつもりなんだろう」
 ジオフロント内の建物を神人は両腕を振り回して、怒りをぶつけるように破壊している。このままではシェルターに避難していた、あの大勢の避難民も皆餌食にされてしまう。”何てことだ”俺の脳裏にあそこで出会った人の顔が浮かんでは消えた。
 神人に赤色のエヴァンゲリオンが立ち向かっていく。全身傷まみれで、ここまで壮絶な死闘を繰り返してきたことを物語っていた。
「あたしはまだまだ負けるわけにいかないのよ!」疲労困憊のアスカがエヴァの中で叫んだ。
 神人の右腕を喰らい、エヴァンゲリオンが吹き飛ばされ、地面に叩き付けられる。砂塵を巻き上げて、地面に両手を付き、必死に立ち上がる。起き上がったところを再び神人の腕が襲う。
「止めろ!」
 苛めのような執拗な神人の攻撃に俺は思わず叫んだ。しかしその声が神人に届くわけもなく、倒れたエヴァンゲリオンを執拗に殴りつける。このままではアスカは死んでしまう。
 神人の背後から青と緑のエヴァンゲリオンが、跳び蹴りを喰らわすと、前のめりに神人がひっくり返った。巨大な神人が倒れる時の振動と轟音は凄まじい。大迫力だ。むっくりとアスカのエヴァが立ち上がったのを見て俺は胸を撫で下ろした。
「どうだいシンジくん。凄いだろう」男はこの戦いを見ながら他人毎のように言った。そして「彼等は命がけで戦っているんだよ。どうせ二体のエヴァンゲリオンじゃ先は見えているがね。それが分かっていても彼等は戦わざる得ないんだよ。それが彼等の使命だからね」
 男の言葉に俺の目が覚めた。俺は碇シンジだとか言われて逃げてばかりいた。俺があの人造人間に乗れるかどうかは分からない。でもここの人達は、俺があれに乗って戦うことを望んでいる。出来るかどうかなんか関係ない。俺は戦うことが出来る立場にいるんだ。
 ここで俺はどれだけの時間倒れていたんだろう。意識を失っている暇なんかなかったんだ。長門待っていろ。今度こそ俺がお前を助けてやる。急に全身から闘志が湧いてきた。
「あの人造人間には、どこへ行けば乗れるんですか?」俺は男に尋ねた。
「やるのかい?」男が俺を熟視する。俺は静かに頷いた。
「そこの先を真っ直ぐ行くとネルフ本部の入口がある。中に入ってすぐのエレベーターに乗っていけば、司令本部に行けるよ」男はそう説明した。
「ありがとうございます」俺は男に礼を言い、お辞儀をした。そして「あなたのお名前は?」と、走り出す寸前に尋ねた。
「加持リョウジだ」と、男は答えて微笑んだ。
 ”加持リョウジ”初耳だがここの連中は皆初めて聞く名前ばかりだ。でも不思議と懐かしさを感じる名前でもあった。俺は入口へ向かって駆ける間、そんなことを考えていた。
「どうせ俺のことも忘れているんだろう」
 加持はそう呟くと、再び西瓜に向けて如雨露を傾けた。

 巨大なピラミッド形のネルフ本部の施設が完全に倒壊している。本当に大丈夫か? 俺は躓きそうになりながらも瓦礫の山を下り、剥き出しになったメインシャフトに辿り着いた。入口が激しく損傷していて、エレベーターが動いている気配がしない。平行して非常階段が設置されている。所々壊れているが、慎重にいけば降りられなくもなさそうだ。俺は非常階段を使うことにした。
 幸いなことに階段の損傷は上部だけで、20メートルも下ると、普通の階段が姿を現した。今日は階段の上下ばかりで、足が痛みで悲鳴を上げている。そろそろ限界かと思った時、床が見えてきた。
 ここからはエレベーターも稼働しているようだ。俺は通路突き当たりのエレベーターのボタンを押して、開いたドアからカゴに乗り込んだ。操作盤のボタンは上か下だけ、迷わずに下行のボタンを押す。ドアが閉まってカゴが降下し始める。
 じっとしていると足が小刻みに震える。これは足の疲れからくる震えだ、決して怖がっているんじゃない。俺は自分に言い聞かせた。気分を落ち着かせる為に、カゴの中を見渡す。
 このエレベーターは普通に見えるが、階表示が変わっている。丸いリングが回転して向かう場所を指し示す。こんなのを古いフランス映画で見たことがある。年季の入ったアパートのエレベーターにこんなアナログな物が付いていた。しかしこの最新鋭の施設には似つかわない表示だ。
 そう思っていると下階にエレベーターが到着した。開いたドアの向こうに見慣れた通路が見える。この薄暗い通路を先に進めば司令室に辿り付ける。もう後戻りは出来ない。覚悟を決めるしかない。
 逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ・・・・・・。
 俺は目を閉じてそう呟くと、エレベーターカゴを降りた。もう足は震えない。不思議と気持ちも静まっている。今はまな板の上の鯉の気分が良く分かる。
 ゆっくりと、そして堂々と通路を歩み、司令室の前で立ち止まった。一度は逃げ出したこの場所に俺は自分の意志で帰ってきた。ポケットの中からIDカードを取り出すと、解錠機の溝に通して自動ドアを開けた。一歩足を踏み出して部屋の中に入ると、皆が急に作業をする手を止めて、俺の方を振り向き注視した。その中にはミサトとリツコの顔も見える。
 皆の顔を見渡すと、それぞれが疑念の表情をしている。何をしに舞い戻って来たのかという、刺すような冷たい視線を感じる。
「俺をあの人造・・・・・・いえ、エヴァンゲリオンに乗せて下さい!」
 俺は皆に向かって自分でも驚く程の大声で叫んだ。皆の顔が急に驚きの表情に変化していくのが分かる。固まっている皆の中からミサトが抜け出し、俺の前に歩み出てきた。ミサトは厳しい顔をして俺をじっと睨み、
「シンジくん、エヴァに乗ったらもう後戻り出来ないわよ。それでも構わない」と、重い口調で言った。俺は睨み付けるミサトに深く頷いた。
「分かったわ」ミサトは顎を引いて頷き、「ありがとうシンジくん、戻ってきてくれただけでも感謝するわ」と、にこやかに微笑んだ。
「シンジくん。エヴァに乗るなら、早くプラグスーツに着替えて」ミサトの隣に現れたリツコが言った。
「プラグスーツ?」聞き慣れない名前に俺は首を傾げた。
「そうプラグスーツ。レイが今戻ってきたから、着方を教えてもらって」
 ついさっきまでエヴァンゲリオンに乗って神人と戦っていた長門がもうここに戻っていた。真っ白なウエットスーツに身を包んだ長門はとても格好良く見える。
「レイ、シンジくんに教えてあげて」ミサトが指示をする。
