神人との戦いは終わり、この世界は救われた。もっとも破壊され尽くされた世界が以前の状態を取り戻すには、まだ長い時間が掛かりそうだが。
 エヴァンゲリオン零号機のエントリープラグは跡形もなく破壊され、結局回収出来なかった。俺は神人が暴れ、街を破壊する中で、累々とした死体の山を見てきた。その凄惨さと比較すれば、綾波一人の犠牲などちっぽけなことに違いない。でもエヴァンゲリオンに乗ることにより、この世界での記憶が蘇った俺には綾波レイと、長門有希というかけがえのない二人の仲間を一瞬で失ったように思える。
 ネルフ内の治療室の一角では、廃人と化したアスカが昏々と眠り続けている。俺は病室でパイプ椅子に座りながら一人、彼女の目覚めを待った。アスカは呼吸はしているが微動だにせず、見た限りではただ眠っているように思える。医師の診断では、彼女の肉体に何ら問題はなく、目覚めないのが不思議だという。
 綾波を失った今、せめてアスカだけでも命を長らえ、何とか意識を取り戻して欲しい。俺は切にそう願った。

 ”人口進化研究室”そこでは今もダミープラグの研究が続けられている。ダミープラグが完成すると、エヴァをパイロットなしで作動させることが出来る。しかしどれだけの実験と試作を繰り返しても、未だ完成させるに至っていなかった。
 ダミープラグの核となる物は生体だ。人間と同じ組成をした生体。それはクローン技術により製造される。そのクローン主となっているのが綾波レイだ。レイの細胞は普通の人間とは違う。彼女は生殖器官を持たず、クローン技術によってだけ自らの細胞と遺伝子を残すことが出来る。その特殊性がダミープラグの生体に適しているが、彼女にはそれ以上クローン主にならなければならない大きな理由があった。
 彼女の生体はLCLに溶け込んだシンジの母親である碇ユイの細胞をサルベージして、人類の創造主といわれるリリスの遺伝子と融合して作られた。レイの生体はクローン技術を用いると幾らでも同じ物を作り上げることが出来るのだ。
 実際、綾波レイの生体は十数体作られており、この人口進化研究室の培養タンクの中で保管されている。しかしこの生体には魂が宿っておらず、ただの入れ物に過ぎない。唯一魂が宿っていたレイの身体は、神人を殲滅する為に自爆して死んだ。
 ダミープラグの製造装置を取り囲むように配置された円周形の培養タンク内に、突然照明が灯った。培養タンクはLCLと同じ組成のピンク色の溶液に満たされ、その中で浮遊する数多くの綾波レイの生体が蠢き始めた。溺れるように口から泡を吹き出し、低い喘ぎ声を立てて身体を捩り、のたうち回っている。水面を荒立て、断末魔のように藻掻き苦しむ姿は見ていると気味が悪くなってくる。
 その動きが急に止まり、辺りが平穏に戻った。まるで全ての生体が死に絶えたかのような静けさ。しばらくの沈黙の後、一体の生体の目が突然大きく見開いた。

 規則正しい心電計の音は眠りを誘う。俺はいつの間にか眠ってしまっていた。考えるとこの世界へ来てから一睡もしていなかった。ここまでは緊張し、気を張っていたので眠いという欲求が起きなかった。でもここに来て緊張の糸が途切れたようだ。俺はすっかり眠り込んでしまい、アスカが目覚めていたことに気が付かなかった。
 俺の目が覚めたのは、医師や看護師が病室に入ってくる気配を感じたからだ。本来なら俺が彼等を呼ばなければならないのに、恥ずかしいことに居眠りをしてしまった。俺は目覚めると、ベッドの上のアスカと視線が合って一瞬ドキッとした。
「良かった。目覚めたんだね」気持ちを落ち着かせて俺はアスカに声を掛けた。俺の言葉に偽りはなく、安堵の気持ちが込み上げてくる。
「あなたは誰?」
 俺の顔を見たアスカの第一声に戸惑った。誰って? 悪い冗談かと思った。しかし狼狽えるような彼女の表情で、それが本心だとすぐに分かった。彼女は自分が誰かも、ここがどこかも全く覚えていないのだ。
 医師はショックによる短期的な記憶障害で、時間が経てば元に戻るだろうと言った。でも俺にはそれが偽りに聞こえる。過去のアスカの記憶も、精神も、綾波と共に死に絶えてしまったのだ。
 その時、息急き切ったミサトが病室に飛び込んできた。
「シンジくん、すぐに来て!」
 ミサトの険しい形相を見て俺は何事かと思った。

