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目が覚めると、見覚えのある天井が目に入った。天井を走る配管や染み、ここは間違いなく病院だ。それも古泉の親類が理事長を務めるという病院に違いない。
ふと音のする方向に視線を向けると、古泉が果物ナイフで林檎の皮を剥いている最中だった。”デジャヴ”いつか見た光景と同じ物がそこに存在していた。
「やっと目覚ましたか」古泉が口元にニヤついた笑みを浮かべてそう言った。この病室には俺と古泉しかいないようだ。
”俺は寝ていたのか?”声を出そうとしたが、酸素マスクや体中にコードが繋がれて、身動きが取れない。心電図の規則正しいパルス音が耳に届いてくる。俺が何かを言いたがっているのを悟って、古泉が口のマスクを外してくれた。
「俺は寝ていたのか?」やっと声を発することが出来た。
「そうですよ。ご自宅の浴室で溺れて三日三晩昏睡状態だったんです」
自宅の風呂で溺れたって・・・・・・? まさに寝耳に水だった。俺はお前に携帯で呼び出されて長門のマンションへ駆け付けた。そこでお前達に溺れさせられたんじゃないのか。何て白々しい嘘を付くんだ。
「随分と頭が混乱しているようですね。無理もありません。溺れた時、脳への血液供給量が低下したので一時的に記憶が飛んでいるんですよ。大丈夫です、少しすれば元に戻るでしょう」
古泉は新しい林檎を手にすると、皮を剥きながら俺の身に起きたことを詳しく語ってくれた。
奴の話では俺は自宅の風呂でうたた寝をしてしまい、そのまま浴槽へ潜り溺れたらしい。信じられないかもしれないが、溺死の原因で一番多いのは海や川で溺れることではなく、自宅の風呂で溺れることだそうだ。風呂の湯温で血圧が大きく変動して、一時的に意識障害を起こし、そのまま浴槽で溺死する。俺の場合も深夜に帰宅し、風呂に入っていて同じ状況に陥ったらしい。
「連日のバンド練習で随分疲れていたのでしょう」古泉はもっともらしい理由を付けた。
あいにく両親が生命保険会社主催の宴会旅行に出かけていて、家には妹しかいなかった。妹は風呂から出るのが遅い俺を心配して見に来ると溺れていたらしい。か弱い手で俺を浴槽から引き上げて途方に暮れていた時、SOS団のことを思い出した。妹は何度か俺達と旅行に出かけていたから皆のことを覚えていたのだろう。
妹は机上の俺の携帯を開いて夢中でボタンを押したらしいが、運の良いことに連絡先はあいうえお順になっていて、朝比奈さんの番号が一番上だった。電話に出た朝比奈さんが妹を落ち着かせて、すぐに古泉に連絡を取った。
古泉はすぐに親類が理事長をするこの病院に連絡し、救急車が即座に俺宅に到着。応急処置が良かったらしく、俺の心臓は止まっていなかった。それから三日三晩、懸命の治療の甲斐があり、俺は今目覚めたらしい。
実に良く出来た話だが引っかかることが二、三ある。あの不安の塊で出来ているような朝比奈さんが妹を落ち着かせられるのか? 話を聞いた途端に本人が狼狽してしまうような気がする。
それに応急処置って、そこには妹しかいないわけだし、一体どんな応急処置をしたんだよ。我が家にはAEDなんか常備していないぞ。その辺りのことは古泉も「本人じゃないので」と、歯切れの悪い回答しか返ってこなかった。
古泉の話を信じれば夢だったような気がするのも確かだ。でも余りにもリアルな夢を見ると、それが本当に夢であったのか判断が付かない。エヴァンゲリオン、神人、綾波レイ、惣流・アスカ・ラングレー、累々とした屍・・・・・・。あれが夢だったとはとても思えない。
古泉がカルテを見せてくれた。そこには三日前、俺がここに急患として運び込まれ、蘇生処置を施された旨が記入されていた。
”やはり夢なのか・・・・・・”今はそう信じ込むしかなさそうだ。
高濃度の酸素を吸わされていたせいか、それとも栄養剤のブドウ糖の点滴のせいなのか、自分が病人とは思えないぐらい頭が冴え、身体が軽く感じる。
俺は古泉に夢で見た物を詳細に話してやった。話を聞く奴は顎に指を重ね、思考をしながら時たま頷き、無言で俺の話に聴き入っていた。
三十分は話し続けただろうか。良く自分でもこんなに長く話せるものだと驚いたが、それをじっと聴いている古泉にも感心した。俺の話が終わって古泉は初めて口を開いた。
「以前僕があなたに話した内容を覚えていますか?」
さてどんな内容だったかな・・・・・・? ううん、思い出せない。
「僕が別次元へ行って涼宮さんに似た人に会ったという話ですよ」
そういえばそんな話があったな。今ならそれが惣流アスカ・ラングレーという女で、乗っていたのがエヴァンゲリオン弐号機だったと分かる。
「その話があなたの潜在意識下で膨らみ、まるで現実であったかのような妄想を生み出したんですよ。あなたは馬鹿げた話だと気にも留めませんでしたが、本当はとても関心があったんじゃないですか」