「はい」レイは座っていたパイプ椅子から立ち上がった。
 こいつこんなにもスタイル抜群だったんだ。俺はちょっと嫌らしい妄想をした。

 俺は長門に更衣室まで連れて来られた。打ちっ放しのコンクリートの床と壁、ボクシングの控え室のようにロッカーや、長い椅子が配された部屋は無機質で質素だ。俺は長椅子に腰を下ろした。
「長門さっきは助かったよ」俺は神人から守ってくれた礼を言った。
「別にいい。でもここでは綾波レイと呼んで」長門が俺に頼んだ。
 そうだった。この世界でこいつは長門有希ではなく、綾波レイだ。慣れないからつい呼び方を間違えてしまう。
「で、どうするんだ?」俺は長門に尋ねた。
 長門は何も言わず、ロッカーからサイズ別に並んだウエットスーツを見ている。数着の中から一着を選ぶと、俺が座る長椅子の横に置いた。
「このプラグスーツに着替えて」
 俺は白いスーツを手にした。これは今長門が来ている物と同じだ。これをプラグスーツと呼ぶのか。
「これを着るのか?」
「そう、裸になってから着て」
「裸って、全部脱ぐのか?」俺は戸惑い、聞き返した。
「そう、全部脱いで」さも当たり前のように長門は言った。
「お前もここにいるつもりか?」
「そう、私は着方を教えるように指示されている」俺の問いに長門は頷いた。
 おい、おい、今から裸になるんだからちょっとは気を回せよ。でも俺の願い空しく、長門は微動だにせず、じっと俺を見つめている。
「ちょっと悪いが、横を向いていてもらえないか?」
「何故?」表情一つ変えずに長門は言った。
 何故って・・・・・・。そういう問題かよ。
 俺は長門を壁際に連れて行くと、壁を向かせて立たせた。理由が分からないのか、長門は驚いたように目をパチクリさせている。
「俺がいいと言うまでそこに立ってろ」
 俺はそう命令すると、壁際の長門を気にしつつ服を脱ぎ始めた。今日はこいつの前で何回裸になるんだ。ぶつぶつ文句を言いながら素っ裸になり、プラグスーツに足を突っ込んだ。分厚いゴム製でゴワゴワしてとても着難い。格闘すること数分、ようやく身に付けることが出来た。しかしダブダブだ。俺はここまで太っていないぞ、サイズを間違えているんじゃないか?
「おい長門、いや綾波。これでいいのか?」俺は長門を呼んだ。しかしこいつは微動だにしない。
 お前は犬か、全く融通の利かない奴だ。俺は長門の肩を持って壁際から反対を向かせ、自分の方を見させた。
「これでいいのか?」俺は改めて尋ねた。
「それでいい。左手首のボタンを押して」
 長門の視線の先、手首に青いボタンがある。俺はそのボタンを押してみた。いきなり風船が萎むような音がして、ダブダブしていたプラグスーツが身体に密着した。ゴムで締め付けられるという感覚だ。身体の線が出るのは慣れないせいか妙に恥ずかしい。それに何という違和感・・・・・・。
「これは動きにくいなあ」
「大丈夫、すぐ慣れるから」
 表情の無い赤い瞳で長門は俺を見つめ”大丈夫”と、ばかり言う。でも本当に大丈夫なのか? その感情の薄そうな表情を見ると、逆に不安になってくる。
「インターフェイス・ヘッドセット、これを頭に装着して」長門は三角形の形をした白い物体を二つ俺に渡した。
「何だこれ? 餃子みたいだな」俺は長門に言われるままにインターフェイス・ヘッドセットを頭の左右に装着した。クリップのように頭に固定するようになっている。
「これでエヴァンゲリオンと神経接続をする」
 神経接続だと? この餃子から妙な線でも伸びてきて、俺の脊髄に侵入するのか? 恐ろしい妄想をしたが、今更恐れても仕方ない。えい、もうなるようになれ。
 俺は長門と共にエヴァンゲリオンの格納庫へ戻ってきた。ミサトとリツコがエヴァの前で話し込んでいるのが見える。二人は俺の方を見ると会話を止めた。感慨深い目をしながらミサトが俺の方へ歩いてくる。
「シンジくん、プラグスーツも似合うわね」と、ミサトが照れくさいことを言った。
「でも良くサイズの合うプラグスーツがあったわね」
「トウジくんのがあったから」と、長門が答えた。
「そうか、彼と同じ背丈になったのね」感慨深そうな目でミサトが俺を見つめた。
 あのお、こんな格好は恥ずかしいから、あんまりじろじろ見ないで下さい。
 恥ずかしがりながら俺はふと思った。トウジって地下シェルターであった松葉杖の男のことだろうか? そうだとするとあいつもエヴァンゲリオンに乗っていたのか・・・・・・。
「シンジくん、それじゃエヴァに乗ってくれる」リツコが俺に命じた。このシンジとかいう名前も徐々に聞き慣れてきたような気がする。
「乗るって、どうやって?」
 やれやれ、やっぱりそこから教える必要があるのか。記憶を消してしまうと色々とやっかいだ。リツコは溜息を付いた。
「そこのエントリープラグに乗ってもられば良いわ。中に操縦室があるから」リツコはエントリープラグを指差した。 
 ”エントリープラグ”それは円柱型でマイクロバス程の大きさのある白い入れ物。この中に人が乗るのか? まるで昔の宇宙船のような感じだな。
 格納庫の足場から、ハッチの開いたエントリープラグの中へと、俺は身体を入れた。足を伸ばして運転するスクーターのようなシートが見える。これが操縦席なのか?
 俺がシートに座ると、目の前にモニターや様々な機器が見える。こりゃ戦闘機のコクピットみたいで滅茶格好良いぞ。これって男の子の憧れじゃないか。両手の位置にある操縦桿を握ると、益々雰囲気が増して胸が躍る。
「それでいいわ。そのままにしててね。じゃハッチを閉めるわよ」中の様子を覗き込んでいたミサトが顔を引っ込めると、鈍い音をさせてハッチを閉じた。
 ハッチが閉じられると外部の光は途絶え、正面のモニターの仄暗い明かりだけがプラグ内部を照らし出す。低い衝撃音、モーターの唸る音がする。プラグ全体が動いているような気がする。でも何が行われているのか全然分からない。
 ドンという音と振動でプラグの動きが止まった。準備が整ったのか? でもこれってどうやって操縦するんだ? 俺はバイクや車の免許は持っていないし、乗り物といえばもっぱら自転車だ。そんなレベルで動かすことが出来るのか? 疑問だ。
『シンジくん、今からLCLを注入するから、慌てないで』
 ミサトの声が聞こえたような気がした。でも耳で聞くような気がしない。直接内耳に届くような感じだ。それにLCLって何?