 信じられない光景を俺は見た。慌てるミサトに連れて行かれたのは、セントラルドグマの地下深い場所だった。”人口進化研究所第三分室”そこは俺がこの世界に落ちてきた綾波のマンションの部屋と同じような、コンクリート剥き出しの殺風景な場所だ。そこのパイプベッド上で毛布を被り、上体を起こしてこちらを見ていたのは、死んだはずの綾波レイだった。
 彼女は自爆して粉々になり、姿形がなくなったんじゃないのか? なのにここにいる綾波は傷一つ負っていない。これは一体どういうことなんだ? 俺は訳が分からなかった。
「リツコ、あなたが再生したの?」ミサトの問いに白衣姿のリツコは首を横に振った。
 彼女達の会話は俺には意味不明だ。再生ってどういうことだ? 俺は聞いてみたかったが、二人が深刻そうに首を傾げている様子を見ると、今は尋ねられる雰囲気ではない。それに毛布を剥ぎ取られて身体を細かく調べられる綾波は、一糸纏わぬ姿で目のやり場に困る。
 リツコがペンライトでレイの目を覗いて、光彩の働きを確認すると「どこにも問題はないようだわ」と言い、ペンライトの明かりを消してポケットにしまった。
「レイ、あたしが誰か分かる?」ミサトがレイの身体に毛布を被せながら尋ねた。しかしレイはミサトの顔をじっと見つめるだけで、言葉を発しようとしない。
「やはり過去の記憶は無いみたいね」リツコは視線を下げて溜息を落とした。
「葛城ミサト・・・・・・」レイがぽつりと呟いた。
 ミサトとリツコは驚き、互いの顔を見つめた。
「あなたは赤木リツコ・・・・・・」レイの目がリツコに注がれている。
「こんなことって・・・・・・」冷静なリツコが呆然とした表情をしている。
「何故レイが記憶を保っているのよ。再生されると過去の記憶は消えるんじゃなかったの」ミサトが戸惑いの声を上げた。
 俺にはどうして二人がこんなに困惑しているのか分からない。粉々になって死んだと思っていた綾波が無傷で現れたのには驚いたが、それは奇跡的に助かったと考えればいい。それ以上何も詮索する必要はないじゃないか。
「レイ、あなたは今までのことを覚えているの?」
 ミサトの問いにレイはゆっくりと頷いた。
「じゃ彼は?」ミサトが俺を指差す。
「碇くん」レイが答えた。
「あなたが乗っているのはエヴァンゲリオンの何号機?」更にミサトは質問する。
「零号機」
 そんなたわいのない質問が幾つか投げ掛けられ、それにレイは完璧に答えた。
「レイ、あなたは何故自爆という手段を選んだの?」最後にミサトが尋ねた。
 レイはその質問に対して視線を天井の隅に移し、「私は碇くんと、アスカを争わせたくなかった。二人を救うにはあれしか方法がなかった・・・・・・」そう言うと、何かを思い出すような面持ちで淡々と語り始めた。
「この次元の神人はアスカのフラストレーションから発生していることが分かった。従って彼女の精神不安を取り除けば神人は自然消滅する。私には他人の精神世界へ入り込める能力がある。その力を最大限に利用して、アスカの精神へアクセスし、私の生体に乗り移らせた。その時点で私が死ねば、アスカの精神も同時に消去出来ると考えた。自爆したのは、私には生体のスペアが幾らでもあることを知っていたから」
 綾波が話す姿はまるでイタコに霊が乗り移り語っているような不気味さだ。俺は長門が初めてハルヒのことを話した、あの夜の異様さを再び感じていた。こいつが長々と話す内容はとても常人では理解の出来ないことばかりだ。
「怖かったのは死ではなく、記憶がリセットされること。元の記憶を保ったまま、スペアの生体に乗り移るのは難しかったが、何とか成功することが出来た。今の私は元の記憶を完全に保持している。生体は一番新鮮な物を選んだつもり、これは元の物よりも健康に感じる」
 驚くべき話だった。レイは自らの意志により死を選び、そして誰の手も借りずに生体に乗り移って蘇生したのだ。今まではLCLに溶け込んでいた精神を、物理的にサルベージして再生したが、今回はレイが自分の力だけで行った。何故こんなことが出来たのだろうか? リツコにはとても信じられなかった。
「この世界と以前の世界で、碇くんと共有した記憶が消えてしまうことが、私には何よりも怖かった。だからどうしてもその記憶だけは守りたかった。どうしても・・・・・・」
 感情が希薄と思われていたレイが、ここまで強い意志を持って成長していたことは驚き以外の何物でもない。