あの時はふざけた与太話だと相手にしなかったが、今はそう思わない。
「もしそれが事実だとしたら驚くべき話ですね。あなたは過去に時間旅行をし、今度は別次元を旅した。これはアポロ十一号が霞んでしまうような人類史上の偉業ですよ」
古泉の口元が緩むのを見て、こいつは俺の話を馬鹿にしながら聞いていたと分かり、腹が立ってきた。
「いえ、すみません。あなたのお話が余りに面白かったので、夢中で聞いてしまいました。あなたにはSF作家になれる素質があるんじゃないでしょうか」
殴るぞお前・・・・・・。本当に殴りたくなってきた。
「でもあなたと長門さんが別次元でも同一人物で、涼宮さんのコピーが惣流アスカ・ラングレーだとしても、その次元に僕はいなかったのですか?」
古泉は笑みを絶やさずそう尋ねた。まるで自分が俺の夢の中で活躍、いや暗躍していなかったのが不満そうな口振りだ。
ああ、お前のコピーはいたよ。でも俺がエヴァンゲリオンで握り潰してやった。”渚カオル”ってのがお前のコピーさ。確信はないけどな。でも握り潰したなんてことを口に出せるか。
「お前の話が本当だとしても、毎晩閉鎖空間とやらが現れて、バイトが大変だったんじゃないのか?」馬鹿らしかったが、俺は一応尋ねてみた。
「いえ、それほどでもありませんでした。涼宮さんはあなたの事故を自分のせいだと随分気にされましてね。何しろあんな言い争いをした後でしたから。でもそのお陰で精神状態が逆に沈静化されて、神人の発生は抑えられました」もっともらしい口振りで古泉は言った。
神人の発生が抑えられただと・・・・・・。夢の中とはいえ、俺が無数の神人と戦っていたというのに、呑気なもんだな。
「さて、そろそろ根本原因のお方がお戻りですよ」病室のドアに開けられた長方形の磨りガラスに人影が映り、古泉は会話を止めた。
ドアが開くと、そこに立っていたのは実に久し振りに思えるハルヒの顔と、呆然とした朝比奈さんの姿だった。
「キョンくん・・・・・・」思わず朝比奈さんの瞳から涙がこぼれ落ちた。
俺の為に泣いてくれるなんて感激以外の何物でもない。胸に抱いた百合の花を活けた花瓶がとても可憐ですよ。
「二人は昨夜からずっとあなたに付き添っていてくれたんですよ」古泉が答えた。
「あんた、目が覚めたんならすぐにあたしに言いなさいよ!」早くも我が儘さ全開のハルヒの言葉と顔を見ていると、余りにアスカと似ていて笑いたくなった。
「笑っている場合じゃないでしょ。今度笑ったら死刑だからね」
人差し指を俺に突き付けてハルヒは言い放った。死刑は嫌だったがやはり笑ってしまった。
「もう・・・・・・」ハルヒは呆れたように腰に両手を付けて仁王立ちしたまま、俺の笑い顔を苦々しく見ていたが、急に破顔して一緒に笑い出した。意識を取り戻しても、明日一日精密検査があるとかで、すぐ退院にはならなかった。まあ死にかけていたのだから、そう簡単に解放はされんわな。古泉の話では俺が病院に運ばれてからの二日間は、長門が俺に付き添っていてくれたという。ハルヒと朝比奈さんに引き継ぐ形で長門は帰っていったらしい。
俺は長門に会いたかった。あいつなら俺の夢が現実なのか、ただの夢だったのかを教えてくれるはずだ。皆が帰った後の深夜の病室で俺は一人起きていた。十二時が過ぎた頃、病室の扉が音もなく開き、非常灯の明かりが部屋に射し込んできた。誰が来たのかはすぐに分かった。ベッドの脇に存在感の薄い人影が立っている。
「遅かったな」俺は人影に向かってそう言った。人影は何も言わず俺を見ている。
「綾波レイでいいのか」俺は尋ねてみた。
「ここでは長門有希が正しい」
「そうか・・・・・・」
俺は長門の言葉で自分の身に起きたことが現実であったのだと悟った。
「古泉は妄想だと言っていたが、俺は本当に別次元へ行っていたのか?」改めて俺は訊いてみた。
「そう、あなたは五十六時間と二十六分三十三秒、別次元へ移動していた。正確にはあなたの精神がといった方が正しい」淡々と長門は答えた。
古泉の言うことより、長門の言うことの方が信じられる。俺の見た物、経験したことはやはり事実だった。
「ということは俺はお前のマンションで溺れさせられたのか」
「そう」長門は肯定した。
さすがに自分が殺されかけたのだと知ると驚かざる得ない。
「こちらの移送装置はエネルギー量が少な過ぎる為、あなたの肉体を別次元へ移動させることは出来ない。そこであなたの肉体と精神を切り離して別次元へ移動させ、向こうの世界のあなたの生体と融合させた」起伏のない口調で長門は説明した。
「精神とは初めて聞いた。良く分からないが、それは幽体離脱のようなことなのか?」俺は質問した。
「そう、それに近い」
長門の説明を聞いて俺には引っかかることがあった。向こうの生体ってあちらにも俺の肉体があったのか?