 プラグ内の照明がオレンジ色に変化し、どこからともなく水が侵入してきた。足から膝、腰、胸まで水位が上がってくる。マズイ”このままでは溺れてしまう。俺は危機感と恐怖を感じて座席を立ち、慌てて逃げ出そうとした。ハッチのノブを回そうとしても、微動だにしない。外からロックが掛かっているんだ。
『シンジくん、慌てないで。LCLは酸素を直接肺から取り入れることの出来る液体だから、絶対に溺れることはないのよ』
「そんなこと信じられるか!」俺は不信感が一杯で、死の恐怖を感じた。
 口元まで液体が達し、すぐに頭上に到達する。呼吸が出来ない。苦しい・・・・・・。お願いだ、助けてくれ。
『LCLを飲み込んで、何も怖がることはないわ』
 全身が水に浸かっているのに、ミサトの声が聞こえる。やはり鼓膜で音を聞いているわけではなさそうだ。頭に装着したインターフェイス・ヘッドセットを介して内耳に直接声が届いている。
 最初は息を止めていた俺も遂に耐えきれず、口から鼻からLCLの液体を飲み込んだ。死ぬ覚悟だったのに、この液体を体内に取り入れると苦しさがなくなった。何なんだこれは? 何故呼吸が出来るんだ。疑問は残るが、何にせよ溺れ死なずにすんで良かった。
『ちゃんと座席に座って』
 俺はもう平静を取り戻していた。こんな状況なのにこの液体に浸っていると不思議と気持ちが落ち着く。それに液体の中にいるはずなのに浮力を全く感じない。空気の中にいるのと同じ感覚だ。俺は座席に付いて足を伸ばし、両手を操縦桿に乗せた。
 その瞬間、俺の頭の中で断片的な記憶が次々とフラッシュバックした。俺の知らない記憶、これは一体誰の記憶なんだ? 

”こんな物に乗れるわけないだろう”それはまだ声変わりしていない少年の声だった。
”父さんは僕を必要としていないんだ”エコーの掛かったような低い声が脳裏に響く。
”必要だから呼んだんだ”父の声がする。何、あのおっさんが俺のオヤジだって、嘘・・・・・・。
”シンジくん、乗りなさい”ミサトの声が聞こえる。
”バカシンジ! ここから入っちゃ駄目よ”アスカの声がする。
”あなたは自分のお父さんが信じられないの”レイの怒った顔と、頬をぶたれる痛み。

 このLCLの液体の中に溶け込んでいた過去の記憶の断片が、今の意識に浸透して混ざっていく。急速に俺は過去の自分に目覚めていった。
 完全ではない断片的な記憶の為に、過去の出来事を理解するのは難しい。しかしその記憶を繋いでいくことにより、俺は確かな真実を得ることが出来た。それはこの世界で俺は碇シンジという人間として生き、エヴァンゲリオンに乗って使徒という怪物と命がけで戦っていたということだ。
 俺は本当の自分と向き合うことを恐れ、全てを捨ててこの世界から逃げ出した。記憶を消して、過去と決別することを望んだ。そして涼宮ハルヒを観察する為に、別次元へ送られる綾波レイと共に電送されることを選んだ。
 これで分かった。俺はかつて碇シンジだった。その事実を受け入れて、俺は今碇シンジに戻ることを選択した。
「凄いです。初号機のシンクロ率100%超えています」モニターの数字が猛スピードで上がっていき、マヤが表示された値に驚嘆した。
「遂に目覚めたのね」リツコは興奮して目を輝かせながら、エヴァンゲリオン初号機を見上げた。
 俺が操縦桿を力強く引くと、エヴァのつり上がった目が眩しく輝いた。そして顔を上へ向けると大きく口を開き、轟音のような咆哮を上げた。覚醒したエヴァの雄叫びに司令室の窓が細かく揺れている。
「凄い・・・・・・」ミサトはその迫力に圧倒され震撼した。
「ミサトさん、早く地上へ出して下さい!」
 俺は血が猛って高揚していた。早く戦いたい。身体が震え、その気持ちを抑えることがどうしても出来ない。こんなに興奮したことは過去に一度もなかった。
「分かったわ。思う存分戦って来なさい!」気持ちが伝染したように、ミサトも興奮している。「発進準備!」ミサトの力強い声が司令室内に響く。
 ミサトの号令と共に、アンビカルブリッジが前方へ移動を始める。俺の意識が乗り移ったエヴァは興奮を抑えきれず、その間も身体を左右に大きく揺すっている。
 エヴァの暴走を抑える為の拘束具や安全装置が次々と解錠されていく。エヴァンゲリオン初号機が、ローダーに乗ったまま射出口へ向けてレールの上を移動していき、射出ターミナルに到着すると、ローダーは停止した。
「進路全てクリアです」マヤが答える。
「よし、発進よ!」ミサトが叫んだ。
 エヴァンゲリオンを乗せた射出台が、メインシャフトを駆け上がっていく。かつてネルフの地上施設があった場所に、初号機が姿を現して急停止した。
「最終安全装置解除、エヴァンゲリオン初号機リフトオフ」ミサトの指示で最後のロックが外され、エヴァは完全に起動した。
 今の俺はエヴァンゲリオンの操作方法の全てを理解し、この機体を手足のように操ることが出来る。エントリープラグ内のスクリーンに、ジオフロント内の建物の破壊を続ける無数の神人の姿が映し出されて”早く倒したい”という逸る気持ちが身体を支配する。
 最終ロックが外されると「うおおお!」と俺は叫び、短距離走者のように目の前の神人に向かって猛スピードで駆け出した。眼前で見る神人の巨大さにも何ら恐れを感じず、真っ直ぐに立ち向かっていける。
『シンジくん、プログレッシブ・ナイフを使って』
 ミサトの指示通り、肩の武器ポケットからプログレッシブ・ナイフを取り出すと、右手に装填した。そして神人に向かって大きく飛び上がると、一気に斬りつけた。
 あっという間に神人は縦横のブロック状に切り刻まれて、青い気体を漂わせながら、その場に崩れ落ちていった。主人を得たエヴァンゲリオン初号機は、今まで眠っていたのが嘘のように、柔軟に機体を動かして攻撃することが出来る。
 俺は次の神人に狙いを定めると、それを一瞬にして切り刻み殲滅した。信じられないような速度と手際で神人を次々と餌食にしていく。
 まるで等身大のロボットで、戦闘ゲームをやっているみたいだ。これで興奮しないはずがない。俺には今自分の置かれた状況がテレビゲームの中の出来事のようで、現実感が全くなかった。
 突然神人の巨大な右手がエヴァの左腕を掴んで捻った。その時俺の左腕に強烈な激痛が走った。その痛みは俺をテレビゲームの世界から現実の戦いの世界に連れ戻した。握られた神人の右手を素早くナイフで切り落とすと、同時に左腕の痛みもなくなった。