「シンジくん、レイがここまで人間らしくなれたのはあなたのお陰よ」
 リツコが俺に向かって言った言葉は俺を戸惑わさせた。この程度の感情で人間らしいって、今までどんな性格してたんだよ。それに俺は何もしていないから、感謝される理由などない。
「レイ、あなたの任務は終わったけれどもここに留まる? それとも帰る?」ミサトがレイに尋ねた。その質問に対してレイは少し考えてから「帰る」と、一言強く答えた。
「シンジくんあなたは?」ミサトは俺にも同じ質問を投げ掛けた。
 その質問に対して俺は答えをすぐに出せなかった。本当はこんな戦場にもういたくはない。しかし俺がここを離れてしまってから、もしまた神人が現れたら誰が戦うんだ。アスカはあんな状態だからもうエヴァに乗ることは出来ないだろう。この上、綾波も消えたら、エヴァを操縦出来るパイロットは一人もいなくなってしまう。
「シンジくん、あなたは良くやってくれたわ」俺の気持ちを察したのか、ミサトがそう言った。
「あなたは私達の危機を感じ取ってくれたのね。それでここに戻ってきてくれた。あたしにはそれで充分なのよ」
 俺は自分の意志でここへ戻ってきたんじゃない。ただ成り行きでそうなっただけで、人に褒められるようなことは何もしていない。
「これからのことは何も心配する必要はないわ。あなたは自分の意志でこれからどうするか選べば良いのよ」
 ミサトの言葉は優しかった。俺の脳裏にシェルターで見た仲間の姿が蘇った。彼等は俺を必要としている。そして俺がエヴァンゲリオンで戦うことを望んでいる。どうして彼等を捨ててここから逃げることが出来ようか・・・・・・。
「私達が涼宮ハルヒを残したままこの次元に留まったら、間違いなく彼女は私達を取り戻す為に宇宙全体を改築するだろう。そうなればこの次元は消失する可能性がある。今の私達の仕事は、元の次元へ戻って涼宮ハルヒの精神状態を安定させること」
 ベッドの上の綾波が説得するように真っ直ぐに俺を見ている。こいつがこんなに真剣な眼差しで俺を見つめたことがあっただろうか? でも綾波の言う通りだ。もし俺がここに留まったりしたらハルヒはただでは済まさず、何があっても取り戻しに来るに違いない。そうなったらこの世界は神人か、もっと恐ろしい力で完膚無きまで破壊されるだろう。この世界と、ここの人々を救うことは、俺がハルヒのいる次元に戻ることなのだ。
 俺はそれを理解すると「帰る」と言った。だが、皆を見捨てたわけじゃない。もしこの世界に危機が訪れたら俺は必ず戻ってくる。だから心配しないでくれ、この世界の俺の大切な仲間達よ。
 
 俺を元の次元に戻す作業が始まった。その為の装置は人口進化研究所の中にあった。人が立ったまま入れる透明な大きな円筒形の水槽、そこに無数のパイプやコードが接続されていて、隣のコントロールルームにそれを操作する様々な装置が置かれている。さすがに長門のマンションの浴室のようなお粗末な代物ではなさそうだが、水の中に全身を漬けるところは同じようだ。
 ここで俺の頭の中に一つの疑問がもたげてきた。それは今俺がいる次元と、元の次元の時間の流れが同じなのか? ということだった。
 昔SF小説で読んだことがある。双子の兄が宇宙飛行士となり、光速エンジンを備えたロケットで銀河を目指す。半年後に地球に帰ってくると、弟は死んだ後だったという話だ。俺が元の世界へ戻った時、どれだけの時間が過ぎているのか見当も付かない。俺は浦島太郎になってしまうかも知れない。
 俺はその不安をこっそり綾波に告げた。彼女の答えはただ一言”大丈夫”だった。何が大丈夫かは分からないが、もし未来へ戻ってしまったなら朝比奈さんを探し出して時間遡航をしてもらい、元の時間平面へ戻ればいい。もしもその時、朝比奈さんが大人バージョンになっていたら、それはそれで楽しみだ。本件には彼女も絡んでいるのだから、その位の面倒は見てくれるだろう。俺はそう考えてこれから起こることに不安を感じるのを止めることにした。
 司令室からマヤとマコトがオペレーターとして現れ、コントロールルーム内の装置を手慣れた様子で確認している。その一つにでも不具合があったら帰還は失敗しかねない。真剣な表情でチェックは続けられる。俺達が送り込まれる次元の方向を慎重に何度も計算し直して、データを装置に打ち込んでいく。入力するとパソコンの画面上で、何度もテストを繰り返す。