「それについてあなたは詳しく知ることを許されない」
何故だ。何故、俺が知ってはいけないんだ? 俺は問い掛けた。
「それを知ると、あなたの精神に異常をきたす可能性があるから、答えられない」
頑なに長門は俺の問いに答えなかった。気になって仕方がないが、俺がどれだけ問い詰めようとも、こいつは絶対に答えないだろう。まあ宇宙人には宇宙人なりの規則や法則があるのだろう。すべてのオチがつくときにきっと誰かが教えてくれるさ・・・・・・。俺はそう考えて、これ以上このことを追求するのは止めた。
「分かったよ長門。でもこれは答えられるか?」俺はもう一つ気になったことを尋ねた。
「何?」
「俺が幽体離脱していたとして、その間俺は死んでいたということなのか?」
「そう、ここで生命維持装置に繋がれて、肉体が死なないようにしていた」
「何だって! 何て危ないことをしてくれたんだ。一歩間違えたら本当に死んでたぞ」
「あなたには申し訳ないと思ったが、それしか方法がなかった」
長門の口調にすまなさが感じられた。それは俺以外の誰も気が付かないような僅かな起伏に違いないが、今の俺はその低い起伏を感じ取れるようになっていた。
長門がこんな滅茶なことをしたんだ。こいつにとっても切羽詰まっていたのだろう。俺は長門に何度も命を救われた。だから一度位、長門に殺され掛けたといって怒る理由にはならない。常人じゃ考えられない思考だが、今の俺はそう考えることが普通に出来るようになっていた。
俺は長門を許した。こいつを信用する以外に今の俺に何が出来る。長門は銀河、いや別次元の宇宙を含めても、俺が唯一心服出来る存在なんだから。
「なあ長門、あのアスカという女は大丈夫なのか?」
俺は過去を失ったアスカが、今後もあの世界で生きていけるのか心配だった。
「大丈夫。アスカは過去に母親の自殺を目撃してから、それが大きなトラウマになっていた。そのことも含めて過去の記憶を完全に失ったことで、今後大きなフラストレーションは発生しないと思われる。彼女はこれから普通の人間として生きていける。それはアスカにとってとても都合の良いこと」
良くは分からないが、アスカはこれからも生きていけるようで安心した。あのミサトという女が、今後も彼女の面倒を見てくれるのだろう。
「俺はまたあの世界へ行くことがあるのか?」俺はもう一つ疑問を投げ掛けた。
「それは分からない。そうならないように私は涼宮ハルヒの監視を続けている」
「お前達の監視システムに俺も組み込まれているということだな」
「違う」長門が否定した。
「違うって・・・・・・」
「あなたはもっと重要な存在、監視役なんかじゃない」
これ程明瞭な長門の否定文は、久し振りに聞いたような気がする。
「あなたにはとても感謝している」
「何に?」
「あなたのお陰でこの宇宙も別次元宇宙も救われた。それはあなたにしか出来なかったこと」
長門はそう言ったが、実際は違う。あの時こいつが自分の命と引き換えにアスカの精神を破壊しければ宇宙は救われなかった。俺は知っている。一番の功労者は長門、お前だよ。でも俺はそれを告げなかった。こいつはそんなことを言われて誇らしげにする奴じゃないからな。だから俺は、
「そうかい、それは良かったな。死にかけた甲斐があったってもんだ」と、冗談めかして笑った。
長門はそう言う俺をじっと見つめていた。その表情はいつもの平坦なものだったが、何か想いがあるように感じられた。そして長門はゆっくりと言葉を選ぶようにこう言った。
「本当に・・・・・・。ありがとう」