 俺は左腕に鈍痛を感じながら、更なる闘志を剥き出しにした。プログレッシブ・ナイフを強く握ると、高く飛び上がり、神人の頭部を切断した。青い気体を吹き上げながら怪物は崩れ落ちて、細かな粉体となり、ドライアイスの霧のようにその存在を消し去っていく。 止めどなく俺は新たな神人を見つけると、立ち向かっていった。神人の巨大な腕が唸り音を上げてエヴァを襲う。機体を翻してその攻撃を交わすと、腹部へ向けてプログレッシブ・ナイフを斬りつける。続いて機体を回転させながら右腕を、左腕を、飛び上がって首を切断した。滑らかな動きで一瞬として神人はその場に崩れ落ちた。
「凄い!」司令室正面の巨大モニター画面に映し出される、初号機の見事な戦いぶりに、ミサトは拳を握りしめて興奮している。
 エヴァンゲリオン零号機が整備を終え、再起動の時を待っている。
「次、私行きます」エントリープラグ内のレイがそう告げた。
「エヴァンゲリオン零号機発進!」
 零号機の安全装置が解錠され、射出口へ向けてレールの上を移動していき、シャフトの真下で停止すると、射出通路を猛スピードで駆け上がっていく。セントラルドグマから、ジオフロント内に姿を現すと停止した。
「最終安全装置解除、エヴァンゲリオン零号機リフトオフ」
 零号機が地響きを上げて、一歩を踏み出した。
「さあ、レイ思い切り暴れてやりなさい」ミサトは益々興奮して声を荒げている。
「ちょっとミサト、少しは落ち着いたら」冷静な口調でリツコが忠告した。
「もう、うるさいわね。この状況で落ち着いていられるわけないでしょう」苛ついた顔でミサトはリツコを一瞥した。
 レイはプログレッシブ・ナイフを取り出すと右手に装填した。そして目の前の神人に向かっていった。いきなり脇から現れた神人の鉄拳が零号機に向かって振り下ろされる。不意を突かれた零号機は頭から直撃を喰らって吹き飛ばされた。
 背中から大文字に地面に倒れた零号機の胸元を神人の大きな足が踏みつける。物凄い圧迫感がレイの胸を襲い、呼吸が出来ない。
「綾波!」
 碇シンジとして目覚めた俺は、長門のことを綾波と呼ぶことにもう躊躇いはなかった。俺は零号機の危機に気付き、初号機の向きを変えて救出に向かった。猛スピードで駆けて飛び上がると、プログレッシブ・ナイフで神人の首を一瞬に切り落とした。巨大な頭部が零号機の顔の真横に落下して轟音を立てる。頭を失った神人の胴体はゆっくりと崩れ落ち、霧状の青い気体と化して消え去っていく。
「大丈夫か」
「ええ、大丈夫」
 初号機が伸ばした手に縋り、零号機は立ち上がった。その時レイはシンジの手の温もりを感じた。すると彼に対する感情が全身に蘇ってきた。
 長門有希として生きている時は、涼宮ハルヒの監視という任務の為に、ただでさえ希薄な感情を抑えてきた。しかし綾波レイに戻った今は、愛情ともいえるこの感情が強く込み上げてくる。
「気を付けろ。これだけ数が多いとどこから攻撃されるか分からない、周りを意識しろ」
「分かった」レイは込み上げる気持ちを抑えながら頷いた。
 神人は二体のエヴァンゲリオンに向かって攻めてくる。レイは体勢を取り直すと、神人に向かって駆け、飛び上るとナイフを振り下ろした。すると神人の腕が切り落とされて、切り口から青い蒸気が舞い上がる。
 続いて足を切り落とした。バランスを崩した神人が地面に倒れる時の轟音は凄まじい。辺りの空気を震わせ、その振動で建物が倒れる程だ。

 ミサトの興奮はもう落ち着き、エヴァの指揮官として顔を取り戻していた。エヴァがどれだけ神人を殲滅しても、その数はそれ以上に増殖してきりがない。この状況が世界各地で繰り広げられていると考えると背筋が寒くなる。人類の絶滅がこんなことにより訪れるとは思いもしなかった。
「ミサト、変だと思わない」リツコが怪訝な表情をしている。
「何が?」
「何故、神人がこんなにも増殖するのかしら?」
「そんなことあたしに分かるわけないでしょう」ミサトはその問いを無視した。
「何か理由があるような気がするの」
「どんな?」ミサトの眉がぴくりと動く。
「スズミヤハルヒと、アスカの関係よ」
「例の遺伝子が同じだってこと?」
「そう、あんなことはあり得ないことよ」
「だからって神人とは関係ないでしょう」
「いいえ、それが関係あるのよ。一つ試して見たいことがあるの」
 アスカの乗ったエヴァンゲリオン弐号機は、ジオフロントの西で一人神人と戦っている。シンジの初号機からは約5キロの距離があり、アンビリカルケーブルを一杯まで伸ばすと残りは2キロだ。これなら充分狙える距離に入る。それを確認するとリツコは弐号機のモニターのスイッチを切った。
「ちょっとあんた何をするつもり?」リツコの妙な行動がミサトは気になった。
「黙ってて」リツコは邪魔をしそうなミサトを片手で止めると、初号機への通信ボタンを押した。
「シンジくん、一度セントラルドグマ前まで戻ってもらえる。格納庫を浮上させるからパレットライフルを装填して」リツコがそう指示した。
「神人に対してはプログレッシブ・ナイフじゃないと効果がないのよ」ミサトはリツコの指示に文句を言った。
「そんなことは分かっているわ。でも私は知りたいことがあるの」リツコは意味不明なことを言った。
 ミサトは制止したかったが、真剣なリツコの表情を見ると単なる思い付きには思えない。ここは一度彼女に任せてみようか。
 俺にはパレット何とかがどんな物か分からないが、指示に「分かった」と答え、初号機が浮上した場所まで戻ることにした。その場所に駆けつけると、瓦礫の中からビル一棟分もあるような長方形の入れ物が地下からせり上がってきた。
 ドンという大きな音がして止まると、ビルが縦に開いた。中に様々な武器が収まっている。ディスプレイが中の武器の一つを輪郭で示している。巨大な銃、それがパレットライフルというものらしい。
 俺はそれを掴むと格納庫から引っ張り出した。そして両手で構える。さあ何を撃ってやろうか。まるで荒野のガンマンになったような気がする。そんな俺の高揚する気分を次の指示が撃ち砕いた。
「それでエヴァンゲリオン弐号機を撃ちなさい」
 俺は耳を疑った。数少ない仲間を撃てだと・・・・・・。
「ちょっとリツコ、あなた一体何を言ってるの?」