 最終チェックが終わると転送準備は完了し、大量の溶液が容器内に注がれた。最初に俺が転送されることになった。こんな装置で本当に元の世界へ戻れるのか? もし失敗したらどうなるんだ? いざやるとなると、やはり怖さが募る。
「大丈夫、全てMAGIシステムによってコントロールされている。失敗はあり得ない」綾波は表情を変えずそう言った。
「でも100%じゃないだろ」
「100%大丈夫」綾波のこの自信は一体どこから来るんだ。「大丈夫、もし失敗したら死ぬだけだから」
 ”死ぬだけ”だと、やけに簡単に言ってくれるよ。お前はスペアが幾らでもあるから死ぬことが怖くないかも知れないが、俺にはそんな物ないんだよ。
 不安を絵に描いたようにオドオドする俺の前にミサトがやってきた。今のミサトはきつい性格と、鋭い視線を隠して、優しい母親のような穏和な目付きをしている。元からこんな優しい性格を持っていたら彼女は結構モテたに違いない。
「シンジくん、戻ってきてくれてありがとう。この世界を救えたのはあなたのお陰よ」
 ミサトが俺の首回りに腕を回して抱きしめてきた。大人版朝比奈さんとはまた違う大人の色気が感じられる。でも俺はこういう状況の時、どう対応すれば良いのか分からず困った。頬が赤らんでくる。ミサトはしばらく目を閉じて俺を抱きしめていたが、腕をゆっくり解くと、「気を付けて・・・・・・」と、耳元で囁いた。
「シンジくん、ありがとう」背後で声がした。振り返ると、伊吹マヤが俺を見ていた。その視線はとても温かかった。
「ありがとう」
 日向マコトが続けて俺に礼を言った。ここの人達は優しい人ばかりだ。一瞬再びここに留まろうかと思ったが、すぐに考えを改めた。今の俺が住む世界はここではない。俺は谷口や国木田、北高の連中、そして身勝手な団長様がいる世界の住人なのだ。みんな待っていろよ、俺はもうすぐお前達のところへ帰るからな。
「さあ、シンジくん服を脱いでタンクの中に入って」
 物思いに耽けていた俺にリツコが指示をした。服を脱ぐって裸になることかい・・・・・・。現実に戻らさせれて少々面食らった。
「生体以外の物は転送出来ないわ。早く余分な物を取ってくれない」リツコが催促する。
 ”余分な物って・・・・・・”服が余分な物かよ。まあここまで来たら何でもやってやると、開き直って上着を脱ぎ、下着に手を掛けてハタと気が付いた、皆の視線が注がれていることに・・・・・・。なあ俺にも羞恥心があるんだよ。ちょっと向こうを見ていてくれないか。
 言っても無駄だった。俺は皆の好奇の視線(俺が勝手に思っただけかも知れないが)を感じながら全裸になると、水槽に入る為の梯子を上った。
「この水槽の中にはエヴァのエントリープラグと同じLCLが充填されているから、肺呼吸が出来るわ。恐れずに液体を吸い込みなさい」リツコが俺の後ろ姿にそう言った。
 ”それなら大丈夫だな”俺は容器の上から思い切って足から中へ飛び込んだ。生ぬるい液体だった。確かにこれは色といい、感触といい、エントリープラグに注がれていた物と同じだ。俺は全身を伸ばしたまま容器の底まで沈むと、液体を思い切り吸い込んだ。最初は蒸せるが、その後すぐに呼吸が出来るようになる。経験済みとはいえ、不思議な液体だ。容器に隙間なく液体が注がれると、上部の蓋が閉じられた。皆が部屋から出て、隣のコントロールルームへ移動した。
「シンジくん始めるわよ」液体を伝ってコントロールルームのリツコの声が耳に響く。
 急に下から強烈な照明に照らし出されて、周りの様子が何も見えない。コントロールルームの窓から見ている者達には、オロオロする俺の姿は随分無様に見えただろう。
 低い振動音、耳に超音波のような甲高い音も聞こえる。色々な音が混じった不協和音が俺の不安を益々煽る。
「準備は良い?」リツコがMAGIコンピューターの末端機の前に座る、マヤとマコトの方を振り向いて尋ねた。二人は静かに頷いた。
「それじゃカウントダウンを始めて」
「はい、先輩」マヤは答え「十・九・八・七・六・・・・・・」と、数字を唱えた。
 マヤのカウントダウンは俺の耳にも届いていた。三・二・一。その声が最後だった。凄まじい電気の閃光が走った。その瞬間、落雷に直撃されたような衝撃に身体が吹き飛ばされそうになり、激痛に意識が遠のく。成功したのか? それとも・・・・・・。俺の意識は暗黒の奥へと吸い込まれていった。