 ミサトはリツコの頭が狂ったのだと思った。何故弐号機を攻撃させるのだ。そんな馬鹿げたことをさせるわけにはいかない。
「やめなさい!」毅然とした態度でミサトは制止した。
「大丈夫。エヴァはATフィールドで守られているのよ。劣化ウラン弾程度じゃダメージはないわ」
 ミサトはリツコの考えていることが益々分からなくなった。ダメージのないことを何故わざわざ行うのだ。
「シンジくん、早く撃ちなさい」リツコが命じた。
 俺は戸惑っていた。味方を、しかも相手は女だ。俺は女に手をあげたことなどない。一度ハルヒを殴りそうになったことがあったが、その時は古泉に止められた。だから手を上げたことはない。アスカが幾らハルヒに似ているとはいえ、撃つなんて滅茶苦茶な話だ。そんなことがやれるわけがないだろう。
『早くやりなさい!』リツコの怒鳴る声がモニターから聞こえてくる。
 ”何故だ・・・・・・”俺は自問した。こんなことに何の意味がある。悩みながらも、俺は弐号機にパレットライフルの標準を定めていた。
『シンジくん、撃ちなさい!』今度はミサトの怒鳴り声が聞こえた。
 ミサトはシンジに命令した自分に嫌悪感を感じていた。でも今はリツコの考えを試してみる必要があった。
 こいつら全員頭がおかしいとしか思えない。否定する俺の思考とは反し、狙いはピッタリと約2キロ先の弐号機の赤い機体に合っている。遂に俺は重い引き金を引いた。腕に反動を感じ、銃口から長い火を放って劣化ウラン弾が弐号機に向けて発射された。外れろ! 俺は心の中でそう叫んだ。
 劣化ウラン弾は俺の願いをせせら笑うように、躊躇いなく真っ直ぐに弐号機に向けて飛んでいく。閃光と轟音、火柱が立ち上がりウラン弾は命中した。当たり前だ。こんなに近距離で的を外すはずがない。
 爆発から立ち昇る砂塵が次第に晴れてくる。状況が掴めて俺は驚いた。神人がまるで弐号機を守るかのように仁王立ちして、こちらを睨んでいる。奴に目があるとは思えないが、それらしい部分が俺を見下ろしていたのは確かだ。
「神人ってあんなに早く移動出来るの?」
 ミサトも予期せぬ神人の行動に驚いた。あれだけ大きな体躯を持つ神人が、こんなに敏捷だとは思いもしなかった。
「シンジくん、もう一発打ち込んで」
 リツコの命令はミサトを更に混乱させた。これで充分じゃないのか?
 リツコの指示は俺に怒りを覚えさせる。どうして仲間を攻撃させる? こんなことに一体何の意味がある。しかし悲しいことに俺はその命令に背くことが出来なかった。
 俺は再びパレットライフルを構えた。俺の動きを見越していたのか、巨大な神人の陰に隠れて弐号機が見えない。
「左に回り込んで発射して」
 リツコの指示が聞こえ、俺はエヴァを走らせた。神人はまるで弐号機を守る楯のように、俺の動きに沿って回りながら立ち塞がる。俺の動きが神人の動きを僅かに上まわり、弐号機の側面が見えた瞬間を逃さず俺は引き金を引いた。
 劣化ウラン弾が弐号機に命中したと思った時、新たな神人がその前に突然現れた。ウラン弾は神人が身代わりになる形で爆発した。閃光に掻き消されて事実を確認することは出来ないが、間違いなくウラン弾を神人が受け止めた。
 何故神人が弐号機を守るんだ? 俺は今見た光景が信じられなかった。
「ビデオを巻き戻して」リツコはマヤに指示して、エヴァ初号期から送られてきた映像を再生させた。
 リツコはモニターを凝視し、劣化ウラン弾が命中する瞬間で画面を停止させると、スロー再生にした。それは驚くべき映像だった。瞬間移動するように神人が現れて弾丸が命中する。このシーンをリツコは何度も再生した。
「神人が瞬間移動している」一緒に画面を確認するミサトも驚いている。神人がこんなに早く移動出来るなんて信じられない。
「違うわ」意味深なリツコの言葉だった。
「違うって・・・・・・」
「移動なんかしていないわ。新しい神人が生まれたのよ」
「馬鹿なことを言わないで。そんなことがあり得るわけないじゃない」
「いえ、事実よ」リツコは言い張った。
「それが本当なら、これは神人が発生する瞬間なの」
「そう、今まで神人が発生するところを見た者はいない。これは貴重な映像よ」
 まさに一瞬で神人は現れている。コマ送りしてみても前のコマには存在しない神人が次のコマには映っている。これが事実なら三十分の一秒にも満たない時間で神人は発生していることになる。移動したなら神人の姿が画面内で流れているはずなのに、ここにははっきりとした姿が映っている。リツコの言うように新しい神人が瞬時に発生したのかも知れない。
「でもどうして神人が弐号機を守るのよ?」それがミサトには疑問だった。
「そう、それがやっかいな問題なの・・・・・・」リツコは言葉を句切り「あれはアスカが生み出しているのよ」と言った。
 それはミサトにとって想像すら出来ない回答だった。アスカが神人を生み出しているなんて馬鹿げている。第一そんな能力が彼女にあるわけないじゃないか。それにどうしてアスカが神人を創る必要がある。彼女は今も命がけで神人と戦っているのだ。
「でも事実よ。この映像が証拠だわ」リツコは自信を持ってそう言い切った。
 リツコの表情は真剣で、とても冗談で言っているようには思えない。多分彼女はそのことが前から分かっていて、それを確かめただけなんだ。
「スズミヤハルヒの遺伝子を調べていて気に掛かっていたのよ。スズミヤハルヒには神人を生み出す力がある。それなら同じ遺伝子を持ったアスカに同じ力があってもおかしくないわ」
「そしてそれを試した」
「そう、そして結果は予想通りだったわ」
「でも、何故なの?」
「神人はアスカの遺伝子からだけ生み出されているわけじゃないわ。彼女の精神が神人を欲している時にだけ現れるの」
「意味が分からない。何故アスカが神人を必要とするのよ?」
「ミサトあなたも良く知っているでしょう。アスカはエヴァで戦うことだけに自らの存在意義を見い出していることを」
 リツコに指摘されてミサトは思い出した。アスカはエヴァに乗ることに異常な程執着する。過去にそのことで彼女は精神を蝕んだことすらある。
「使徒が殲滅されてから、アスカがエヴァで戦うことはなくなった。でも彼女にとってそれは不都合な状況なのよ。だから対敵する相手を自ら生み出した。それが神人よ」
 滅茶苦茶な論法のようだが、ミサトにはリツコの考えが正論に思える。彼女の言う通り、使徒が殲滅されてからアスカはとても苦しんでいた。その彼女が神人が現れ、再びエヴァに乗って戦う時、以前と同じような溌剌とした生気に満ちた姿に変わった。同じ屋根の下に暮らしていたので、アスカの心情の変化は良く分かる。
「それじゃ神人の発生を止めるには・・・・・・」一番聞きたくない質問だったが、敢えてミサトはリツコに尋ねた。
「ミサト、あなたにも分かっているはずでしょう」
 発生源が分かった限り、神人を止めるには発生源を破壊するしかない。それはアスカを死滅させることと同じ意味だ。でもそんな恐ろしいことを指示出来るわけがない。ミサトは悩んで目を閉じた。しかしどれだけ悩んでも、そんなことは出来ない・・・・・・。
「ミサト、ここの指揮を取っているのはあなたよ。早く命令を下しなさい」
 こんな状況でもリツコは冷静だ。それは科学者としての本能か? それとも母親の血なのか? 彼女は疑問を確実に排除するよう努力する。その為には非情な行動さえ厭わない。そこが自分と一番違うところだ。
 今現在世界の都市が神人によって破壊されている。もしアスカ一人の命を捧げることにより、その脅威を排除出来るのなら、それは必要悪といえるのではないだろうか。それならきっとあたしの判断を神は許してくれるだろう。苦渋の選択だがミサトは決意して目を見開いた。
「シンジくん聞いている。あなたに命令を下します。今からあなたの攻撃目標は、エヴァンゲリオン弐号機よ。パ・・・・・・、パイロットを完全に破壊しなさい」動揺を抑えられずに、声を震わせながらミサトは命じた。
 ミサトのその指示は司令部の隊員全員を震撼させた。誰もが驚き表情を隠せず、互いの顔を見合わせている。何故アスカを殺さねばならないのだ?。
 俺はインターフェイス・ヘッドセットを通して聞こえてきた命令に唖然とした。弐号機を倒すだけならともかく、パイロットを破壊しろだと、それはパイロットを殺せと言っているのと同じじゃないか。どうしてアスカという自分と同じ人間を殺さなければならないのだ。俺は人殺しなんか絶対にしない!
「シンジくん、あなたが戸惑うのは分かるわ。でもこの神人を創り出しているのはアスカなの。だから発生源である彼女を倒さないと神人は無限に増え続けるのよ」
 そんなもっともらしい理由を付けても俺には無理だ。仲間を殺すことなど出来るわけないじゃないか。俺は鈴原トウジと同じことは二度としない。
 シンジが命令を拒否していることは、初号機が動きを完全に止めてしまっていることで分かる。しかしそれを責めることは誰にも出来ないだろう。これはどう考えても滅茶苦茶な命令だ。
「シンジくんがやれないなら、レイにやらせるしかないわね」リツコが呟いた。
「さあミサト、あなたがレイに指示するのよ」
 非情なリツコの口先がミサトに向けられた。シンジが駄目ならレイにやらせる。それはきっと正しい判断だろう。レイなら迷わず確実に命令を遂行するからだ。
「分かったわ」ミサトは苦しそうにそう言うと、
「レイ、聞こえる? あなたの攻撃目標を変更します。攻撃目標はエヴァンゲリオン弐号機パイロット、惣流・アスカ・ラングレーよ」
 ミサトは敢えて今の指示をシンジにも聞こえるように初号機のモニターを切らなかった。すぐレイからの返答はなく、しばらくしてから”了解”という彼女の声がモニターから聞こえた。その口調はいつもと変わりなく抑揚のないものだった。
「止めろ、綾波!」その指示を聞いて俺は思わず叫んだ。
「止めるんだ。そんな命令には従うな!」怒りが込み上げて抑制することが出来ない。
 綾波レイ、あいつはここではそう呼んでくれと言った。でも俺の中で彼女は長門有希だ。俺の命を何度も救ってくれた長門。あいつにこんな役目を背負わすわけにはいかない。それなら俺がやる。俺が倒す・・・・・・。
 俺は腕に抱えたパレットライフルを弐号機に向けると、劣化ウラン弾を発射した。瞬時に神人が現れて弾丸を受け止める。何発発射しても同じことの繰り返しで、弐号機に弾が届くことはない。
「シンジ、何やってんのよ。あんたバカぁ。あたしに向けて撃ったって仕方ないでしょう」
 自分の置かれた状況をまだ知らないアスカは、何故シンジが自分に向けて攻撃を仕掛けて来るのか分からない。その間もアスカは自分が生み出した神人を、パレットナイフで斬りつけては消し去っていく。堂々巡りとなり一向に神人の数は減らない。
「何であたしの周りにだけこいつは現れるのよ!」
 次々と周囲に現れる神人にアスカは苛ついている。彼女のフラストレーションが溜まる度に神人はその数を増していく。
「神人の数が急速に増えていきます!」マコトが叫んだ。画面に神人を表す赤い点が物凄い速度で増加していく。
 碇ゲンドウは司令室で手を組み、何も言わず事態を見守っている。彼の背後から冬月がヌッと顔を現した。
「我々が幾ら情報を抑えても、すぐに洩れるようだな。皆スズミヤハルヒのことを知っていたようだ」
「ああ。彼等は俺の優秀な部下だ。僅かな情報があれば、この位のことは調べられるだろう。だがそれも想定内だ」ゲンドウが呟いた。
「そうか、それじゃ二号機パイロットが自分の状況を知ったらどうなると思う?」冬月が不気味な笑みを浮かべて尋ねた。
「神の怒りに触れることになるだろう。だが我々の計画遂行の為にもそれは必要なことだ」
「神と対峙する気か? 下手をすると世界が滅びるぞ」冬月が忠告した。
「大丈夫だ。既に結果は分かっている」ゲンドウの低い声の中に自信が見える。
「全ては死海文書の筋書き通りか」冬月が呟いた。
「そうだ」ゲンドウはそう言うと、目の前のマイクのスイッチを押した。
「葛城三佐、弐号機のパイロットに自分が攻撃目標であることを教えろ」ゲンドウはミサトに指示をした。
「え・・・・・・」ゲンドウの命令にミサトは言葉を失った。そんなことをアスカに告げたら彼女は何をしでかすか分からない。ミサトは机に手を付き、どうするべきか悩んだ。幾ら命令だといってもこれは賢明な考えだとは思えない。
「大丈夫だ。教えてやれば自ら動きを止める」ゲンドウは更にそう続けた。
 碇司令はアスカの性格を知らない。そんなことを告げても彼女は自分の境遇を素直に受け入れたりしないだろう。きっと暴れまくって始末に負えなくなるに違いない。
「ミサト。あなたが出来ないならあたしが伝えるわ」リツコが呟いた。
「何・・・・・・」はっと、ミサトが目を開けてリツコを見る。
「私からアスカに真実を伝える」毅然としたリツコの顔がそこにあった。
「駄目よリツコ、あなたが話しちゃ駄目・・・・・・。分かったわ、あたしが伝える」
 ミサトは意を決して、弐号機への通信ボタンを押して語りかけた。一言一言噛み砕くようにゆっくりと・・・・・・。
「アスカ、聞こえる。今神人が発生する仕組みが分かったわ」
 アスカの聴覚にミサトの声が届いてきた。神人の発生する仕組みが分かったって? それじゃその仕組みを潰せば怪物を殲滅することが出来るじゃないか。すぐにあたしがそれを潰してやる。アスカは胸を躍らせた。
「神人はある人の精神状態が不安定になると発生するのよ。だからその発生要因を取り除けば消えるの」
 ある人だと、そいつはどこにいるのだ。早くここに連れて来い。あたしが八つ裂きにしてやる。アスカは益々いきり立った。
「そのある人とは・・・・・・」ミサトは苦しそうに言葉を句切ると、リツコの方を見た。リツコは何も言わずただ頷いた。そして「アスカ、あなたなのよ」と、辛そうに言い切った。
 何・・・・・・? アスカは耳を疑った。今ミサトは自分の名前を言ったような気がしたが、多分聞き違いだろう。
「ミサト、今何って言ったの」アスカは聞き返した。
「もう一度言うわ。アスカ、あなたが神人の発生源なのよ・・・・・・」
 まさに青天の霹靂だった。アスカは頭の中をハンマーで殴られたような衝撃を受け、思考が停止して何も考えられない。どうしてあたしが神人の発生源なんだ。全然意味が分からない。
 苦し過ぎて先を話せないミサトに代わって、リツコがマイクを取った、そして「アスカ、聞いてちょうだい・・・・・・」と語り始めた。
「この宇宙とは別の次元に、スズミヤハルヒという宇宙を創造する力を持つ神に等しい者がいるの。そのスズミヤハルヒのフラストレーションが高まると神人が現れのよ」
 アスカは会ったこともない、スズミヤハルヒの話を、何故するのが不思議だった。何より別次元って話自体が胡散臭過ぎる。大体そんな物の存在は、まだ実証されていないじゃないか。
 リツコはその後も説明を続けた。
 レイが入手したスズミヤハルヒのサンプルのDNA解析をしたところ、遺伝子が100パーセントアスカの物と一致した。つまりスズミヤハルヒとアスカは、一卵性の双子のように肉体的に同じ組成なのだ。
 だからアスカの精神的なフラストレーションが大きくなると、スズミヤハルヒと同じように神人を発生させる。それも自分の意志とは関係なく発生させてしまう。この地球上で暴れている神人は全てアスカが作り出した物であると、リツコは告げた。
 リツコの話を聞き、アスカは悩んだ。神人を消し去るにはあたしが自らの命を絶てば良いのか? それで本当に神人が消えるのなら、世界を救う為にあたしはこの命を捧げても構わない。でもそんなことは何の確証もないではないか。下らない言いがかりの為に、あたしは死ぬつもりなど毛頭ない。
 リツコの話はシンジとレイにも聞こえていた。
 シンジは思った。アスカがハルヒと同じ遺伝子を持っているなんてことを今初めて聞いた。そしてその二人と俺は関わっている。それには何か意味があるのか? それとも運命だったのか? 俺には分からないが、こんな事実を突き付けられて、仲間を殺さねばならないなんて余りにも理不尽過ぎる。
 俺はその疑念を押し込んでパレットライフルを発射し続けた。その弾はただ無意味に神人を生み出しているだけだと分かっていたが、今の俺にはそうするしかなかった。
 レイは考えていた。かつて自分はシンジをエヴァに乗らなくてもよくすると約束した。なのに今シンジは再びエヴァに乗り、よりによって仲間と戦うという、最悪な状況に陥っている。
 この状況を招いたのは、私が涼宮ハルヒのサンプルを持ち帰ったからだ。それがなければアスカと、涼宮ハルヒの接点は知られなかったはず。それが判明してしまったのは私のせいだ。レイは自らを責め、二人を救う為の行動を起こすことを決意した。
 ”碇くんがもうエヴァに乗らなくてもいいようにする”
 レイは零号機からアンビリカルケーブルを切り離すと、弐号機に向けて走らせた。途中シンジの初号機の背中からプログレッシブ・ナイフを奪い、両手にプログレッシブ・ナイフを持って立ちはだかる神人を斬りつけた。
「おい綾波、何するんだ」俺は綾波がどうして俺のプログレッシブ・ナイフを奪ったのか分からなかった。でも余りにも見事に神人を倒していく様にはただ感心した。
 レイは弐号機を取り囲む神人をあっという間に倒すと、プログレッシブ・ナイフを地面に落とし、弐号機のATフィールドをこじ開けようと、零号機の両手を突っ込んだ。
「レイは一体何をしているの?」ミサトは予期せぬレイの行動を、あっけに取られて見ているしかなかった。
 突然アスカの脳裏にレイの声が聞こえてきた。その声はインターフェイス・ヘッドセットを通さず、直接脳の中に入り込んでくる。
 ”アスカ安心して。私はあなたを殺したりしない。だから私に全てを委ねて・・・・・・”敵意の無い、優しい言葉だった。
 ママのような温かい声、ママに包まれるような安堵感。ATフィールドに守られているのと同じ安心感。アスカはまるで催眠術に掛かったかのように、レイから発せられる霊気に素直に身を預けた。
「零号機のATフィールドが反転して、弐号機を浸食していきます」マヤがモニターを見ながら叫んだ。
 司令室の巨大モニターには、零号機が弐号機のATフィールドを開いていく様子が映し出されている。それをミサトは驚きの表情をしながら見ている。
「エヴァのATフィールドを破れるのは、エヴァだけなのよ・・・・・・」リツコがモニターを見上げて呟いた。
 浸食したATフィールドの隙間から零号機が弐号機の手首を掴んだ。その瞬間、双方のATフィールドが消滅し、エヴァンゲリオン弐号機は完全に沈黙した。
「シンジくん、すぐに零号機と弐号機を神人から守りなさい」ミサトが叫んだ。
 ATフィールドを失ったエヴァは無防備でとても危険な状態だ。俺はすぐにアンビリカルケーブルを切り離し、二体のところへ駆け付けると、目の前に群がる神人を斬りつけた。
 アスカは母の胎内へ回帰していた。丸まった全裸の身体が羊水の中で浮かんでいる。心地良い温かさ、母の匂い、いつまでもここに留まっていたい。
 ”この子が生まれたら何て名前を付けますか?”
 子宮へ母の声が響いてくる。
 ”さあ、それより元気に産まれてくれることを祈るよ”
 父の声、すっかり忘れていた父の声・・・・・・。
 揺りカゴ、ブランコ、オルゴール・・・・・・。死の匂いのする夕陽が射し込む部屋。冷たい新月の闇に包まれる部屋。
 生まれたくない。ここから出たくない・・・・・・。お願いあたしを出さないで・・・・・・。
必死に抵抗するアスカの手に触れる手、目を開く。綾波レイ。何故ここに・・・・・・?
 ”寂しいのね。心が寂しかったのね。でも大丈夫、何も心配いらない。大丈夫、大丈夫・・・・・・”
 レイの言葉に頷く、安心する。目を閉じる。
 ”あなたと私は今から一つになるのよ。そして一緒にあなたを傷付ける者のいない優しさに満ちた世界へ行くの”
 ありがとう、そんな世界へ導いてくれて。ありがとう・・・・・・。
 全裸のアスカとレイが抱き合いながら、深い深い羊水の中へと沈み込んでいく。それは分子レベルにまで分解され、LCLの養液へ溶けていくように・・・・・・。
「弐号機のシンクロ率が急速に下がっています」マヤが焦っている。
 シンクロ率を表すグラフが薄れていき、シンクロ率が二桁を切っている。この状態でエヴァを起動させることはもう不可能だ。
「信じられません。逆に零号機のシンクロ率が200パーセントを超えています」もうマヤには何が何か分からず、動揺をし始めた。
「リツコ、一体何が起こっているの」ミサトは茫然としながらモニターを見上げている。
「分からない・・・・・・」
 リツコも予想だにしない状況に戸惑い、答えを見出すことが出来ない。レイは一体何をしようとしているのだ。
「エヴァ弐号機のパイロットが生体浸食されていきます」マヤが言った。
 ”まさか・・・・・・”リツコは閃いた。レイはアスカを生体浸食し、彼女の精神を自分の中へ取り込もうとしているのだ。でも何故、何の為に?
 アスカの精神がレイの中へと浸透していくと共に、レイの身体に変化が訪れた。身体の震えが治まらない。腕が足が顔がレイからアスカの姿へ何度も交互に入れ換わる。
 ”あたしはまだ死にたくない。死ぬのは嫌、死ぬのは嫌”アスカの悲壮な声が響く。
 ”大丈夫、何も怖くないわ。私に全てを任せて”
 アスカの恐怖を必死に抑え込み、不安を取り除く為に、レイが優しく声を掛ける。そうするとアスカの恐怖の表情が、次第に穏やかになっていく。
 アスカの精神はレイの精神と完全に融合され、アスカの肉体はただの入れ物と化した。
 ”さあいきましょう。何の不安もない穏やかな世界へ・・・・・・”
 レイは座席から離れて、席の後ろの非常ロックを外すと中のレバーを引っ張り、零号機のMODEーDを起動させた。”MODEーD”それはエヴァンゲリオンの自爆モードだった。
 ”大丈夫、私のスペアは幾らでもあるから・・・・・・”レイは自分にそう言い聞かせた。
「エヴァ弐号機ATフィールドが展開します」
 弐号機のATフィールドが最大になり、エヴァンゲリオン弐号機の機体を保護する。
「レイ、死ぬ気なの・・・・・・」
 リツコはその時レイの考えが読めた。彼女はアスカを救う為にアスカの精神を浸食し、自分の身体に乗り移らせた後、自らの手でその精神を消滅させようとしているのだ。アスカの精神が消えれば理論的には神人を消すことが出来ると考えたのだ。
「エヴァ零号機のコアが潰れます。臨海突破します!」マヤの絶叫のような悲鳴が司令部内に響いた。
 ”これでいいの、これで・・・・・・。さようなら・・・・・・”それが綾波レイの最後の意識だった。
 この世の全てが消えてしまうような目映い閃光が走り、轟音と地響きが辺りを大きく揺らした。
「綾波!」
 目の前で俺はとんでもない物を目にした。あの長門が綾波が眼前で消えてしまった。何でこんなことに・・・・・・。余りにも大きな精神的ショックに俺の全身がブルブルと震えた。
「エヴァンゲリオン零号機、消滅しました」マヤの沈痛な低い声が静かに響いた。
 核爆弾が炸裂した後のようなキノコ雲と砂塵が次第に晴れてくる。目に入る色が退色して、音がしない。無音室に入ったように全く音がしない。零号機の自爆は自分以外の生物を消滅させてしまったのかと俺は思った。
「見て・・・・・・」ミサトがモニターを指差して小さく呟いた。
 動きを止めた無数の神人の身体がどこからか吹いてきたつむじ風に乗って、まるで桜の花が散るように砕け散っていく。
 十秒程の僅かな時間で目の前の神人は全て粒子と化し消えていった。退色した白黒の世界で、神人の青い粒子が風に乗って棚引く様は例えようもなく美しかった。
 神人が消えた去った後、灰色の空が割れ始めた。視野一杯に広がる空のあちらこちらに細かなヒビ割れが無数に走る。そのヒビ割れが空を覆い隠した直後、瞬時に世界が切り換わったかのように、目の前に雲一つ無い青空が広がっていた。
「世界中の都市で神人が消滅していったと報告が入っています」マコトが報告をした。
 これでレイの行為の正しさが証明された。彼女は自らの命を犠牲にして、この世界を救ったのだ。
「エヴァ初号機の帰還と、エヴァ弐号機の回収。それとエヴァ零号機のエントリープラグの回収をすぐに行いなさい」ミサトは肩を震わせながら指示を出した。
「零号機はエントリープラグを射出したの?」リツコが尋ねた。
「いいえ・・・・・・」辛そうにマヤが答えた。
「じゃ生存は無理ね」リツコが最後通告のような非情な声を放った。
「それでも回収しなさい!」ミサトは鬼神の様な顔をしてリツコを睨み付け、そして怒鳴った。